清明、見てしまった
「一つ聞きたい」
後日、清明はそう言って道満の正面へと腰を下ろした。それは鈴の音のように静かで、いつも通り凪いでいて、妙なほど端正に整った声音だった。
だからこそ、道満はあからさまに苦虫を噛み潰したような顔をした。来るだろうと予感はしていた。予感はしていたが、やはりこの男は本当にやってきた。
執務の合間、すっかり人払いの済んだ静寂な書庫の一角。向かいに座る清明は、まるで天気の変化でも尋ねるかのような平然とした顔でこちらを見つめている。
道満は隠そうともせず、露骨に眉間へ深い皺を刻んだ。
「聞かん」
「まだ何も言っていない」
「言う前から分かる」
道満は考えるよりも早く即答した。
「先日の件だろう」
清明は否定しなかった。その無言の肯定だけで、道満にとっては胃の腑が焼けるほど充分だった。
道満は室内に響くほどの勢いで、盛大に舌打ちをする。
あの日起きた出来事は、不可抗力という名の完全な事故だった。任務の出先で起きた結界の綻びと、それに伴う禍々しい気配の乱れ、そして護衛線の組み直し。本来ならば、そこにまだ若い清明を呼び出すような修羅場ではなかったし、呼ぶつもりも毛頭なかった。
だがその日は、あまりにも間が悪すぎたのだ。戦線の立て直しに人手が足りず、結果として清明が誰よりも先にその深奥へと踏み込んでしまった。その時にはもう、手遅れだった。
こはくは完全に乱れていた。息は浅く途切れ、肌には尋常ならざる熱が上がり、白い指先は小刻みに震え、普段は決して崩れることのない絶対的な静寂が、無残に崩壊していたのだ。
道満はあの瞬間、何より先にこはくへ手を伸ばした。抱きかかえ、喉元へ触れ、背を支え、荒ぶる力をなだめて落ち着かせ、熱を逃がしながら呼吸を整える。そうするしかなかったし、それが一番早かった。
だが、そのすべてを清明に見られた。
こはくの乱れた姿を。
自分がこはくへ触れる場所を。
どこに手を添え、どこを支え、どの反応で何を判断しているかを。
あの男は見た。見てしまった。
それだけで道満の腹の底に、冷たい怒りと焦燥が沈んでいる。知られたくなかった。清明だけには、余計に見せたくなかった。こはくに触れるための手順など、こはくが乱れた時の反応など、あの男に覚えさせていいものではない。
そして今、こうして何食わぬ顔で向かいに座っている。最悪という言葉以外に、この状況を表す語彙を道満は持たなかった。
「一つだけだ」
清明が淡々と告げる。
「一つで済むか」
「まずは一つ」
「まずは」などという不穏な前置きがついている時点で、既に終わっている。道満は心底嫌悪を露わにしながら、胸の前でがっしりと腕を組んだ。
「……言ってみろ」
清明はほんの一瞬だけ思考を巡らせるように目を伏せ、それから静かに、迷いのない口を開いた。
「先日、あなたは主の喉元に触れていた」
道満は即座に顔をしかめた。恐れていた刃が、正確に急所を突いてくる。
「そこが一番呼吸を戻しやすいのか」
一点の曇りもない真顔だった。道満は、逃避するように深々と両手で顔を覆った。やはり、危惧していた通りの問いが来た。
清明の声は、水滴が岩を穿つように淡々と続く。
「背を支えていた位置も気になった。抱え起こすなら、あの角度が一番負担が少ないのか」
「それとも、主はああいう時、胸郭が詰まりやすいのか」
「呼吸が乱れていたが、あれは熱を逃がしていたのか、それとも力が飽和していたのか」
「喉元に触れた時だけ反応が大きかったのは、あそこが弱いからか」
道満は無言のまま、絶望を叩きつけるように机へと額を打ちつけた。ゴン、と鈍い音が静かな書庫に響き渡る。
清明は一瞬だけ口を慎んだ。
「……具合でも悪いのか」
「貴様のせいだ!」
道満が跳ね起きるように顔を上げ、烈火のごとく怒鳴りつける。しかし清明は、本気で合点がいかないといった風な、無垢な顔をしていた。
「何故だ」
「何故ではない!」
道満は忌々しげに吐き捨てた。
「だから見せたくなかったと言っている……!」
その言葉には、思った以上に本音が滲んでいた。
清明はそこで初めて、言葉の重みを感じたように少しだけ沈黙した。
「……やはり、見ない方が良かったのか」
「当たり前だ!」
髪の毛が逆立ちそうなほどの即答だった。
「知らなくていい!」
「覚えなくていい!」
「学ばなくていい!」
あの場面を清明に学ばせたくない。理屈ではなく、本能の叫びに近かった。こはくが弱る姿も、こはくが反応する場所も、自分が長い時間の中で覚えてきた扱い方も、何もかも清明に渡したくなかった。
清明は再び押し黙った。だが、その沈黙は決して反省や納得によるものではなく、新たな知識を頭の中で整理し、思考を組み立てている側の顔だった。それが道満にとっては、たまらなく腹立たしい。
しばらくの沈黙の後、清明は静かにその理性を紡ぎ出した。
「だが、知っていた方が良い場面もある」
道満の眉間が、千切れそうなほど激しく引きつる。
「ない」
「ある」
清明は至極冷静に、淡々と返す。
「先日のように、あなたが間に合わない場合」
「私しかいない場合」
「知らないまま触る方が危険だ」
それは、完璧な正論だった。
あまりにも隙のない正論すぎて、道満は一瞬だけ返す言葉を失ってしまう。実際、その通りではある。道満が間に合わない時、こはくを支えられる者が何も知らない方が危険だ。それは分かる。
分かるからこそ、腹が立つ。
清明はなおも言葉を紡ぐ。
「見たくて見たわけではない」
「だが見た以上、知らないままでいる方が危うい」
「だから聞いている」
その声には、どろりとした邪な欲の気配は感じられない。少なくとも、表向きは。知ってしまった異質な真理だからこそ、次なる機会に誤ちを犯さぬよう最適解を確認している――まさに、いつもの実直な清明そのものだった。
だからこそ、余計に性質が悪い。
道満は長い間、暗い沈黙に沈み込んだ。この男は本気で貪欲に学ぶ。目撃した事象を瞬時に理解し、次なる機会へ完璧に活かそうとする。根底には執着も好意もあるというのに、その表面を完璧な理屈で固めて通してくる。
これほど最悪な対峙はなかった。
「……清明」
地を這うような低い声で、道満が呟く。
「何だ」
「お前は今、知識欲と下心の境目に立っている」
清明の動きが、一瞬だけぴたりと止まった。
ほんの、僅かな一拍。それから、彼は珍しく決まずそうに視線を斜め上へと逸らした。
「……否定はしない」
道満は、絶望と疲弊のあまり机にもう一度激しく額を打ちつけた。




