伴侶の段階
冷え切った獄界の、人気の少ない薄暗い渡り廊下。
道満は、両手に抱えた地獄の面倒極まりない書類の束を片手に、早く執務室に戻ろうと歩を進めていた。その時、静寂を切り裂いて不意に呼び止められた。
「道満」
声の主は、清明だった。
相変わらず隙のない、いつも通りの涼しげな生真面目顔。ただ、その口から紡がれた呼びかけの響きだけが、普段と少しだけ違っていた。
道満の鋭い本能が、即座にろくでもない胸騒ぎを検知する。彼は極めて嫌そうな予感を背中に覚えながら、渋々振り返った。
「何だ」
清明は一拍置いて、いつものあのすました声音より、さらに少しだけ静かで深い声を廊下に落とした。
「伴侶について相談がある」
「……は?」
道満の手が、完全に止まった。
指先の力が抜けて、抱えていた書類の束から、一枚がひらりと頼りなくずれ落ちる。
今、この男は、地獄の渡り廊下の真ん中で、一体全体何の話を自分に振ってきたのだろうか。
清明の切れ長の瞳は、冗談抜きで真剣そのものだった。
からかうような色も、様子を窺うような気配も一切ない。
「伴侶としての関係性を考えた時、寝床を共にすることは自然な段階だと認識している」
その言葉が耳に届いた瞬間、道満の、現世であれば美形ともてはやされたはずの表情が、完全に死んだ。
「おい」
「何だ」
「待て」
「待っている」
「待つな」
道満は、凄まじい速度でこめかみを突き抜けていく頭痛に耐えかね、片手で額をぎゅっと押さえた。
「お前今、不敬にも程があるぞ。何の話をしてる?」
清明は、睫毛すら揺らさずにまっすぐ答える。
「こはくとの関係だ」
「やめろ」
道満の声が、高く跳ね上がる。
しかし清明は、嵐の前の凪のように一切揺らがない。
「人間の伴侶の関係としては、極めて自然な流れだと学習している」
「どこで学習した」
「薬屋」
「最悪だ」
間髪入れぬ即答だった。
道満は腹の底から、この世のすべてを呪うような深い息を吐き出す。
「で、それを私に相談してどうする。殺されたいのか」
清明は、それすらも理解できないとばかりに少しだけ首を傾げた。
「問題があるか確認したい」
「あるに決まってるだろ」
「何が」
「全部だ、すべてだ!」
道満は、持っていた書類の端を握りしめながら、片手の指を一本ずつ折ってみせる。
「まず前提としてだな」
「ああ」
「お前と主の距離感は、地獄に来てからすでに常識の外側へ吹っ飛んでいる」
「そうか」
「『そうか』ではない」
清明は少し視線を落とし、自らの倫理を精査するように考えてから口を開く。
「では、それほど特別な関係になったのであれば、より自然な段階に進むのは問題か?」
道満の目が、獲物を狙う蛇のように極限まで細くなる。
「お前、本気でそれを主の寝所に持ち込むつもりだな」
「本気だ」
一瞬の迷いも、恥らう素振りもない返事。
道満は、信じられないものを見る目でしばらく黙り込んだ。
そして、かすれた声でぽつりと呟く。
「……こいつ」
「何だ」
「本気すぎるな……」
清明は否定しなかった。
むしろ、己の内に頑強に根を張る執着を当然の義務のように言葉にして続ける。
「伴侶である以上、お互いの距離を極限まで縮めるのは当然だと思う」
「思うな」
「なぜ」
「段階ってものがある」
「段階は踏んでいる」
「どこがだ」
「接触、日常的な会話、同居に近い状態」
「違う意味で怖い」
(――接触、会話、同居だと?)
現世から何十年もかけて外堀を埋め尽くし、地獄の回廊で倒れ込んだ主身体を抱きとめ、あまつさえ指先に、肌に、当たり前のように馴染んだ手つきで触れている。
道満は己の頭を押さえた。その異常なまでの外堀の埋め方に、戦慄すら覚える。
清明は、そんな式神の狼狽をよそに、少しだけ真面目な声音で続けた。
「私は間違っているか」
道満は即答できなかった。
悔しいことに、これほど歪んだ執着を抱え、最悪の順序で迫っているというのに、彼らの生前からの「関係性の時間軸」を考慮すると、致命的な間違いと切り捨てる理屈が見つからなかった。
――それが、何よりも嫌だった。
「……間違ってるとは言ってない」
「では問題はない」
「そうはならん!」
清明は一歩も引かなかった。
「伴侶とはそういうものではないのか」
「お前の理解は、都合よく極端すぎるんだ」
「なら正しい形を教えてほしい」
道満は、そこで完全に言葉を失い、詰まった。
この男は、こちらに「論破」を求めてくるのが、何よりも厄介で性質が悪い。しかもふざけているわけではなく、至って大真面目に。
道満は長く、長く、重い息を吐き出す。
「……まずな」
「ああ」
「主がどう思ってるかを確認しろ。お前の妄想ではなくな」
清明は表情一つ変えずに即答する。
「拒否はされていない」
「そういう話をしているのではない」
「では何だ」
道満は一瞬口を閉ざし、自らの言葉がこれ以上この狂人を刺激しないよう、慎重に言葉を選んでから叩きつけた。
「“進めていいか”と、主の承諾を得ろと言っているんだ」
清明は数拍、その言葉の意図を測るように考え込む。
そして、何か少しだけ新しい真理に納得したように、小さく頷いた。
「なるほど」
「分かったか」
「分かった」
道満は、ようやくこの男の暴走を止められたのだと、ほんの少しだけ安心の息を漏らす。
――だが、清明は次の瞬間、恐ろしいほど静かに、当たり前のように言葉を続けた。
「では確認する」
「やめろ今すぐ」
「こはくに」
「やめろと言っている!!」
道満の魂からの怒鳴り声が、静まり返った渡り廊下に盛大に響き渡った。
はるか遠くの廊下の曲がり角で、巡回していた護衛の獄卒が一人、何事かと驚いたようにこちらを振り向いたのが見えた。
道満は書類をぐしゃりと握り潰しそうになりながら、深く、深く頭を抱え込む。
しかし、清明はどこまでも涼しげな顔のまま、少しだけ不思議そうに首を傾げた。
「問題は何だ。今すぐに確認をしなければ、いつになっても次の段階に進めないだろう」
道満は、地獄の底から這い上がるようにゆっくりと顔を上げた。
そして、この男の魂が、生前よりはるかに手の付けられない領域へ行ってしまったのだと、完全に諦めたように吐き捨てた。
「……お前、想像以上に手遅れだな」
清明は、少しだけ考えてから、満足そうに答える。
「そうか」
道満は、もう二度とこの男に言葉を返さなかった。
道満の頭を抱えた、その重い予感はやはり裏切らなかった。
その日以降、清明の、こはくへの口説き方はさらに手が付けられないものへと昇華していた。
あろうことか、あの男は道満の警告通り、本当にこはくの手を取った際、その穏やかな声音のまま、ごく自然に、かつ執拗に問いかけ始めたのだ。
「これ以上、あなたの近くへ進んでもよいだろうか」
「拒まないなら、寝床も共にしたい」
「もちろん、あなたが拒まないのなら」
生前から、好きだと言い、綺麗だと言い、触れていいかと聞いて、拒まれなければ抱き寄せていた。
だが今は、その問いの先にある未来が、完全に「次の段階」へとすり替わっている。
一度こはくの深淵に届き、支えられると確信した男は、もはや未来を疑うことすらしない。
どれほどの時間をかけようとも、永遠に諦めることなく、外堀を埋め、承諾の言葉を毟り取っていくのだろう。
道満は、回廊の陰からその、穏やかな皮をかぶった執念の塊を見つめるたび、胸の内で苦々しく、そして心底嫌そうに呟く。
――やはり、人間だった頃に寿命があって正解だった。
もし最初からこの器を持っていたなら。
この厄介極まりない男は、とっくの昔に、こはくの寝所の主として、永遠にその隣を独占していただろう。
それは、考えるまでもない、あまりにも最悪で確実な未来だった。




