友の死、その魂
最初にその不穏な違和感を覚えたのは、いつも唐突に肉体を裂くように訪れる、あの召喚の響きが完全に途絶えたことだった。
式神が押し込められる影の牢は、生者の流れる時間とは完全に切り離された、淀んだ硝子のような場所だ。
陽の光も、吹き抜ける風も、巡る昼夜もありはしない。
ただ底の知れない薄闇だけが幾重にも重い衣のように折り重なり、式神である道満は、冷酷な主人に呼ばれるその瞬間まで、永い永い眠りにも似た昏い静寂の中でただ時をやり過ごす。
幼い清明が屋敷に来てから、道満は常時召喚され人の営みに混ざっていた。
清明がまだ、若く鋭い刃のようだった頃は、それこそ日に何度も容赦なく叩き起こされ、呼び出されたものだった。
血煙の立ち込める陰惨な戦場へ。
怪異の這いずる仄暗い調査へ。
あるいは、己の身を盾にするような護衛へ。
馬鹿正直を絵に描いたようなあの男は、凡百の人間なら一人で抱え込めるはずもない巨大な厄介事まで進んで背負い込み、その度に道満を現世へと引きずり出しては呪詛交じりの文句を言われ、それでも懲りずにまた平然と召喚の糸を引くのだ。
清明が歳を重ねてからは、肉体の衰えに伴って回数こそ目に見えて減っていったが、それでも召喚の灯が途切れることだけはなかった。
第一線の護衛を退き、寝台で過ごすようになってからも同じことだ。
高度な術理の相談でも、屋敷の些細な雑事でも、時には本当に形を成さないどうでもいい世間話であっても、清明は何かと子供じみた理由を付けては、道満を現世の光の中へと呼び留めた。
だからこそ。
何日経っても。何十日経っても。
ただの一度すら、呪力の波紋が影の牢を揺らすことなく、耳が痛くなるほどの静寂だけが世界を支配し続けた時。
道満は、暗闇の中でその理由を、冷徹に理解してしまった。
「……終わったか」
誰に向けるでもなく、乾いた声で小さく呟く。
胸を焼くような激しい怒りは湧かなかった。
悲しみと呼ぶには、その胸中はあまりにも凪いでおり、静かすぎた。
ただ、一冊の分厚い英雄譚のような長い長い物語が、ついに最後の頁を捲り終え、静かに閉じられたのだと、確信の混じった悟りを得ただけだった。
思い返せば、あの冷淡な我が主――こはくは、かつてひとつの命令のもと配置を承認した。
――清明の面倒を見ろ、と。
だからこそ自分は、不本意ながらも召喚され続けていたのだ。
男が術師としてまだ未熟で、世界に怯えていた頃も。
人間としての限界を迎え、静かに老いていってからも。
その命の灯火が消える、最後の最後まで。
あの不器用な男の背を支えるために、自分はこはくの命を帯びた式神として、現世に呼ばれ続けていた。
ならば、その面倒を見るべき対象がいなくなり、必要性がこの世から消滅したのだとすれば。
もう自分が、あの現世の陽だまりに呼ばれる理由などどこにもない。
人間としての短すぎる生を、ついに終えたのだ。
あの、頑固極まる男は。
暗闇に身を沈めながら、道満はそう結論づけるしかなかった。
影の牢は、死んだように静かだった。
どれほどの時間が流れたのか、それすらもう判然としない。生者の世界のきらびやかな季節の移り変わりなど、この奈落の底には塵一つ届かない。ただ、凍てつくような沈黙だけが、深々と雪のように積もり続ける。
だからこそ、不意に暗黒の足元へと鮮烈に広がった、一条の召喚陣の輝きを見た瞬間、道満は皮肉げに少しだけ目を細めた。
「今さらか」
忌々しげに呟きながらも、抗うことなくその影へと身を委ねる。
視界が爆発的な輝きに染まり、次の瞬間には、骨まで凍るような冷え切った石畳を両足で確かに踏み締めていた。
鼻腔を掠める、硝石と死臭の混ざった空気で瞬時に理解する。
ここは生者の世ではない。果てしなき罪を裁く、地獄だ。
目の前には、巨大な高座へと気怠げに腰掛けた冥府の王、閻魔。
そして、その傍らには、いつもと変わらず影のように静かに佇む主――こはくの姿があった。
何一つ、変わらない。
感情の削ぎ落とされた、いつも通りの無表情。
すべてを見透かすような、いつも通りの静かな赤い瞳。
道満は、肺に溜まった冷気を吐き出すように小さく息を吐いた。
その様子を、高座の上からじっと見ていた閻魔が、邪悪な愉悦を隠そうともせずにどこか面白そうに笑う。
「清明がきたよ。 また獄卒として働いてもらってる」
やはり、そうか。
その一言が耳に届いた瞬間、胸の中で散らばっていた全ての破片が、一つの歪な形となって繋がった。
あの男の魂は、現世の終わりとともに霧散したわけではなかったのだ。
輪廻の輪へと還るその幕間に、かつて前世でそうであったように、この血塗られた場所で再び働かされている。以前からあの男の立ち居振る舞いに薄々感じていた、地獄への奇妙な馴染み方の正体が、ようやく形を成した気がした。
「そうか」
短く、感情を押し殺した声で返す。
けれど、凍りついた胸の奥へと張り詰めていた、目に見えぬ頑なな糸が、ほんの少しだけ解けていくのを自覚していた。
あの男は確かに死んだ。現世の清明としては終わりを迎えた。
だが、この宇宙から完全に消え去ったわけではないのだ。自分と同じ死の領域に、奴は確かに存在している。それだけで、式神としての奇妙な義理を果たすには十分だった。
閻魔は、獲物を追い詰めた獣のように口元をさらに吊り上げる。
「今ちょうど会えるんじゃないかな」
その底意地悪な笑みを見た瞬間、道満の脳裏には、最悪な嫌な予感しか浮かばなかった。
そしてそれは、一寸の狂いもない案の定だった。
遠く広がる薄暗い回廊の向こうから、聞き慣れた、しかし現世の最後よりも随分と張りのある若々しい声が響き渡る。
「迎えに来てくれたわけではないか」
――もう、始まっているではないか。
道満は、己の愚かさを呪うように片手で額を深く押さえた。
現世で死んだばかりだというのに、あの男は、その魂の根底において何一つ変わっていなかった。
「やっとまた会えた」
本当に、呆れるほどに変わらない。
何十年もの間、懲りずにこはくを口説き続け。
肉体が老いて、立てなくなってなお諦めず。
あろうことか、死んで地獄に落ちてまで、その大真面目な求愛を続ける気らしい。
薄暗い回廊の向こうでは、こはくが静かに立ち止まり、清明はその隣へと、生前のいつかのように自然に並んでいる。そして、躊躇うことなくその白い手を取っていた。
「死んで最初に会う相手があなたなら、悪くないな」
まるで、昨日の執務室での続きをのんびりと話しているだけのような、あまりにも緊張感のない口調だった。
その様子を遠巻きに見ながら、道満は肺の底から深々と、重いため息を吐き出す。
安心した。消え去っていなかったのだと、確かに安心はした。
永遠に失われたわけではなく、またこうして会えた。それだけで十分だと思っていたのだ。
つい数秒前までは、確かに、それで美しい大団円のはずだと思っていたのだが。
「また最初から、好きだ」
「今度は何十年でも待てる」
「何百年でもいい」
「その代わり、前よりずっと口説くぞ」
……始まってしまった。
しかも最悪なことに、生前のあの遠慮がちだった頃よりも、明らかに男の熱量と勢いが増している。
人間の肉体が持つ、老いる心配も。
いつか訪れる、死に別れるという絶望的な不安も。
現世の縛りであった、時間切れという焦燥も。
それらの全てが死によって消滅した結果、男の脳内から「遠慮」という二文字まで一緒に消え失せてしまったらしい。
「まずは手からだな」
嫌な予感しかしない、地獄の終わりを見据えるような甘やかな声。
「次は抱く」
その、二人の世界が完全に完成しようとした刹那。
地獄の全土へと響き渡るほどの、盛大で、かつ烈しい舌打ちの音が、冷たい回廊の空気を爆発的に震わせた。
「……死んでも変わらん馬鹿が」
忌々しげに吐き捨てた道満の、険しく歪んだその口元には、しかし、ごくわずかに苦笑にも似た、酷く懐かしい感情の揺らぎが浮かんでいた。
本当に。生きている最後の瞬間まで。
いや、死んで地獄の獄卒に成り下がってからも。
あの男は、どこまでも、あの忌々しくも真っ直ぐな男のままだった。




