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道満、また逃げられる

灯りは低く、赤かった。

天井から吊るされた火は油ではなく、骨を焼く匂いを薄く混ぜた青白い火で、その上から赤い布が幾重にも垂らされている。明るいはずの広間はどこまでも薄暗く、輪郭ばかりが曖昧に浮いていた。壁は磨かれた石とも、巨大な獣の内臓ともつかない艶を持ち、音は妙に柔らかく吸われていく。杯の触れ合う音、笑い声、爪の擦れる音、肉の裂ける湿った響きだけが、低く散っていた。


社交の場、というには匂いが悪い。

宴席、というには誰も酔っていない。

ただ異形だけが、互いを測り、値踏みし、食うか食われるかを笑いながら選んでいるだけの場だった。


人の世の名を持つなら、立食会とでも呼ぶのだろう。

卓はある。酒もある。肉も果も並ぶ。だが皿に載っているもののいくつかは、まだ名残のように指を持っていた。


道満はその中にいた。


人の気配を削ぐ術を薄く纏い、衣の裾に影を絡め、視線の継ぎ目に身を滑らせる。人であると見抜かれれば、その場で食われる。祓われるより早く、骨ごと呑まれる。ここはそういう場所だった。

下位のものほど飢え、上位のものほど退屈している。どちらに見つかっても、面倒に変わりはない。


広間の隅で、角の生えた女が笑っていた。

反対側では、人の皮を肩から垂らした男が杯を傾けている。

天井近くには鳥とも虫ともつかないものが梁に逆さに張り付き、皿の肉を長い舌で攫っていく。名のあるものも、ないものもいる。祓うには数が多すぎ、観測するには近すぎる。


「……趣味が悪い」


呟きは喉の奥で落とし、道満は視線だけを巡らせた。


いた。


広間の中央からやや外れた位置、赤い布の影が差す柱の近く。

白い気配、白い衣。黒髪。顔の中央には、無地の札が一枚、縦に貼られている。目元から鼻梁を隠すように落ちたそれは、輪郭の認識を曖昧にする術札だ。見ているはずなのに、見た端から印象が滑る。名を持たぬ顔。無名の札。


それでも、分かる。


立ち方で分かった。

気配で分かった。

人の形を取っていても、あれは人ではない。静かすぎる。何もしていないのに、周囲の異形がわずかに距離を空けている。その空白だけで十分だった。


白の気配であるこはくは、白磁の杯を指先で持ったまま、誰と語るでもなくそこにいた。

気まぐれに紛れ込み、気まぐれに眺め、飽きれば消える。ただそれだけの顔をしていた。


道満は人波の外から歩を止める。

袖の内で指を折る。札を一枚、爪の腹で押し出す。小さく、薄い。穿つためではない。目印を付けるための術式。届けば追える。群れに紛れようが、空間を滑ろうが、痕だけは拾える。


狙いを定める。


札に霊が通る。

空気が、わずかに張る。


その瞬間だった。


「陰陽師がいるぞ」


声は近かった。

低く、よく通る声だった。


一拍遅れて、広間の空気が裂ける。


誰かが杯を落とす。

肉皿が倒れる。

笑い声が止まり、次の瞬間には悲鳴に似た怒号が広がった。


「人だ」

「祓い屋か」

「殺せ」

「嫌だ、払われる」

「どこだ」

「逃げろ」


ざわめきでは済まなかった。

異形たちは一斉に散る。上位のものは即座に距離を取り、下位のものは我先に出口へ殺到する。祓われることへの恐怖は、本能に近い。食らうより先に消える。爪が石を裂き、翼が布を千切り、梁の上のものが一斉に跳ぶ。数百の気配が一度に崩れ、広間は瞬く間に濁流じみた混線に変わった。


「……面倒だな」


道満は舌打ちもせず、札を放る。

目印の術は人波――いや、異形の群れに呑まれて消えた。


視線の先、白が動く。


こはくは騒ぎの中心で、ほんのわずかに顔を上げた。

札に隠れた顔の奥、赤い目だけが一度こちらを見る。


それだけだった。


次にはもう、人波へ紛れている。


追う。


道満は押し寄せる異形の肩を避け、爪を躱し、滑るように広間を裂く。

喰おうと伸びた口を札で黙らせ、絡む腕を影で断ち、白い衣の残像だけを追う。柱の向こう。布の陰。階の段差。見えたはずの背が、次の瞬間には別の異形の影に溶けている。


近い。

見えている。

それでも届かない。


白い袖が揺れた。

追う。

角の生えた女が割り込む。払う。

その先にいたはずの白が、もういない。


梁の上。違う。

階下。違う。

出口脇、白い影――違う。


術札の気配も拾えない。

最初の一手を崩された時点で、もう追跡の形が壊れている。


広間はなお混線していた。

異形は逃げ、叫び、喰らい、踏み合い、天井の火がひとつ落ちる。赤い布が燃え、煙が降りる。視界がさらに濁る。


その中で、白だけが綺麗に消えていた。


道満は足を止める。

広間の中央、崩れた卓の傍で、ゆっくり息を吐く。


追えないのではない。

追わせるだけ追わせて、最後に見失わせる。最初から、そのつもりで立っていた。


焼けた布が肩先に落ちる。

道満はそれを払うこともせず、視線だけを巡らせた。


もういない。


「……またか」


呟きは小さい。

怒りはない。焦りもない。ただ、いつものように手の内だけ外される。


喧騒の奥、どこかで誰かがまだ叫んでいる。

陰陽師だ、祓われる、逃げろ、と。


道満は袖に手を戻し、崩れた広間を一瞥した。


「……お前は、こういう時だけ足が早い」



---


 

崖の上は風が強かった。

切り立った岩肌の縁、踏み固められた土の上に立てば、足元から吹き上がる風が狩衣の裾を絶えず揺らす。眼下には深い森が広がり、枝葉の重なりは濃い緑の海のように波打っていた。木々は高く、谷は深く、獣道ひとつ見えぬほど密だったが、そのさらに上だけがひらけている。森の天蓋、その上を、ひとつ赤が跳ねていた。


赤い和傘だった。


陽を透かす薄い赤が、深い緑の上を滑るように移る。

ただ流れているのではない。跳ねている。枝の上を渡るでもなく、風に乗るでもなく、空を踏んでいた。


その下に、白。


人の形をしている。

白い衣、黒い帯、高下駄。小さな影が、赤い傘を差したまま森の上空を跳ねていく。高下駄の歯が空を蹴るたび、乾いた音もなく身体が軽く浮き、あり得ぬ距離をひと息に越える。木々の梢を遥か下に置いたまま、白い影だけが一定の調子で森の上を渡っていった。


道満は崖上に立ったまま、弓を引いた。


矢羽が風に鳴る。

鏃のすぐ下、細く切った拘束札が幾重にも結ばれている。射抜くためではない。触れた瞬間に札をほどけさせ、呪を絡め、動きを縫い止めるための矢だ。足を止められれば、それでよかった。


弦が鳴る。


矢は風を裂いて飛んだ。

崖上から森の上空へ、落ちることなく一直線に白を射抜く。


当たる、と思った。


その瞬間、遠くの白がわずかに顔を上げた。


矢は頬先を掠めることもなく、空を切って抜けた。

白い影はただ一歩、空を踏み直しただけだった。高下駄の先が見えぬ足場を蹴り、身をずらす。たったそれだけで、矢は空しく後ろへ流れていく。


気づかれた。


遠いはずの距離で、それが分かった。

白がこちらを見た。


次の瞬間、逃げるかと思ったそれは、逆に進路を変えた。


赤い和傘が傾き、白い影が跳ねる。

森の上を、今度はこちらへ向かってくる。変わらぬ軽さで、まるで面白がるように。高下駄が空を蹴るたび、白は枝葉の海の上を軽く跳ね、距離だけが急速に縮んでいく。


道満は動かない。


二の矢を番える。

弦を引き、放つ。風切り。三の矢。四の矢。間を置かず、拘束札を結んだ矢を続けざまに空へ放る。


矢は正確だった。

落ちる先、跳ねる先、踏み切る間を読み、白の進路へ先回りして射抜く。枝の上を走る獣より速く、鳥よりも鋭く、空を縫うように札付きの矢が走る。


だが、当たらない。


白は跳ねる。

ひとつ身を傾け、ひとつ傘を返し、ひとつ足場をずらす。それだけで矢は外れる。避けているというより、最初からそこへいない。こちらが射抜いた先から、するりと零れていく。


近づいてくる。


矢を放つたび、距離が詰まる。

白い衣の輪郭が見え、黒帯の結びが見え、赤い傘の骨が見える。まだ小さい。だが、確実に近い。


五の矢を外した時には、もう顔が見えた。


白は一歩高く跳ねた。

赤い傘を差したまま、森の上から崖へ届く高さまで、軽々と身を持ち上げる。ひと跳ねで崖縁へ届く軌道。そのまま真っ直ぐ来るかと思った白は、寸前でわずかに足先を返した。


風が鳴る。


白い影が、道満の頭上を越えた。


袖が風を打ち、白が視界いっぱいを掠める。

近い。今までで最も近い距離だった。白い衣の擦れる音すら聞こえそうなほど、近い。


その一瞬で、顔が見えた。


幼い輪郭。

静かな顔立ち。感情の薄い、ひどく整った貌。人に似て、人でないものの静けさがそのまま形になったような面差し。


赤い瞳が、真っ直ぐこちらを見ていた。


確かに、目が合った。


道満の指が止まる。


ほんの一瞬、矢を継ぐ手が遅れる。

息が止まるほどでもない。ただ、次の一手へ移るまでに、ごくわずかな空白が生まれる。


白はそのまま崖の向こうへ着地した。

高下駄が岩を打つ、乾いた硬い音がひとつだけ鳴る。


道満が振り返る。


赤が開いた。


和傘だったものが、空気を裂いてほどける。

骨が軋み、布が裂け、赤い円が巨大な翼へ変わる。傘骨は骨格へ、柄は長い尾へ、布は膜翼へと歪み、白の背後で一息に異形の輪郭を取る。


飛竜だった。


巨大な翼が崖上の風を巻き上げる。

赤い膜翼、長い尾、喉の奥に熱を孕んだ顎。和傘の面影を残したまま、それは人の道具の顔を脱ぎ捨てる。


飛竜が喉を開く。


咆哮が崖を打った。


空気が震え、岩肌が鳴る。

威嚇だった。喰らうためでも、焼くためでもない。ただ、それ以上寄るなと告げる一声。


道満の狩衣が風に煽られる。


白は何も言わない。

ただ飛竜の背へ軽く身を預け、そのままひと息で空へ上がる。


翼が一度打たれる。

崖上の土が巻き、砂が舞い、赤い巨体が風を攫う。白い影を背に乗せたまま、飛竜は森の上空へ高く抜ける。


あっという間に遠ざかる。

赤は空へ溶け、白はその背で揺れもせず、やがて森の向こうへ消えた。


崖上に残るのは、巻き上げられた土と、射損ねた矢だけだった。


道満は弓を下ろす。


風だけがまだ強い。


「……またか」


誰にともなく落ちた声は、吹き上がる風にすぐ攫われた。

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