追い詰める
山の空は高かった。
雲は薄く、秋の乾いた風が尾を引いて流れていく。
峰を越える風は冷たく、木々の梢を撫でては、山肌に長いざわめきを残していた。
その空を、龍が飛んでいた。
白銀に近い鱗が陽を弾き、長い身が雲の切れ間を滑っていく。
翼はない。
ただ、空そのものを泳ぐように、しなやかに天を裂いていた。
細く長い尾が雲を払うたび、陽光が鱗に砕け、空の青へ白く散る。
地上から見上げる者があれば、神話の類と見紛うだろう。
だが道満は、ただ目を細めた。
山道の途中、岩肌の露出した斜面に立ち、白い龍を見上げる。
袖が風に煽られ、黒髪が頬を打つ。
細く息を吐き、唇の端だけを吊り上げた。
「……成程」
喉の奥で、愉快そうに笑う。
「そう来るか」
白い龍は高い。
速い。
人の脚で追える距離ではない。
術で足を補っても、あれほどの高度を取られれば視界から外れるのも時間の問題だった。
だが、道満は追うのをやめなかった。
裾を払う。
札を二枚、指の間へ挟む。
短く呪を噛み、指先で切る。
裂けた札から、影が滲む。
黒い鳥だった。
鴉に似ている。
だが肉はなく、羽も影で出来ている。
輪郭だけを持った式が、道満の指先から滑り出る。
一羽。
二羽。
三羽。
影の鳥は地を蹴るように飛び上がり、風を裂いて空へ散る。
「追え」
低く落とす。
「見失うな」
影の鳥が一斉に空へ放たれる。
白い龍の尾を追い、山の上空へ黒い点が散っていく。
道満は山道を蹴った。
土を踏み、岩を越え、木々の合間を縫う。
風が袖を打ち、枝葉が頬を掠める。
地上では追いつけない。
分かっている。
だが足は止めない。
頭上を追う必要はない。
見るべきは、飛ばした式だ。
式神は、術者の目だ。
空の高みを飛ぶ白い影そのものではなく、それを追う黒い影の気配を辿る。
視線ではなく、繋いだ術の糸で空を読む。
龍は尾を返さない。
振り返りもしない。
ただ高く、高く、山の向こうへ消えていく。
やがて、白い影は雲へ紛れた。
空が眩み、龍の姿が視界から消える。
山の稜線の向こう。
白い尾が、最後に一度だけ陽を返し、それきり見えなくなった。
常人ならそこで見失う。
だが道満は止まらない。
視界から消えたところで、追跡は終わらない。
空を追う三羽の式は、まだ生きている。
道満は足を止めず、目を閉じた。
意識を上げる。
飛ばした式の気配を拾う。
三つ。
一つは高く。
一つは右へ。
一つは、下へ沈んだ。
道満の口元が歪む。
「そこか」
龍は消えたのではない。
降りた。
道満は即座に進路を変えた。
獣道を外れ、斜面を横切る。
踏み荒らされていない下草を踏み、湿った土を滑るように下る。
木々が密になり、空が狭くなる。
風の抜け方が変わる。
山の匂いに、冷えた水の気配が混じる。
岩肌が増えた。
地表に露出した石は黒く湿り、苔が張りついている。
鳥の声が遠のき、代わりに水滴の落ちる音が微かに混じった。
式のひとつが、そこで止まる。
道満も足を止めた。
木立の奥。
岩壁に裂け目のような影が落ちている。
洞だった。
山肌に口を開けた、暗い穴。
人の背丈の二倍ほどの高さ。
周囲は岩に囲まれ、枝葉に半ば隠されている。
上空から見下ろさねば気づきもしないような、ひっそりとした洞穴だった。
風が、そこだけ冷たい。
奥から水の匂いがする。
湿った石と、古い土の匂い。
山の気配とは別の、澄んで冷えた何かが流れていた。
道満は洞口の前で立ち止まる。
頭上を旋回していた影の鳥が、音もなく肩へ戻る。
残る二羽も、遅れて闇の前へ降り立つ。
式はここで止まっている。
見失ってはいない。
龍は、この奥へ入った。
道満は暗い洞の口を見上げ、静かに目を細めた。
冷えた空気が、洞の奥から頬を撫でる。
その闇の先に、白い神がいる。
道満は口元だけで笑った。
「……見つけた」
道満は、洞へ足を踏み入れた。
外気より幾分低い冷気が、肌を撫でる。
一歩進むごとに、山の風の匂いが遠のいていく。
代わりに満ちてくるのは、湿った石と、澄んだ水の気配だった。
洞の内は暗い。
だが完全な闇ではない。
天井のどこかに裂け目があるのか、細い光が幾筋も落ちていた。
糸のように細い陽光が、岩肌を白く照らし、落ちた先で淡く砕けている。
水音がする。
一定の間隔で、どこか高い場所から雫が落ち、石を打って小さく響く。
足音は吸われた。
岩に囲まれた空間は静かで、音を返さない。
自分の衣擦れと、滴る水音だけがやけに近い。
道満は進む。
入口から見た以上に、奥は深かった。
狭い裂け目のように見えた洞は、内部で大きく口を広げている。
数歩ごとに空間は広がり、やがて岩の通路はひらけた。
道満はそこで足を止めた。
広い。
思わず、そう思うほどに。
山の内部をそのまま抉り抜いたような空洞だった。
高い天井は薄暗く、見上げてもすぐには輪郭が掴めない。
岩壁は濡れて鈍く光り、幾筋もの水が細く伝っている。
奥には浅い水溜まりがあり、天井から落ちる光を揺らしていた。
その中央に、龍がいた。
白い長躯が、岩床の上で丸く身をたたんでいる。
長い胴が幾重にも重なり、尾が自らの身を囲うように巻かれている。
白銀の鱗は、洞へ差し込む僅かな光を受けて淡く光り、濡れた岩の色の中で、そこだけが静かに浮いて見えた。
眠っている。
長い身は緩やかに沈み、呼吸に合わせて僅かに上下していた。
巨大な頭部は胴へ預けるように伏せられ、顔はこちらへ向いている。
目は閉じられていた。
静かだった。
外の空を裂いていた龍と同じものとは思えぬほど、静かにそこに在る。
牙も爪も見せず、ただ身を丸め、洞の奥で眠っている。
だが、気配は消えていない。
静かであることと、無防備であることは違う。
道満は数歩、前へ進んだ。
岩を踏む音が、浅く響く。
湿った石が靴裏で鈍く鳴る。
その一歩で、龍の呼吸がわずかに変わった。
次の瞬間、閉じられていた瞼がゆっくり持ち上がる。
赤が、開く。
暗い洞の奥で、赤い双眸だけがまっすぐこちらを捉えた。
道満の足が止まる。
龍の目は、最初から起きていたように静かだった。
眠りの鈍さも、起き抜けの緩みもない。
ただ、目を閉じていただけだと分かるほど、澄んだ赤が真っ直ぐ道満を見る。
その視線が、道満を射抜く。
赤い眼差しは動かない。
逸れない。
威嚇もしない。
唸りもしない。
ただ、見ている。
龍は逃げない。
身を起こしもしない。
尾をほどきもしない。
喉を鳴らすこともなく、白い巨体は丸めたまま、ただ赤い目だけで道満を見ている。
追われていたはずの獣が、逃げる気配を一切見せない。
それが、道満にはひどく愉快だった。
口元が、ゆっくりと歪む。
追った。
追わせた。
空を裂いて逃げる背を地上から追い、式を飛ばし、見失わず、山を越え、この洞へ辿り着いた。
そして今、目の前にいる。
逃げない。
逃がさない。
道満は赤い視線を真正面から受けながら、喉の奥で静かに笑った。
——ついに追い詰めた。




