見せないが、聞かれる
あれ以降、清明はこはくの乱れた姿をただの一度も目撃していない。
それというのも、道満が文字通り徹底した防壁となって立ち塞がったからである。
出先の任務では決して清明を核心に近づけず、こはくの力が暴走しそうな兆候を察知すれば、何よりも先に清明をその場から追い出した。日々の執務中も、猛獣を警戒するように妙に目を光らせ、少しでも空気の気配が怪しくなれば、清明をあからさまな別件の用事で遠方へと飛ばした。
道満は自分でも異常なほど徹底している自覚があった。だが仕方がない。あの男は見れば覚える。覚えれば使う。使えば、こはくに近づく。
それだけは避けたかった。
当然、清明もその意図に気づいている。気づいてはいるが、そこを力ずくで突っ込んだところで、頑固な道満が首を縦に振らないこともまた、冷徹に理解していた。
だからこそ、清明はしなやかに方針を切り替えたのだ。
――見られないのであれば、すべて言葉で聞き出せばいい。
そうなった。
「一つ聞きたい」
その日もまた、厳かな書庫の中で、清明は何事もない平然とした顔で道満の前に腰を下ろした。道満はその決まり文句を聞いただけで、顔を盛大に歪める。
「またか」
「一つだ」
「お前の一つは倍々で増える」
清明は否定しなかった。否定しない時点で、既に不穏な未来が確定している。道満が心底嫌そうに分厚い本を乱暴に閉じると、清明は待ってましたとばかりに静かに口を開いた。
「主は熱が上がる前に兆候はあるのか」
道満は不審げに眉をひそめる。
「……ある」
「先に気づける程度には?」
「慣れればな」
「どこを見る」
道満は露骨に、お前には教えたくないという嫌悪の表情を浮かべた。しかし清明の目は、純粋な学術の徒のごとく真顔だ。
道満は歯噛みする。
教えたくはない。だが全く教えなければ、清明は清明で勝手に推測し、勝手に試し、勝手に危ない答えへ辿り着く可能性がある。それを思えば、最低限こちらが線を引いてやるしかない。
「視線」
道満は、最低限の情報を吐き出すように短く答える。
「焦点が少し鈍る」
「呼吸が浅くなる前に一拍長く止まる」
「指先が冷える時と熱を持つ時がある」
清明は深く頷く。その脳内の頁に、一言一句漏らさず記憶している顔だった。
「喉元は」
その瞬間に、道満は盛大に顔をしかめた。
「そこから先だ」
「聞いている」
「聞くな」
「必要だ」
「下心が混ざっている」
清明は、ほんの少しだけ言葉を詰まらせた。
「……否定はしない」
道満は無言のまま、手にしていた本を容赦なく清明の額へと叩きつけた。バキ、と鈍く激しい音が響き渡る。
しかし清明は、身をかわそうともしなかった。避けないままその一撃を受け止め、本が床に落ちる前に静かに受け止めると、何事もなかったかのように机の上へと戻した。
「だが必要でもある」
「それが厄介だと言っている!」
道満が怒気を孕んで吐き捨てるが、清明は少しも堪えた様子を見せない。むしろあの日の一件以降、彼は妙に落ち着き払っていた。
感情に任せて焦って踏み込むような真似はしないし、無理に見ようと覗き込むこともしない。ただ、牙を研ぐように、時間さえあればこうして知識を吸い上げに聞きに来るのだ。
それが道満には、あまりにも不快だった。
「抱えるなら横と正面、どちらが楽だ」
「熱が上がる時、冷やすべきか逃がすべきか」
「喉元と背、先に触るならどちらだ」
「指先が冷える時は何が先に崩れる」
「眠らせた方が良い時はあるか」
「抱いて落ち着くなら、どの程度の圧が負担にならない」
最初の数回を重ねた時点で、道満は戦慄と共に理解していた。
こいつは、自分が隠して見せないようにしている分の空白を、すべて完璧な「知識」という名の布陣で埋めようとしているのだ。
最悪の学習能力だった。
しかも清明はどこまでも真面目であり、毎回平然と、事務的な記録でも取るような顔をして聞いてくる。それが屋敷を維持するための必須の知識であると、一点の疑いもない確認の顔をして。
そのくせ、その純粋な羅列の中に、時折どろりとした執着が混ざるのだ。
「喉元は、普段触れても反応があるのか」
「お前な」
「……手を取る時、指先は握るより撫でる方が良いのか」
「お前な」
「抱いた時、主は逃げないが、あれは許容か」
「お前な!」
ついに耐えかねて、道満が凄まじい勢いで机を叩いた。びりびりと空気が震える中、清明は本気で不思議そうに首を傾げる。
「何だ」
「何だではない!」
道満は、肺の底から声を大にして怒鳴る。
「途中から明らかに必要知識ではないだろうが!」
清明は一瞬だけ、その指摘を咀嚼するように考えた。それから、至極静かに言い放つ。
「必要ではある」
「どこに!」
「私に」
道満は、あまりの傲慢さに完全に絶句した。
清明の瞳は、どこまでも真顔だった。底知れないほどの真顔。自らの内に秘めた欲を一切隠す気がないくせに、その根底にある理屈も誠実さも、微塵も崩そうとはしない。
下心はある。だが、決して下品な泥臭さには落ちない。
強烈な欲はある。だが、決して相手を損なうような乱暴さには至らない。
その全てを真面目に、丁寧に、一歩ずつ確実に積み上げて迫ってくる。
これほど恐ろしく、最悪な男はいなかった。
「……お前は」
道満が、絞り出すような低い声で呟く。
「見せない方がまだましだと思わせておいて、見せない間に別方向から完璧に外堀を詰めてくるな」
清明は、少しだけ思考を巡らせた。
「見せてもらえないからな」
あまりにも素直で、あまりにも当然の権利を主張するような返答に、道満はついに限界を迎えて机にがっくりと突っ伏した。
駄目だ。見せなくても、結局は同じことだった。
見せればその目で見て貪欲に学ぶ。見せなければ、こうして言葉で全てを毟り取るように聞いてくる。
どちらの道を選ぼうとも、清明という男の歩みは決して止まらない。
そして何より、渦中のこはく自身が、そんな清明の執着を少しも拒もうとはしないのだ。道満は深々と、絶望の混じった長い息を吐き出した。
「……本当に面倒な男になったな」
清明は、その言葉を聞いてほんの少しだけ、満足げに目を細めた。
「成長したと言え」
道満は返す言葉の代わりに、無言のまま二冊目の分厚い本を容赦なく投げつけた。




