壮年になった清明
最初にその微かな綻びに気づいたのは、他でもない道満だった。
気づきたくなどなかった。
人というものは、ある日突然老いるわけではない。昨日まで出来ていたことが今日には出来なくなるような、そんな分かりやすい境界など存在しない。
誰にも悟られぬほど緩やかに、砂が指の隙間から零れ落ちるように、ほんの僅かな違和感を積み重ねながら、人は静かに衰えていく。
だからこそ厄介だった。
誰も気づかない。気づけない。
否、気づいていたとしても、それを老いだとは認めたくないのだろう。
だが道満だけは違った。
長い時を生き、人という生き物がどのように朽ちていくのかを嫌というほど見続けてきた。その目は、本人すら見逃すような僅かな綻びを容赦なく拾い上げてしまう。
術を紡ぐ清明の、衣服の翻る動きが、ほんの一拍だけ、絹糸が引き連れるように遅れる。
編み出される術の威力は変わらない。的確な状況判断もいささかも鈍らない。だが、その魂を包む器である肉体だけが、砂時計の砂が落ちるように、少しずつ、確実に世界の速度から遅れ始めていた。
道満には、それが何であるかが嫌というほど分かった。
それは決して術の衰えではない。
術だけを見れば、むしろ若い頃よりも完成されていた。余計な力みは削ぎ落とされ、最短で最善を選び取る判断は円熟の域へ達している。
だからこそ腹立たしかった。
術が衰えぬまま、その術を支える肉体だけが先に摩耗していく。
その理不尽さを、道満は誰より理解していた。
不老である己には訪れない終焉だからこそ、人間だけが背負わされるその理を、どうしようもなく醜く、残酷なものだと思っていた。
不老の異形には訪れない、じわじわと摩耗していく人間の時間、その残酷な足音だ。
それ以来、道満だけが、その目に見えぬ変化に対して妙に苛立つようになっていく。
その日もまた、清明は誰より前へ出ていた。
若い術師たちを庇い、こはくへ届く禍を断ち切り、自らを盾にして戦場を押し返す。その立ち姿は昔と何も変わらない。
変わっていないように、見えてしまう。
だから余計に腹が立つ。
誰も気づかない。
その一歩を踏み出すまでに、昔よりほんの少しだけ深く息を吸うことを。
術を放ったあと、ごく僅かな時間だけ肩が落ちることを。
ほんの刹那だけ膝へ重みを預けていることを。
そんなものは、人間には見えない。
だが、道満の目だけは誤魔化せなかった。
「無理をするな」
ある激しい戦闘ののち、残響の消えぬ戦場で、道満は地を這うような低い声で吐き捨てた。清明は、上がった息を無理に整えながら、冷えた鉄のような声で返す。
「してない」
「している」
「まだ動ける」
その、己の限界を呪力で圧し切ろうとする強情な返答が、道満にとっては一番腹立たしかった。
こはくは変わらず無言のままで、軍師である獄露はまだ戦力として使えると冷徹に判断し、地獄の王はただ、黄昏を見つめるように静かにそれを見ている。誰も止めない。止める大義名分も、理由もどこにもないからだ。
だからこそ、道満だけが、周囲の全てを拒絶するように露骨にその気配を刺々しく変えていく。硝子を擦り合わせるようなその痛々しい空気の変化を、清明だけが、少しだけ困ったように、けれど全てを察したような眼差しで見つめていた。
清明は、人間としては長く生きた方だった。
術者として苛烈に生まれ、常人には耐え切れぬほど濃い異形のものを見つめ、深く闇に触れながらも、その精神を大きく壊すことなく、長い歳月をこはくの盾として立ち続けた。
若い頃の剃刀のような鋭さは、年を重ねるごとに濡れた砥石で研ぎ澄まされたような重厚な冴えへと変わり、その護りは誰の手も届かぬほど堅牢だった。屋敷の中では、いつしか誰もが敬意を払う古株の一人として扱われるようになっていた。
だが、どんなに研ぎ澄まされた術であっても、人間の身体という脆い器は、術の冴えよりも先に老い朽ちていく。
ある時を境に、清明は陽だまりの下で長く立っていることすらできなくなった。
一歩の歩幅が狭くなり、やがてその手に、自らの体重を支えるための杖を持つようになり、それでもしばらくは意地を張るように現場へ出向いたものの、やがて時代の潮流に押し流されるように、静かに護衛の役を退くことになる。
最後にその手を血に染めた刀を置いた日も、清明は、まるで明日の天気の話でもするかのように、あまり変わらない顔をしていた。
「まあ、十分働いただろう」
そう言って、枯れ葉が落ちるように軽く笑い、あっさりとその重荷を下ろした。
護衛を退いた日、誰もが労いの言葉を口にした。
長い間ご苦労だった、十分務めを果たした、これからはゆっくり休めばいい。
そんな穏やかな声が部屋に満ちていた。
道満だけは、一言も言えなかった。
労えば終わってしまう。
受け入れれば、それが本当に終わったことになる。
だから何も言わず、ただ不機嫌そうな顔でその場を去った。
清明はそんな道満の背を見て、小さく笑っていた気がする。
その笑みが妙に穏やかで、悔しいほど満ち足りていて、道満はしばらく胸の奥の苛立ちを持て余し続けた。
それからは、屋敷の奥深くにある自室で、静かに流れる時間を過ごすことが増えた。
埃の舞う光の中で古びた書を読み、未熟な若い術師たちへ小言を言い、たまに部屋の前に気配を感じては道満を呼び止め、鬱陶しいほどに真面目な術理の話を交わし、そして部屋を訪れるこはくへは、若い頃と少しも変わらぬ調子で真っ直ぐな好意を口にした。
彼の足が完全に動かなくなってからは、こはくの方が、静まり返った廊下を渡って部屋へ赴くようになった。
それはまるで、最初からこうなる運命を知っていたかのように。人間の一生など、夜空を横切る流れ星のように短いものだと、とうの昔に諦念していたかのように。




