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契約

敵わない。

それは、道満にも分かっていた。


洞の中央で身を丸めたままこちらを見る龍は、静かだった。

威圧はない。

殺気もない。

ただそこに在るだけで、山ひとつ分の静けさを抱えている。


だが、分かる。

勝てぬものは、見れば分かる。


術で縛れるかどうか。

奪えるかどうか。

喰えるかどうか。

その見極めを誤るほど、道満は愚かではない。


目の前のものは、今ここでどうこう出来る相手ではない。

力で捻じ伏せるには、あまりにも大きい。


ならば、取るべき手は別だ。


道満は龍の赤い視線を正面から受けたまま、ゆっくりと膝を折った。


岩の床へ片膝をつく。

頭は下げない。

だが礼は失さない。


敵わぬ相手へ礼を尽くすのは、屈したからではない。

欲しいものを得るためだ。


道満は視線を外さず、口を開く。


「力を授けろ」


洞に、低い声が落ちる。

水滴の音が止まったように静かだった。


「神よ」


静かな龍の赤い目が、瞬きもなく道満を見ている。


「貴様の力を、私へ寄越せ」


言葉に迷いはない。

恐れもない。

ただ真っ直ぐに、欲を差し出す。


「代償は払う」


湿った石の冷気の中、声だけがまっすぐ響く。


「何でも払おう」


山の神へ。

人ならざるものへ。

理の外にあるものへ。

道満は、願いではなく交渉を差し出した。


「貴様の力が要る」


頭は垂れない。

請う姿勢でありながら、声音だけはあくまで対等に近い。


「血でも、名でも、魂でも構わん」


赤い双眸を見返す。


「対価が必要なら、くれてやる」


洞は静かだった。


水が落ちる。

遠くで雫が石を打つ。

その音だけが、やけに大きく響く。

 

龍はしばらく動かなかった。

白い巨体は丸めたまま、赤い目だけが道満を見ている。

 

その視線のまま、龍は僅かに頭を持ち上げた。

白銀の鱗が、洞の淡い光を受けて微かに揺れる。


龍は道満を見たまま、わずかに首を傾ける。

考えるように。

値踏みするように。


ほんの僅か、時間が止まる。


次の瞬間だった。

龍の輪郭が崩れた。

白銀の鱗が、音もなくほどける。


一枚。

また一枚。

連なっていた鱗が、白い光の粒となって剥がれ落ちる。

長い胴がほどけ、尾が解け、巨大な骨格が音もなく崩れていく。


砕けるのではない。

散るのでもない。

ほどける。


白い鱗は光の欠片となって宙へ舞い、薄く散り、洞の冷えた空気へ溶けていく。

巨大な龍の輪郭が、光の中で細く縮む。

長い身は人の形へ折り畳まれ、白い尾は裾へ、角は黒髪へ、鱗は白い衣へ変わっていく。


光が落ちる。

そこに立っていたのは、人の姿をしたこはくだった。


白い着物。

黒髪。

赤い目。


龍の気配だけを、そのまま人の形へ押し込めたような静かな姿。

何も言わず、洞の中央に立って道満を見下ろしている。


龍の巨体が消えたことで、今までその奥に隠れていたものが露わになる。


道満の視線が、その向こうへ流れた。

洞の最奥。

岩肌へ食い込むように、木造の社があった。


山の内部に不釣り合いなほど静かな、小さな神社だった。

古びている。

だが朽ちてはいない。

岩壁を背に、洞の奥へはまり込むように建てられ、湿った石の中でそこだけが異質に静まっている。


木の柱。

低い軒。

閉じた扉。

人の手で作られたものが、山の腹の中に息を潜めていた。


龍はそこにいたのではない。

そこへ、還っていたのだ。


龍から人の姿になったこはくは何も言わなかった。

赤い目で道満を見下ろしたまま、ただ一歩、前へ出る。


その足が岩床へ触れた瞬間だった。

洞の床に、光が走る。


淡い。

だが確かな光だった。


こはくの足元から、薄く白い線が音もなく広がっていく。

水が染みるように、岩の上を這う。

複雑に、静かに、迷いなく。


道満の目が細まる。


線は円を描いた。

その円の内側へ、さらに細い線が幾重にも重なっていく。

見たことのない紋。

知らぬ文字。

理に沿っているのに、理の外にある構造。

術式のようでいて、術式ではない。

呪であり、呪でない。


円は広がる。


こはくの足元から伸びた陣は、岩床を滑り、道満の膝元まで届き、さらにその足先を呑み込むように広がった。

洞の中央一帯を覆うほどの巨大な陣が、静かに淡く脈打っている。


道満は息を止めた。

見たことがない。


契約の術は知っている。

使ったこともある。

縛る術も、名を喰う術も、魂を担保に取る術も。

だがこれは、そのどれとも違った。


構造が違う。

理屈が違う。

根から別物だ。


道満の知る契約は、人が人を縛るためのものだ。

名を刻み、対価を定め、主従を結び、術式で拘束する。


だが、目の前のこれは違う。


縛る形をしていない。

奪う形でもない。

主従を刻む構造ですらない。


もっと根本的な、何かだ。


「……初めて見るな」


道満は低く呟いた。

答えはない。


こはくは静かに陣の中央へ立っている。

白い着物の裾が、淡い光の上へ落ちていた。


代償は提示されない。

条件もない。

文言もない。

何を差し出せとも言わない。


ただ、陣だけが在る。

それが、道満にはむしろ愉快だった。


口元がゆっくり歪む。

対価を並べ立て、脅しのように条件を積む契約ではない。

払えるかと問うことすらしない。

払う前提で、立たせている。


道満は笑う。


「随分傲慢だ」


低く、喉の奥で笑った。


「嫌いではない」


こはくが、静かに片手を持ち上げる。


白い掌。

その指先が、何の躊躇もなく反対の手の爪で裂かれる。


薄く皮膚が開き、赤が滲む。

鮮やかな血が、白い掌を伝った。


一滴。


こはくはそのまま、掌を陣の上へ傾ける。

血が落ちる。


赤い雫が、淡く光る陣の中央へ落ちた瞬間、白い線が微かに脈打った。

まるで息を吸うように、陣全体が一度だけ明滅する。


それを見て、道満の口元が深く歪む。

なるほど、と心の内で笑う。


代償は言葉ではない。

先に差し出すのだ。


力を得る前に、払う覚悟だけを見せろということか。

道満は鼻で笑った。


「ふん」


膝をついたまま、迷いなく自らの指先を噛み切る。


皮膚が裂け、鉄の味が広がる。

滲んだ血が、指先を伝う。


その赤を見下ろし、道満は喉の奥で笑った。


「良いだろう」


こはくを見上げる。

赤い目を真っ直ぐ見返し、道満は血の滲む手を陣へ差し出した。


「何でもくれてやる」


血が落ちる。

赤い雫が、こはくの血の隣へ落ちた。

その瞬間、陣が深く光った。


血が落ちた瞬間、陣が脈打った。


白く淡く光っていた線が、ひときわ深く明滅する。

洞の空気が震える。

足元の岩が、低く唸るように鳴った。


契約が、結ばれる。

音ではなく、感覚でそれが分かった。


陣を構成していた無数の線が、一斉に色を変える。

白が沈む。

淡い光が落ち、代わりに底から滲むような黒が浮かび上がる。


次の瞬間、陣が燃えた。

火柱ではない。

轟音もない。


足元の術式、その線そのものが、音もなく黒く燃え上がる。


白い光で描かれていた円も紋も文字も、端から黒い炎へ変わっていく。

岩床に刻まれた術式がそのまま炎へ転じたように、線の形を保ったまま黒く燃える。


炎は熱を持たない。

だが、空気がひどく重くなる。


黒い火は陣を焼き尽くしながら、中央へ向かって走った。


円を巡り、紋を舐め、文字を喰い、消えながら収束していく。

消失ではない。

還流だ。


燃えた術式が、そのまま力へ変わっていく。


黒い炎はこはくの足元で一度脈打ち、次の瞬間、道満へ走った。


道満の目が見開かれる。


足元からだ。

黒い炎が、陣の消える軌跡そのままに、道満の足へ絡みついた。


「——」


声が詰まる。


炎は熱くない。

だが、熱よりも明確だった。


足首へ巻きつく。

脛を這う。

膝を登る。

衣の裾を舐め、脚を、腰を、背骨を、胸郭を、音もなく黒い火が駆け上がる。


息が止まる。


焼かれてはいない。

だが侵される感覚だけが、骨の内側へ直接這い込んでくる。


「……っ」


喉が鳴る。


黒い炎が背を這い、肩を越え、腕へ落ちる。

指先まで一気に駆け抜け、道満の右腕へ集中する。


道満は思わず片手を持ち上げた。

黒い火が、その掌へ集まっていく。


指の間。

掌の中心。

血の滲んだ指先へ、黒い炎が渦を巻く。


火が、宿る。


道満は掌を見る。

黒い炎が揺れていた。

煙もなく、熱もなく、ただ黒い火だけが、己の掌で静かに燃えている。


理解より先に、分かった。

扱える。

それは確信だった。


これは借り物ではない。

預けられただけでもない。

今この瞬間、己の手で振るえる火だと、本能が理解する。


指をわずかに閉じる。

呼応するように、黒い炎が揺れた。


開く。

炎が指先で形を変える。


従う。


道満の喉が震えた。

息が漏れる。

次いで、笑いが漏れた。


短く。

抑え損ねたように。


「……は」


喉の奥で、小さく笑う。

肩が震える。


掌の黒い火を見つめたまま、道満の口元がゆっくり吊り上がる。


「は、……っ」


耐えきれず、短く笑いが零れた。


「はは……」


喉の奥から、高く、短い笑いが漏れる。

抑えたつもりのそれは、すぐに滲んだ。


「は、ははっ……!」


愉快だった。


あまりにも鮮やかだった。

あまりにも容易く、あまりにも深く、己の内へ収まった。


喉の奥から、堪えきれぬ高笑いが短く弾ける。


「ははッ——!」


洞に笑いが響く。


山の腹の奥、神の棲処で、道満は黒い炎を掌に灯したまま笑っていた。


喉の奥で滲んだ笑いをひとつ飲み込み、指を閉じる。

呼応するように、掌の黒い火が小さく揺れ、音もなく沈んだ。


消えたのではない。

落ちたのだ。

己の内へ。


道満はゆっくりと立ち上がる。


片膝をついていた足を戻し、衣の裾を払う。

洞の冷気が袖を撫で、湿った石の匂いが肺へ落ちる。

それでも今は、何もかもが軽かった。


黒い火は手の内にある。

扱える。

振るえる。

己のものとして使える。


それだけで十分だった。


道満は掌を見下ろし、口元を歪める。

それから、洞の中央に立つこはくを見た。


白い着物。

黒い髪。

赤い目。


龍の気配をそのまま人へ押し込めたような姿が、ただ静かにこちらを見ている。


道満は喉の奥で笑った。


「貴様、随分と気前がいいな」


黒い火の残滓がまだ指先に残っている。


「後で惜しくなっても知らんぞ」


赤い目は、瞬きもなく道満を見る。

答えはない。


だが道満は構わなかった。

唇の端を吊り上げ、愉快そうに続ける。


「良いだろう」


掌を軽く握る。

内側で、黒い火が応じる気配がする。


「貴様が神なら、私はそれを使いこなす人間になってやる」


言い切って、道満は踵を返した。


もう用は済んだ。


欲しいものは得た。

交わすべき言葉も、これ以上はない。


湿った岩を踏み、洞の出口へ向かって歩く。

足音が静かな空洞へ小さく響く。

外から差し込む淡い光が近づくたび、冷えた空気に山の匂いが混じっていく。


振り返らない。


背を向けたまま歩く。

追われることもない。

呼び止められることもない。


ただ、洞の奥から視線だけが背へ落ちている。


こはくは何も言わない。

何も止めない。

ただ静かに、去っていく道満の背を見ていた。


洞を出ると、山の風が頬を打った。


高い空。

薄い雲。

木々のざわめき。

外界の音が一気に戻る。


道満は一度だけ掌を開く。

指先に、黒い火が小さく灯る。

それを見て、喉の奥で笑った。

道満とこはくが契約しました。

道満の平穏な人生の終わりの始まりです。

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