道満は間に合わなかった
道満はその日、肌にべったりとまとわりつくような、不快極まりない胸騒ぎを覚えていた。
心臓を直に冷たい刃で突き刺されたような、悍ましい予感が全身を駆け抜ける。
次の瞬間には、道満の身体は自らの意志を無視して疾走していた。
凍てついた石床を容赦なく打つ靴音が、静寂に支配された地獄にはあまりにも不釣り合いなほど荒々しく響き渡る。気配を隠す気など、毛頭なかった。今さらこの期に及んで、取り繕う意味など何一つない。
清明が地獄という永遠の死者の国へ落ちてきてからというもの、自分はずっと、取り憑かれたようにこうだった。
あのこはくと、現世の箍を外された清明の二人を、一瞬たりとも二人きりにはさせない。
客観的に見れば、反吐が出るほど露骨な監視だ。
そんなことは、誰よりも道満自身が一番よく理解していた。
だが、それでもあの男を放置できるはずがなかったのだ。
あの男は、死んだ。
死んだことによって、人間としての『老い』という最大の弱点を失い、
死んだことによって、冥府の深淵に耐えうる『器』を得て、
そして死んだことによって――かつてあれほど強固だった『諦めるためのあらゆる理由』までを、すべて喪失してしまった。
だからこそ、一瞬たりともあの男から目を離してはならなかったのだ。
それなのに、今日は、ほんの一瞬だけ判断が遅れた。
こはくの絶対的な不変の気配が幽かに揺らぎ、その直後に、あろうことか清明の不穏な気配が重なった。
それは、思考を挟まない条件反射だった。
脳裏を過る「嫌な予感」が、ただの杞憂では終わらないこと。
それらを本能的に理解していたからこそ、道満は全呪力を絞り出し、冷たい石廊を全力で駆け抜けたのだ。
最後の角を強引に曲がる。
灯りの薄い石廊の空気には、まだ生々しく乱れた、甘く悍ましい熱の残滓が漂っていた。
そして――その熱の渦の中心に佇む二人を視界に収めた瞬間、道満の端正な顔は、絶望と怒りで酷く引き攣った。
清明が、冷たい石床に片膝をついている。
その腕の中に、こはくの軽い身体をすっぽりと抱きかかえ込んでいた。
こはくは何の抵抗も示さず、その胸に頭を預けてもたれかかり、ただ熱に浮かされたように、静かに呼吸だけを細く揺らしている。
これは単なる遅れではない。決定的に「間に合わなかった」のだ。
「……遅かったか……!」
奥歯を噛み締めた喉の奥から漏れ出たその声には、自分自身でも驚くほど、激しい焦燥と恐怖が滲んでいた。
道満の声に反応し、清明がゆっくりと顔を上げる。
彼の呼吸は、確かにまだ少し乱れていた。
だが、道満を射すくめるその瞳だけは、不気味なほど、妙に凪いで落ち着き払っていた。
そのすべてを統べるような静かな眼差しを見ただけで、道満は心臓が冷えるのを感じ、瞬時に理解した。
――知ったな。
最悪だ、と脳裏のすべての警鐘が乱打される。
清明は腕の中にあるこはくの身体を愛おしそうに支えたまま、どこまでも穏やかに、滑らかな声で言った。
「お前の言っていたことが分かった」
その、一言だけで十分だった。
道満の胸の奥へ、冷たくて重たい泥のような石を、無理やり飲み込まされたような不快な感覚がじわじわと広がっていく。
「……そうか」
お前は何てことをした、と叱責することもできた。
今すぐその手を離せと、力ずくで止めることもできたはずだ。
それなのに、道満の口から最初に這い出てきたのは、己の無力さを呪うような、その渇いた一言だけだった。
あまりにも、遅すぎたのだ。
その深淵の味を正しく「理解」されてしまった後では、今さらどんな言葉を重ねたところで、何一つ意味を成さない。
「確かに、戻れない」
清明は、こはくを腕に抱いたまま、どこまでも穏やかに言葉を続ける。
「だが、なるほど」
その質量を確かめるような両腕へ、愛おしげにほんの少しだけ力が込められる。
「次からは私が対応する」
道満は、猛烈な頭痛に襲われるのを感じた。
理解した、その瞬間に、葛藤すらなく当たり前のようにそこへ至るのか。
「何だと?」
憎悪を込めて問い返しても、向けられた清明の顔は、いつもの、あの反吐が出るほど生真面目な顔のままだった。
「今の私なら受けられる。落とせる、支えられる」
自らの内に馴染みつつある感覚を、まるで既定の事実を確認するように淡々と言葉を並べる。
「なら次からは私がやる」
道満は、本気でこめかみを強く押さえたくなった。
早い。
その深淵の熱を理解してから、己の「役割」として決断を下すまでが、あまりにも早すぎるのだ。
「何故そうなる」
喉を絞るようにして吐き出したその問いに、清明は本気で、何がおかしいのか分からないとばかりに不思議そうな顔をしてみせた。
「何故も何もないだろう」
心底、本気で言っている顔だった。
「支えられるなら支える」
「受けられるなら受ける」
「他に何がある」
今すぐこの生真面目な男の顔面を、本気で殴り飛ばしてやりたかった。
清明はそんな道満の苛立ちなど気にも留めず、静かに続ける。
「お前がずっとやってきたことだろう」
「私がやるだけだ」
清明は腕の中のこはくを見下ろし、その頬や指先へ、そっと触れた。
何のためらいもなく、極めて自然に。
まるで、その触れ合いを何十年も前から毎日繰り返してきたかのように。
(――もう覚えたのか)
(――もう、その悍ましい熱を、自らの魂に馴染ませるつもりなのか)
激しい嫌悪とも、どうしようもない焦燥ともつかない、泥濘のような感情が道満の内側でふつふつと込み上げる。
そして清明は、酷く穏やかに、その絶対的な独占の意志を告げた。
「伴侶にするなら、このくらいは当然だ」
「……は?」
喉の奥から、乾いた聞き返す声しか絞り出せない。
「前から言っているだろう、私はこの方を伴侶にしたい」
「なら、他の者に触れさせたくないと思うのは自然だ」
言葉を失う。早い。何もかもが。
深淵を理解する。熱を受け止める。二度と戻れないと知る。
――そして、そこから一直線に『独占』へと至る。
そのすべての手順が、常軌を逸したスピードで繋がっていた。
「貴様……」
掠れた、震える声しか出ない。
「一番早くそこへ行き着くな……」
「そうか?」
「そうだ!」
道満は、思わず本気で怒鳴り散らしていた。
「そこはせめてもう少し段階を踏め!」
「踏んだだろう、何十年も!」
――そうだった。
この男は、ただの人間だったあの短い一生という時間を丸ごとすべて使い果たして、こはくに対してすでに手順を、段階を、すべて踏み終えていたのだ。
足りなかったのは、深淵に耐えうるだけの『器』。
それが地獄に来たことによって、最後の欠片として完璧に揃ってしまったのだ。
最悪だった。これ以上ないほど、最悪の男だ。
「今さら他の者に任せる気はない」
静かに告げられたその低い声には、確かに男としての醜悪な欲もあった。
すべてを塗り潰そうとする執拗な独占欲もあった。
だが、それ以上に、命に代えても本気で守り抜くという、揺るぎない覚悟が宿っていた。
だからこそ、誰よりも厄介なのだ。
一度その魂に刻んだ決意は、世界の理が崩れようとも、絶対に曲げない。
道満は天を仰ぐように深く、長く息を吐き出し、眉間を押さえたまま、心底疲れ切った声で吐き捨てた。
「……面倒な男が、もう一人増えたな」
そして、その時の道満の嫌な予感は、その後寸分違わず現実のものとなった。
あの日を境に、清明のこはくに対する口説き方は、明らかにその『質』を変えていった。
愛おしい口説き文句の先に、何のためらいもなく「伴侶」という永遠の未来を示す言葉を置くのだ。
一度その手が深淵に届くと知ってしまった男は、もう、手に入れる未来を疑うことすらしない。
どれほどの歳月が流れようとも、永遠に諦めることなどない。
道満は、回廊の陰からその執念に満ちた二人の姿を眺めるたび、胸の内で、苦々しく、そしてやりきれない想いを込めて呟くのだ。
――やはり、あの男が人間だった頃に、きっちりと『寿命』があって大正解だった。
もしあの現世で、最初から清明が今の頑強な獄卒の器を持っていたならば。
この恐るべき男は、とっくの昔に、こはくの隣という唯一無二の特等席へ、永遠に、梃子でも動かぬ執念で居座っていただろう。
それだけは、地獄のどの未来を見渡しても、微塵も狂いなく疑いようのない事実だった。




