大人になった清明は口説く、式神道満は隠す
清明は、教えられたことをきちんと学習した。
人の保つべき間合い。触れても許される距離。
踏み込んではならない領域への作法。
そして、「拒まれないこと」と「許されていること」は決して同義ではないという事実。
その全てを彼は大真面目に反芻し、完璧に覚えた。
――そして覚えた上で、なお諦めることなどしなかった。
そこが何よりも、この上なく質が悪いのだと道満は痛感している。
若い頃の清明は、その実直さのあまり加減が危うく、どこか尖っていた。だが、大人になり前世の輪郭を完全に宿した今の清明は、まるで違う。
手順を覚えた。間合いを覚えた。
確認という名の周到さを覚えた。
そして何より、相手を揺さぶるだけの「余裕」さえ身につけてしまったのだ。
その結果がどうなったかと言えば、若かりし頃の暴走など可愛く思えるほど、以前よりよほど厄介極まりない存在へと変貌していた。
互いの距離の詰め方だけは妙に濃厚で、近い。
道満にとっては、その揺るぎなさこそが何よりも恐ろしかった。
昔の清明はまだ止めやすかったのだ。そこには荒削りな勢いがあり、若さ特有の脆さがあり、付け入る隙も確かに存在していた。
だが、今の彼にはそれがない。
手順を確実に踏む。確認を怠らない。
拒まれなければ、淀みなく先へ進む。
決して無理強いはしないし、独りよがりに押しつけもしない。だが、その足元は決して後ろへは引かないのだ。
じわじわと、当然のような顔をしてこはくの不可侵の領域へ居座り続けている。
ある日、道満がいつものように執務室の重い扉を開けると、そこでは清明がこはくを優しく抱き寄せている最中だった。
きつく縛るような抱擁ではない。逃げられないように閉じ込めているわけでもない。
ただ静かに、慈しむように腕の中へと囲い込んでいる。
こはくは一切の抵抗を見せていなかった。清明の腕に収まったまま、いつものように淡々と書類に目を落としている。
そのあまりにも絵画のように自然な光景に、道満は入り口でぴたりと足を止めた。
「……何をしている」
氷のように低い声で問う。
清明は抱きすくめた姿勢のまま、ちらりと視線だけをこちらに寄越した。
「抱いている」
「見れば分かる!」
道満の怒鳴り声が即座に切り返す。
それでも、清明は顔色一つ変えようとしない。
「嫌なら言ってくれ」
腕の中のこはくへ向けて、静かに語りかける。
「離れる」
そう言って、ほんの僅かに腕の力を緩めてみせた。本当に本人が望めば、容易に抜け出せるだけの隙間をわざわざ作る。
しかし、こはくは微動だにしなかった。
ならば、このままで。清明は当然と言わんばかりの平然さで、再び愛おしげに腕を元の位置へと戻す。
その一連の傲慢さに、道満のこめかみにぷつりと青筋が浮き上がった。
「貴様……!」
道満はずかずかと大股で歩み寄り、清明の腕を乱暴に掴んで引き剥がした。
「離れろ!」
「断る」
それは一瞬の躊躇もない即答だった。
昔の清明であれば、ここで気まずそうに素直に身を引いただろう。だが、今の男は違う。
「拒まれていない」
「だから何だ!」
「確認もしている」
「そういう問題ではない!」
「毎回そう言うが、未だに何が問題なのか曖昧だ」
一点の曇りもない真顔で言い返され、道満の眉間が激しく引きつる。清明はなおも、至極真っ当な正論を述べるように平然と続けた。
「嫌ならやめる」
「無理強いはしない」
「拒まれれば退く」
「困らせるつもりもない」
「その上で、私は好意があるから触れている」
非の打ち所がないほどに理路整然としていた。少年の頃の我流の暴走よりも、余計に性質が悪い。道満は心底嫌悪を噛み潰すように、深く顔をしかめた。
「人間は何故そう成長する……」
思わず漏れ出た呪詛のような本音に、清明がわずかに片眉を上げた。
「成長はするだろう」
「するな」
「無茶を言うな」
どこまでも平然と、涼しい顔で返される。
その対峙の横で、こはくは相変わらず無言のまま、清明の仕立ての良い袖を指先で小さく、けれど確かに掴んでいた。
道満はその控えめな指先を見て、一瞬だけ言葉を失う。清明もそのかすかな重みに気づいて視線を落とし、それから、ほんの僅かに優しく口元を和らげた。
「ほら」
静かに、勝利を確信したような声で言う。
「嫌ではないらしい」
道満はその象徴的な手つきを見つめ、心底嫌そうに顔を歪めるしかなかった。
――思った通りだ。
正しい手順を覚え、大人の余裕を身につけ、最適な加減を覚えた人間は、若い頃の何倍も厄介で、そして底知れない。
普段の清明は、どこまでも理性的だ。
手順を完璧に踏む。事前の確認を絶対に怠らない。
拒絶がなければ触れるが、決して越えてはならない一線の境界は見誤らない。
真面目で、誠実で、いついかなる時も落ち着き払っている。だからこそ、道満の胸の奥には黒々とした警戒が渦巻くのだ。
――あれが、理性ごと崩壊した時が一番まずい。
こはくが身も心も乱れるような姿を、清明にだけは絶対に見せるわけにはいかない。何があっても、それだけは阻止せねばならないのだ。
あれは良くない。本当に、致命的なまでに良くない。
こはくは普段、静寂そのものの存在だ。
無言で、穏やかで、どこまでも淡々としている。清明にどれほど触れられても大きくそのペースを崩すことはない。拒まないし、騒ぎ立てもしないし、表皮に現れる感情の起伏も極めて薄い。
だからこそ、その強固な静寂が崩れ去った時の落差が、あまりにも悍ましいのだ。
息が乱れる。呼吸が浅く切なくなる。
白い指先がかすかに震える。肌に艶やかな熱が滲み出す。
普段ほとんど動かない鉄の仮面のような表情が、ほんの僅かに快楽や苦痛で揺らぐ。
ただそれだけの変化で、世界を狂わせるには充分すぎるほどまずい。
普段何よりも静謐なものが、無残に乱れる姿というのは、それだけで見る者の理性を焼き尽くし、狂わせる魔力を持っている。
道満はその恐ろしさを骨の髄まで知っている。そして、閻魔もそれを理解している。
だからこそ、あの姿だけは清明の視界に入れてはならないのだ。
あれは、頭で理解していても本能が引きずり込まれる。どれほど強固な理性を持っていても、どろりとした欲が頭をもたげてしまうのだ。
もっとその奥が見たい。
もっと深く触れれば、この体はどうなるのか。
一体どこまで崩れ、どこまで私を許してくれるのか。
そう思わせる悪魔的な引力が、あの静寂の崩壊には宿っている。
そして、清明はどこまでも生身の人間なのだ。
どれほど真面目で、理性的で、最適な加減を知っていいようとも、彼の根底に流れるのはどうしようもない人間の血だ。
好きな相手に触れたい。もっと近づきたい。
もっと、その全てを我が物として欲しい。
それを強靭な理性で制御できる男ではあるが、制御できてしまうからこそ厄介なのだ。
一度でもあの乱れた果実を見てしまえば、彼はその天才的な頭脳で完全に「理解」してしまう。
こはくは、こうすれば乱れるのか。
ここの肌に触れれば呼吸が劇的に揺れる。
こうして強く抱けば、もう二度と逃げられない。
こうして熱を煽れば、自分だけのものになる。
それをひとたび理解した清明は、間違いなく次からの「正しい手順」にそれを完璧に組み込んでくるだろう。
感情の勢いで一線を踏み外す無頼漢の方が、まだ力ずくで叩き出しやすいのだ。だが、清明は決定的に違う。
見て、一瞬で記憶し、貪欲に学び、次からは何食わぬ顔で正確にそこをなぞってくる。
だから、絶対に駄目だ。道満は本気で危機感を募らせていた。あの姿だけは、何が起きようともあの男の目に触れさせてはならない。
たとえば、こはくの強大すぎる力が暴走して乱れた時。
たとえば、出先でこはくの体調が劇的に崩れてしまった時。
たとえば、どうしても誰かが触れてその身を落ち着かせる必要がある時。
道満は、清明の力を借りるような真似は絶対にしない。
どれほど護衛の数が足りなかろうと。
どれほど強力な術師の介入が必要不可欠であろうと。
その場における最適解が、他ならぬ清明その人であったとしてもだ。
その修羅場にだけは、絶対に彼を来させない。呼べば、その瞬間に全てが終わる。
清明は間違いなく、氷のように冷静な顔で状況を瞬時に把握するだろう。手も的確に貸すし、余計な邪魔もしない。その場ではきっと、完璧に理性的な護衛として振る舞うはずだ。
だからこそ、恐ろしいのだ。その「その後」が完全に終わってしまう。
事態が収束した数日後、彼は何事もなかったかのような静かな顔でやってくるのだ。「先日見たが」という、恐ろしい一言を皮切りにして。道満にはその未来が、確信を持って予見できた。
「主はああいう時、喉元が弱いのか」
「呼吸が乱れた時、背を支えた方が楽か」
「抱えるならどの角度だと負担が少ない」
「嫌ではなさそうだったが、どこまでなら私の許容か」
一点の曇りもない真顔で、学習の成果を問いかけてくるに違いない。そうなれば終わりだ。
何一つ間違っていないという聖人のような顔をして、その実、悍ましいまでの執着で全てを学習していく。最悪の未来だった。
道満は肺の底から、深々と重いため息を吐き出す。
清明は賢すぎる。察しも人一倍良い。学習の速度も異常だ。誠実で、我慢もどこまでも利く。
だからこそ、その綺麗な器に決して見せてはならない深淵があるのだ。
知らなくていい。覚えなくていい。
そんな歪な愛の形など、学ばなくていい。
あれだけは駄目だ。絶対に、何があっても駄目だ。道満は本気でそう心に誓っている。
清明がこはくの乱れた姿をその瞳に焼き付ける前に、何としてでも、自分が先にその間に割って入る。
腕ずくでも引き剥がす。部屋から強引に叩き出す。
何重もの頑強な結界で視界を遮る。
手段など何でもいい。あれだけは、絶対にあの男に見せてはならない。
もし見せたら最後、あの男は冷静な顔を崩さないまま、今よりも一段深い奈落のところまで平然と歩み寄ってくる。それが痛いほど分かっているからこそ、道満は今日も全力で、本気で清明を牽制し続けるのだ。




