拙い恋文
地獄の執務室は、その日に限って、耳が痛くなるほど珍しく静まり返っていた。
理由は明確だった。こはくがここにいない。
それだけで、部屋の空気の重心がいつもと少し違っており、底冷えするような静寂が室内を満たしている。
閻魔は退屈そうに書類の山を適当に崩し、道満はその傍らで淡々と術式の整理を進めていた。互いに手先だけは無言で動かしているものの、交わされる会話は極めて少ない。
そんな、重苦しい静けさを切り裂くように、執務室の重い扉が引かれた。
――清明だった。
その足音は、いついかなる時も変わらず、不気味なほど一定の拍子で整っている。そこには迷いも躊躇いも、一切の揺らぎも存在しない。
「頼みがある」
開口一番、彼らしい涼しげな声が室内に響いた。
道満は手元の書類から視線を外すことすらなく、低く吐き捨てる。
「今度は何だ」
ほぼ、条件反射の拒絶だった。
一方の閻魔は、片手でだらしなく頬杖をつきながら、気の抜けたからかうような声で言葉を重ねる。
「今度は何やったの?」
清明は、二人の机の前まで平然と歩み寄ると、極めて真面目で、かつ一点の曇りもない顔をして答えた。
「こはくに恋文というものを書いたのだが、問題ないか確認してほしい」
瞬間、執務室の中の時間が完全に停止した。
道満の手が、ぴたりと止まる。
閻魔の筆先も、信じられないものを見たように静止した。
数秒の、張り詰めた沈黙。
先にその膠着を破って口を開いたのは、閻魔だった。
「……恋文?」
「ああ」
「お前が?」
「そうだ」
あまりにも迷いのない、堂々たる肯定。
閻魔は思わず、助けを求めるように道満の方を見た。
――道満は、すでにその美しくも忌々しい額を、深く、強く押さえていた。
「見せろ」
これ以上不敬な言葉を紡がせないためにも、短く、命じるように言う。
清明は躊躇うことなく頷き、懐から丁寧に折り畳まれた一枚の紙を取り出して差し出した。
それを閻魔が先に横からひったくるように受け取る。
「……あ?」
閻魔の口から出た間抜けた声に、道満が奪い取るようにしてその横から紙面を覗き込んだ。
次の瞬間、道満の細い眉が、嫌悪感と不快感でこれ以上ないほど深く寄せられた。
「何だこれは」
清明は、何が不満なのかと言わんばかりに即答する。
「恋文だが」
「そういう話をしているのではない」
道満の声の温度が、一気に氷点下まで下がる。
紙面に美しく整然と並んでいるその意匠は、明らかに「人間の文字」ではなかった。
文字列としての複雑な規則性はある。墨の乗りも、筆致も極めて整っている。だが、道満が生前からも地獄へ来てからも見聞きしてきた、どの体系の文字にも属していなかった。
それは、人の紡ぐ言葉ではない。
人ならざる、おぞましき高位の存在の文字だった。
閻魔が横から紙を覗き込み、その双眸を少しだけ細める。
「あー……」
心底驚いたような、乾いた声を漏らす。
「これ、上位の神の言葉だね」
道満の鋭い視線が、即座に閻魔へと向けられる。
「読めるのか」
閻魔は差し出された紙をひらひらと揺らしながら、困ったように肩をすくめた。
「いや、無理。俺もさすがに、このレベルのものは全部は読めないよ」
「ただ、文字の持つ雰囲気だけで“上”のものだって分かるだけ」
道満の眉間は、もはやこれ以上刻めないほど深く寄る。
「何故書ける」
即座に、冷徹な詰問が清明へと投げつけられる。
だが、清明は何でもない日常の些事を語るように、極めて平然と答えた。
「こはくが時折使っていた」
「構造を見て覚えた」
道満は、喉の奥でほんの一瞬だけ、呼吸を失った。
そのあまりにも簡潔な返答によって、脳の奥底に眠っていた古い記憶が、無理やり引きずり出される。
まだ、清明が幼子であった頃。
自分がその歪んだ才能を恐れ、書庫で様々な術式を教えていた時期。
あの頃からこの男は、人間の文字や言葉を完璧に覚えるよりも先に、人ならざる異形たちの文字を、おもちゃのように拾い上げていたことがあった。
道満にすら解読できない禁忌の書物を、幼い清明が当たり前のように細い指先で追い、
その意味を完全に理解しているかのように、静かに微笑んでいたあの瞬間。
あの時、道満は彼の魂の底知れなさに、確かに不気味な寒気を覚えたのだ。
だが同時に、子どもの曖昧な感覚とはそういうものだとも思い込もうとした。
異形や人ならざるものに囲まれて育ったのだ、一時的にそうした波長が合うこともある。
人間としての肉体が成長し、現世の常識に染まれば、やがてそんな異能は綺麗さっぱり忘れていく。
人間とは、そうやって段階を踏んで“人間側”へと寄っていくものなのだと。
いつしか、忘れていくものなのだと、自分は信じていた。
だが――
この男は、何一つ忘れてなどいなかった。
それどころか、その異形としての感覚は、完璧にその魂の奥深くに残っていた。
しかも、あろうことか、それを今、最愛の主への「恋文」として嬉々として持ち出してきたのだ。
「……お前」
道満の声が、地を這うように低くなる。
「何故これで、恋文として通ると思った」
清明は、一片の迷いもなくきっぱりと答える。
「こはくが読める」
閻魔が思わず吹き出しそうになり、道満は激しい頭痛に耐えるようにこめかみを強く押さえた。
「そういう問題ではない!」
「恋文というものは、まず相手に読ませる以前に、一般的な形式や共通の言語というものが――」
あまりの馬鹿馬鹿しさに、言いかけて自ら言葉を止める。
清明は、どこまでも澄んだ瞳で静かに首を傾げた。
「こはくに、私の心が正しく届けば問題ないのではないか」
論理としては、微塵も破綻していなかった。
どこまでも真っ直ぐで、筋が通りすぎているからこそ、この上なく性質が悪く厄介なのだ。
閻魔がその横で、肩を小刻みに震わせながらゲラゲラと笑い出す。
「いやまあ、確かに間違ってはいないけどさぁ……」
だが、道満はとても笑う気にはなれなかった。
目の前で涼しげな顔をして佇む清明を見て、背筋に、奇妙に冷たい寒気が走るのを感じていた。
この男は、人間として生み出され、育った。
人間として生き、そして生前の寿命を迎えて死んだ。
それにもかかわらず、その魂の、根源的などこかのパーツが、最初から人間の枠組みを超えて“こちら側”に強烈に引き寄せられている。
異形に囲まれて愛され、神の気配に日常的に触れ、こはくという絶対的な深淵を全ての基準として育った結果。
人間の整った肉体を持ちながら、その内側の感覚だけが、常人のそれから恐ろしいほどにズレ続けていた。
そして最も始末が悪いことに――それを、本人は微塵も「異常」だとは思っていないことだ。
清明は、不満を漏らす道満の手から、美しく綴られた紙をすっと受け取り直す。
「問題はあるのか」
生真面目に確認する、少しも揺るがない声。
閻魔は、今にも吹き出しそうな笑いを必死に堪えながら手を振ってみせた。
「いや、こはくには確実に届くでしょ。解読できるだろうし」
「まあ、それが『恋文』として世間一般に成立してるかは別としてさ」
その言葉に、清明は満足したように頷く。
「なら問題ない」
何のためらいもなく、そう結論づけた。
道満は即座に遮る。
「ある!」
清明が、不思議そうに道満の顔を見つめる。
道満は数秒の間、彼を言葉で殴り殺そうと沈黙したが、やがて諦めたように深く、重い息を吐き出した。
「……いや」
これ以上ないほど慎重に、言葉を絞り出す。
「問題はあるが、もう今さら、お前の歪んだ育ち方を矯正できるような段階ではない」
閻魔がとうとう堪えきれずに大爆笑し始めた。
「あっはは、それは本当にそう!」
清明は、爆笑する上司と、心底嫌そうな顔をした元師の二人を静かに見比べる。
「では、渡しに行ってくる」
「待て」
道満が慌てて手を伸ばして制止しようとしたが、その動作は、すでに半歩遅かった。
清明はもう完璧に踵を返し、衣服の裾を美しく翻して歩き始めている。
何の迷いもなく執務室を出ていく、その無駄のない背中を、残された二人はただ黙って見送ることしかできなかった。
バタン、と静かに扉が閉まる。
室内に、再び静寂が戻る。
しばらくして、閻魔が笑いを含んだ声で、しみじみと呟いた。
「いやあ、本当に立派に育ったねぇ」
道満は、その言葉に答えなかった。
ただ、冷たく閉ざされた木目の扉を見つめたまま、絞り出すように低く呟く。
「……育て方を、根底から間違えた」
その鋭い声には、諦めに近い呆れと、そして――この男がどこまで常識を壊していくのかという、拭い去れない本気の危惧が、重く混ざり合っていた。
恋文を受け取ったこはくと清明のお話は、清明ルートで読めます。




