獄卒の器と主の力
「一つ聞きたい」
地獄の冷たい空気に衣服が馴染んでからしばらく経ったある日、清明はまたしても当然のような顔をして、道満の目の前へと腰を下ろした。
場所は、薄暗い灯火だけが頼りの静まり返った書庫。
古びた木製の机。
その上にうずたかく積まれた、おぞましい魔術の術式書。
生前にも何度も繰り返された、見慣れた二人の構図ではあったが、今は当時と決定的に違う点が一つだけ存在していた。
――目の前の清明が、まぎれもなく一回死んでいる、という事実だ。
道満は、そのあまりにも不愉快な現実を、今さらのように嫌悪に満ちた顔で噛み締めていた。
生前の頃から、薄々こうなるのではないかという嫌な予感だけはしていたのだ。人間だから、放っておいてもいずれ死ぬ。死ねば、その鬱陶しい執着も綺麗さっぱり終わるはずだ。だからこそ、まだ耐えられた。
だが、この男の執着は終わらなかった。
肉体が滅びてなお、何食わぬ顔をしてこの地獄へと舞い戻り、不変の肉体と無限の余裕まで手に入れて、こはくへの情念を抱いたまま、この奈落の底に当たり前のように居座っている。
まさに最悪だ。その最悪の結晶が、今、静かな澄んだ顔をして自分の前に座っている。道満は、開いていた本を閉じる前から、すでにその眉間を限界までしかめていた。
「碌でもない顔だな」
「お前がそういう顔で来る時は碌でもない」
清明は、その痛烈な皮肉に対しても、気を悪くする風もなく否定もしない。
肯定もしないが、否定もしないというその時点で、すでに話の前提が終わっているのだ。
「聞きたいことがある」
「聞くな」
「真面目な話だ」
「お前の真面目は碌でもない」
流れるような即答で撥ね付けたが、清明の強靭な精神は微塵も動じない。男は少しだけ視線を落として黙り、それから、深く静かにその口を開いた。
「この身体なら」
その声のトーンが変わった瞬間、道満の脳細胞のすべてが、最悪な嫌な予感の警報を鳴り響かせた。
「主の乱れを、私でも受け止められるだろうか」
そのあまりにも唐突で、かつ核心に触れる問いかけに、道満は完全に言葉を失って無言になった。
しんと静まり返った書庫の中に、数拍の重苦しい沈黙が流れる。次の瞬間、道満は絶望に耐えかねたように、ガンと盛大な音を立てて木製の机へと自らの額を打ちつけた。鈍く、痛々しい音が本棚の隙間へと吸い込まれていく。
――来た。ついに、恐れていた瞬間が来てしまった。
清明は、その道満の狂態を前にしても、ただ静かに答えを待っている。その両眸には、何があろうとここから逃げる気などないという、強固な決意が宿っていた。道満は額を机に押しつけたまま、獣のような低い声で唸る。
「……何故それを私に聞く」
「お前が一番分かっているからだ」
本当に、最悪の男だった。どこまでも真っ直ぐすぎて、捻じ曲げる隙がない。そして何より、その指摘はぐうの音も出ないほどに正しい。道満はゆっくりと、呪いの怨霊のような顔を上げた。
「何故そう思った」
「主が今も私に見せないからだ」
清明は、まるで戦況を分析する軍師のように淡々と言い放つ。
「だが今の私は、生前と違う。人ではない、生者ではない」
「器として弾かれる理由が薄い」
道満の眉間の溝が、これ以上ないほどに深く寄る。
清明は、その静かな声を廊下の奥へと染み渡らせるように続ける。
「生前は、私が人間だったから駄目だったんだろう」
「今は違う、主は今の私なら許容するか」
掠れもしない、静逸な声だった。その顔には、決していかがわしい欲の類は浮かんでいない。少なくとも、表向きはどこまでも大真面目な顔をしている。
だが、長年呪術の深淵を共にしてきた道満には、その皮膚の裏に隠されたどす黒い本質が、嫌というほど分かってしまう。
欲だ。これは紛れもない、魂の渇望だ。
知りたい。受け止めたい。こはくという不変の存在の、最も深い、誰の手も届かない底へと、今度こそこの両手を入れたい。
その剥き出しの執着を、奴はわざわざ「器の許容」という、非の打ち所のない論理の形に美しく整えて持ってきているのだ。本当に、最悪の性質をしていた。
道満は肺の底から、重苦しい息を吐き出した。
「……できるだろうな」
その言葉を聴いた瞬間、清明の瞳が、歓喜ともつかぬ鋭さで僅かに細められた。道満は、その一瞬の反応を見ただけで、激しい苛立ちに襲われる。
「主はあれで選ぶ」
吐き捨てるように、冷酷な現実を突きつける。
「誰に何を渡すか、何を許すか、全部選んでいる」
「生前のお前には、決して渡さなかった」
「お前が人間だったからだ」
「触れれば一瞬で壊れるからだ」
清明は、反論することなく黙ってその辛辣な言葉を聴いている。道満は容赦なく言葉を続けた。
「私もそうだ」
低く、自嘲の混じった掠れた声で呟く。
「生前、私が授かったのはあの黒い炎だけだ。力そのものじゃない」
「あれは、人間の脆弱な肉体でも扱える形に、主の慈悲で加工された残滓だ」
己の掌に宿した、あのどす黒い地獄の炎の感触を思い出すように、道満の指先がわずかにピクリと動いた。
「契約の時、主は最初から冷酷に線を引いていた。私に渡すものと、決して渡さないものをな」
「生きた人間に、あの深淵をくれてやるほど、我が主は甘くない」
清明は、その言葉の意味を正しく咀嚼するように、静かに頷いた。
「だが死んだ後は違った」
道満の声のトーンが、地を這うように一段と低くなる。
「式神になって、器が変わり、人間を辞めて初めて分かった」
「自分が何を渡されていたか、そして何を徹底的に渡されていなかったか」
「自分が、どこから先の深淵に触れてしまったか」
そこまで一気に捲し立てて、道満は突然、自ら喉を塞ぐように口を閉ざした。清明は、その沈黙の奥にある暗黒を見透かすように、少しだけ目を細める。
「戻れなくなったか」
道満は、ただ無言を貫いた。だが、その語られない絶対的な沈黙こそが、何よりの答えだった。
戻れないのだ。一度でもあの深淵に触れてしまえば、すべてが終わる。
それは力ではない。熱でもない。もっと、魂の根底にある深い領域だ。
すべてを、受ける。すべてを、知る。
その異常な深淵に、馴染む。
――そして二度と、元の側には戻れなくなる。
道満は身をもってそれを知っている。知っているからこそ、この目の前の男にだけは、決して同じ過ちを犯させたくはなかった。
「お前は手を出すな」
低く、明確な拒絶を込めて、はっきりと言い放った。
「戻れなくなる」
清明は、その警告を受けて少しの間だけ黙り込んだ。その静寂を、道満は「あの清明がまだ迷っている沈黙」だと思いたかった。どうか引き返してくれと、願うような沈黙だと思いたかった。
だが、清明はしばらくして、その淡い期待を木っ端微塵に打ち砕くように、静かに口を開いた。
「どうせもう戻れない」
その一言に、道満の顔が恐怖に似た衝撃で強張る。清明は、鏡のように穏やかな顔を崩さないまま、道満をまっすぐに見つめ返した。
「私はもう、とっくに戻れないだろう」
一切の揺らぎのない、静かな声だった。
「生前から何十年も好きだった、死ぬまで諦めずに口説いた」
「そして死んでまで、その魂を追ってここへ来た」
「今さらどこへ戻るというんだ」
道満は、そのあまりの狂気に完全に言葉を失った。清明は、自らの因果を淡々と語り続ける。
「今さら引き返せる場所があるようには思えない」
「戻れなくなると言われても、もう遅い」
「なら、せめて受け止めたい」
「触れられるなら、今度は私が」
道満は、しばらくの間、何も言い返すことができなかった。
目の前の男のは、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも狂っていて、反論の余地がどこにも残されていない。
これは紛れもない欲だ。執着だ。だが同時に、清明という男は、本気でその深淵のすべてを自分の器で受け止める気でいるのだ。
こはくを壊したいのではない。その力を奪いたいのでもない。ただ、すべてを受け止めたいのだと、その瞳が語っている。
だからこそ、余計に性質が悪く、救いようがなかった。
道満は深く、長く、地獄の重力をすべて背負うように息を吐き、両手で自らの顔を覆った。
「……お前は」
低く、掠れた、絶望に満ちた声で呟く。
「本当に、最悪の形で人でなくなったな」
清明は、その最大の罵倒を耳にして、嬉しそうに少しだけ笑った。
「褒め言葉として受け取っておく」
「違う」
「だが否定でもないだろう」
道満は、そのまま机の上へと力なく突っ伏した。
その狂った言葉を、何一つ否定しきれない己の知識が、何よりも最悪で、忌々しかった。




