清明、死んでからが本番
清明という男は、冥府に落ちてからというもの、現世にいた頃よりも随分とよく笑うようになった。
――急ぐ理由が、綺麗さっぱりなくなったからだろう。
影の牢から召喚されるたび、その姿を不快げに盗み見ながら、道満は苦々しくそう結論づけていた。
かつては常に己の『死』という絶対的な期限を前提にして、帳尻を合わせるように歩みを積み重ねていたはずの男が、獄卒になり、死によって失ったはずの肉体を再び手に入れてしまったのだ。
老いもなく、時間切れの焦燥もなく、今日が終わっても当然のように「次」が訪れることを、魂の髄まで知ってしまっている。
その魂に宿った絶対的な余裕こそが、今の道満にとっては、ひどく厄介で胸糞の悪い代物だった。
男はこはくの隣という特等席へ、まるでそこが最初から己の指定席であったかのように当然の顔をして座り、当然のようにその白磁の肌へ触れ、当然の呼吸で好きだと言い放つ。
まるで何十年も前から、ずっとそうして過ごしてきたのだと言わんばかりの平然たる態度だが、タチの悪いことに、事実として何十年も前からそうであったからこそ、余計に腹立たしく、言葉が出ない。
清明の、地獄における狂ったアプローチは、まずその「手」から始められた。
それは紛れもない、彼が生前死の間際まで寝台の上で繰り返していた諦念の癖そのものだった。
何気なく、その細い手を取る。
愛おしそうに、指先を一本ずつ撫でる。
壊れ物を労るように、その掌を包み込む。
こはくは相変わらず、その侵食に対して拒絶の術を放つでもなく、手を引くこともしない。
地獄へ来て最初の数日間は、清明もただそれだけのささやかな接触で、喉の渇きを癒やすように満足しているようだった。
「今はこれでいい」
現世の呪縛から解き放たれた美しい指先をなぞりながら、清明は微かに目を細めて静かに言う。
「急がなくて済むのは、思ったより贅沢だな」
こはくは相変わらず、何も言わない。
だが、その沈黙に込められた幽かな温度ごと手のひらで受け取り、清明は冬の陽だまりのような穏やかさで笑っていた。
しかし、そんな平穏に見える光景の裏で、道満はほんの数日を待たずして冷酷な現実に理解を追いつかせていた。
――これは、生前の比ではないほどに面倒な事態だ。
人間だった頃の清明には、その一挙手一投足に、どれほど隠そうとも剥き出しの『切迫』が張り付いていた。
人間としての寿命がある。自分にはもう時間が残されていない。
だからこそ、彼の触れ方はどこまでも慎重で、穏やかで、そしてどこか一線を越えぬような諦めと、自制の香りが含まれていたのだ。
だが、今の奴は違う。
時間があるのだ。それも、岩が擦り切れてなくなるまでのような長い時間が、手元にはいくらでもある。
その圧倒的な資産を盾にして、奴は焦らず、退かず、そして絶対に諦めない。
式神である道満から見れば、それはただの「最悪」以外の何物でもなかった。
死ななくなった清明は、生き急いでいた頃よりも余程しつこく、そして酷く執念深かった。
「好きだ」
地獄に落ちて三日目には、男はもうその禁句を日常の挨拶代わりに吐き散らしていた。
その様子を遠巻きに見るたび、道満は苦虫を噛み潰したように顔をしかめる。
早い。あまりにも展開が早すぎる。いや、よくよく考えれば生前の何十年もの間、奴はこれを飽きもせずに言い続けていたのだから、今さら早いも遅いもないのかもしれない。
むしろ奴にとっては、これが世界の通常運転ですらあるのだ。
当然のような顔をしてこはくの隣に陣取り、その指先を慈しむように撫でながら、男は静かに囁く。
「また会えて嬉しい」
まるで、昨日の夕暮れの続きでも話しているかのような、一点の曇りもない顔だった。
一般的に、人間という生き物は死んで魂だけになれば、少しは現世の情念を洗い流して慎みを覚えるものではないのかと、道満は冥府の理に疑問を抱いたが、清明は死んでもどこまでも清明のままだった。
地獄に来て一月も経つ頃には、清明の指先は、すでにこはくの細い肩へと言い訳もなしに触れていた。
ごく自然な、淀みのない顔で、さも何でもない日常の動作であるかのように。
用事のために歩いていたこはくを、呼び止める。
ふと足を止めた肩へ、躊躇いなく大きな手を置く。
そのまま、吐息が触れ合うほどの距離まで顔を寄せ、微かに目を細めて穏やかに笑うのだ。
「今日も会えたな」
ただの挨拶にしては、あまりにも互いの距離が近すぎる。
道満は遠くの回廊の陰からその光景を見て、すさまじい偏頭痛に襲われるように眉間を深く押さえた。まだ地獄に落ちて、たったの一月しか経っていないのだぞ。
だが、周囲の視線など意にも介さず、清明は至極平然とした態度を崩さない。
「死んだのだから、このくらいは許されるだろう」
因果関係が完全に破綻している、意味の分からない理屈だった。
「いやあ、面白いほど遠慮がくなったね」
そんな怪物たちの狂った距離感を、高座の上から見物していた閻魔は、これ以上ない極上の娯楽を見つけたと言わんばかりに愉快そうに笑った。
「生前は寿命があったから慎重だっただけか」
「最悪だな」
道満が忌々しげに吐き捨てる。
閻魔は頬杖をついたまま、こはくの隣へと当然の権利のように腰掛けている清明の後ろ姿を見て、けらけらと喉を鳴らした。
「でもまあ、あれで無理はしないからね」
「――そこが一番厄介なのだ」と、道満は心の中で呪詛を吐く。
自分の欲望を強引に押しつけることもしない。目に見える形で急ぐこともしない。だが、その代わりに、何があろうと絶対にその足を踏み出した位置から退こうとしないのだ。
あの男、時間をかけて、この地獄に永遠に居座る気でいる。
まだ、強引に抱き締めるような真似までは至っていない。
だが、その二人の距離は、現世のそれとは比べものにならないほどに緊密だった。
隣へ座り、衣服の擦れる音とともに肩が触れ合う。
その手を引き寄せ、指先を取る。
零れ落ちる滑らかな髪に触れる。
愛おしさに震える指先で、その白い頬をそっとなぞる。
それだけの真似を平然と積み重ねておきながら、清明は決して、最後の一線だけはまだ越えようとしない。
「急がなくていいからな」
本人は、まるで迷子の子供をあやすかのような穏やかな声で言うが、それを特等席で見せつけられる道満からすれば、ただの精神的拷問だった。
急がないからこそ、毒が染み渡るように、じわじわと、確実にこはくの領域を侵食していくのだ。しかも、その行為に及んでいる本人に、一切の焦りや引け目がない。
地獄という世界のバランスにおいて、最も予測不能で厄介な存在になり果てたのは、間違いなくこの清明という男だった。
こはくは、現世にいた頃と何一つ変わらない。
その侵食を拒むことも、その場から逃げ出すこともしない。ただの音のない人形のように、静かに何も言わないままだ。
ただ、清明の指先がその肌に触れれば、湖面に落ちた一滴の雫のように、少しだけ静かにその赤い瞳が揺れる。
それはかつて、現世の寝台の傍らで見せていたものと、完全に同じ揺らぎだった。
それを見届けるたび、清明は己の勝利を確信したように、愛おしそうに目を細める。
「ああ、ちゃんと覚えていてくれた」
まるで失われた記憶の断片を慈しむような、そんな顔で笑うのだ。
違う。覚えているのはお前の方だ、と道満は内心で烈しい突っ込みを入れずにはいられない。
何十年もの間、しつこく口説き続け、一度は死んで肉体を失いながら、なおこの地獄の底まで追ってきて同じ真似を続ける男の方が、どう考えても執念深さの桁が違っている。
「今度は前より長く口説く」
清明は、まるで明日の天気を口にするような軽さで、さらりと言ってのけた。捕まえて離さないこはくの手を取り、その滑らかな指先を撫でながら。
「前は人の一生だった」
地獄の冷気を吸い込んだ、あまりにも穏やかな声だった。
「今度はもっと長い」
こはくは相変わらず無言を貫いている。清明は、その沈黙を心地よい音楽でも聴くかのように受け止め、静かに笑う。
「覚悟してくれ」
同じ空間に居合わせ、その狂った誓いを生々しく聴かされた道満は、心底から嫌悪を隠そうともしない、この世の終わりを見るような顔をしていた。




