青年になった清明の申告
執務室は静まり返っていた。耳をすませば、規則的に紙をめくる微かな音や、滑らかに筆の走る音、そして窓の外を気まぐれに吹き抜けていく風の気配だけが室内に溶けていく。
こはくはいつものように机の向こうに腰掛け、無言のまま書類へ視線を落としては、必要な箇所へ目を走らせて静かに頁を繰っていた。その姿はあまりに変わらず、道満はふと、自分だけが長い時間の中で勝手に乱され続けているような気分になる。
こはくは何も言わない。誰かに寄ることもあれば、突き放すこともある。だがその基準は道満には読めず、読めないからこそ厄介だった。式神として傍にある自分と、護衛としてそこにいる清明。そのどちらにも同じように静かな視線を向ける主が、時折ひどく残酷に思える。
その向かいに座すのは清明。青年へと差しかかった頃の、まだ少年特有の若い輪郭を微かに残した顔立ちであったが、その瞳に宿る真面目さだけは、成長しても少しも変わることはない。
そしてその横には、道満が佇んでいた。本来なら単なる報告ついでに呼び出されただけのはずであり、少なくとも、道満自身はそう気楽に構えていたのだ。だが清明が不意に手元の書類を机に置いた瞬間、道満の胸奥に、長く忘れていたはずの嫌な予感が蘇った。
昔からそうだった。清明がこういう顔をする時は、大抵ろくなことにならない。
「一つ、申告がある」
妙に改まったその声音は、静水に石を投じるような響きを持っていた。道満が本能的な嫌な予感に眉を寄せ、こはくが無言のまま視線を上げる中、清明はただまっすぐにこはくを見つめた。
その目が気に食わなかった。
迷いがない。誤魔化しもない。自分が何を望んでいるかを疑ってすらいない目だった。かつて都で張り合っていた頃にも、清明はそういう目をすることがあった。道満がどうしても届かぬ場所へ、何の悪意もなく真っ直ぐ歩いていく時の目だ。
「将来的には、伴侶になりたいと思っている」
その突拍子もない言葉に、道満は盛大にむせ返った。
「ごほっ――何」
激しく咳き込みながら視線を向ければ、清明はどこまでも真顔であった。冗談を言っている気配など微塵も爪の先ほども存在しない。道満はせり上がる咳を手の甲で押さえながら、低く唸るような声を絞り出した。
「何を言い出す」
対照的に、清明の佇まいは凪いだ海のように至って落ち着いていた。
「申告だ」
「何の」
「将来設計の」
道満は痛む額を容赦なく押さえた。胸を突いた嫌な予感は見事なまでに的中し、正しすぎて早くも頭痛が編み上がっていく。
将来設計。伴侶。こはくの隣。
それらの言葉が、道満の中で不快なほど鮮明に響いた。自分はそんな言葉を考えたこともなかった。清明が当然のように口にした瞬間、胸の底が焼けるようにざわついた。
「好意がある」
「知っている」
道満は考えるよりも先に即座に言葉を返した。知っている。それこそ、嫌というほど知っているのだ。少年の頃からその一点において一切ぶれることなく、真顔でその想いを積み上げてきた男なのだから。
だからこそ腹が立つ。
清明はいつもそうだ。欲しいものを欲しいと言える。届きたい場所へ、何の疑いもなく手を伸ばせる。かつて術で張り合った時もそうだった。こちらが捻じ曲げ、削り、奪い取ろうとしたものへ、清明はまっすぐ届こうとする。
その真っ直ぐさが、昔から気に食わなかった。
そして今、その矛先がこはくへ向いている。
「将来的には、護衛以上の立場を望んでいる」
「言い換えても同じだ」
「伴侶になりたい」
「二度言うな」
道満が刃のように即座に切り捨てるが、清明は眉一つ動かさない。
「主への忠誠とは別の話だ」
「分けるな」
「分ける必要がある」
一歩も引かぬ真顔で、きっぱりと言い切る。
「守るべき主として仕えることと、こはく個人に好意を持つことは別だ」
あまりにも理路整然としたその主張に、道満は苦虫を噛み潰したように顔をしかめる。
正しい。
正しいからこそ腹立たしい。
道満には分けられなかった。主への忠誠、契約、執着、救い、苛立ち。すべてが絡まり合って、もうどれがどれだか分からない。こはくの傍にいる理由を問われれば、式神だからと答えられる。だが、それだけではないことを、道満自身が一番よく知っている。
「お前はそういうところが本当に面倒だな」
しかし清明はそんな皮肉を気にした様子もなく、こはくを真っ直ぐに見つめたまま言葉を重ねていく。
「もちろん、今すぐ返答を求めるつもりはない」
こはくは依然として無言のままだ。清明は構わず、自らの覚悟を刻むように言葉を尽くす。
「まだ自分は若い。未熟でもある」
「護衛としての信頼も、屋敷での立場も、積むべきものがある」
「その上で、将来的には隣に立てる位置を望みたい」
あまりにも大真面目に提出される人生設計の重みに、道満は再び激しく咳き込んだ。
「っ、げほ……お前……」
進路希望や配属願いを出すような平然とした顔つきで、あろうことか伴侶への希望を堂々と提出しているのだ。清明の瞳は、どこまでも本気だった。
それは恋の告白というよりは、文字通りの冷徹な「申告」だった。将来的な目標設定を掲げ、着実に外堀を埋めていこうとするその姿勢に、道満はこめかみを押さえる。
同時に、嫌な感覚が腹の底へ沈んだ。
清明は本気で積み上げるつもりなのだ。護衛としての信頼も、屋敷での立場も、こはくの隣に立つために必要なものを一つずつ揃えていく気でいる。道満は式神として最初から近くにいる。近すぎるほどに繋がれている。だが、清明は違う。自分の足で近づこうとしている。
その差が、どうしようもなく不愉快だった。
「正気か」
「正気だ」
一瞬の躊躇もない即答だった。
「かなり真面目に考えた」
「考えるな」
「何故」
「考えるな」
清明は理解できないといった風に、不思議そうに眉を寄せる。
「なぜだ」
「なぜでもだ」
道満は心底嫌悪を隠そうともせず吐き捨てる。
「そういうものは黙って胸にしまっておくものだ」
その言葉は、清明への忠告というより、自分自身へ向けたものに近かった。望まない。口にしない。形にしない。そうしておけば、式神という立場の中へ隠せる。主への執着も、嫉妬も、独占欲も、全部ただの忠義として誤魔化せる。
清明は少しの間、その言葉を吟味するように思案した。
「伝えなければ伝わらないだろう」
「伝わらなくていいこともある」
「それは不誠実だ」
あまりにも真っ直ぐな正論を返されて、道満の言葉が一瞬だけ宙に詰まる。
不誠実。そうかもしれない。
道満はこはくへ何も言っていない。言えない。式神として傍に置かれることにしがみつきながら、皮肉と忠義の影に感情を押し込めている。清明のように、伴侶になりたいなどと正面から言えるはずがない。
その間も、こはくは相変わらず静寂の衣を纏ったように無言を貫いていた。拒絶の意思も示さなければ、肯定の光も見せない。ただ、硝子玉のような瞳で静かに二人を見つめている。
だが、その底知れない沈黙を、清明が拒絶と受け取ることはなかった。
そこもまた気に食わない。
こはくが拒まないことを、清明は進む理由にする。道満はその沈黙の前で、いつも立ち止まるしかなかったというのに。
「今すぐでなくていい」
「返答も急がない」
「ただ、そう考えていることは知っていてほしい」
静かに、しかし岩をも穿つような真面目さで言い切る。道満はついに両手で頭を抱え込んだ。
これがただの軽口や、若気の至りの戯言であるならどれほど救われただろう。本気で、誠実に、自らの未来を見据えて放たれた言葉だからこそ、一番質が悪い。
そしてさらに質が悪いのは、清明が相手であることだった。
かつて都で肩を並べ、張り合い、互いの術を認めざるを得なかった男。その輪廻の先にいるこの清明が、またしても道満の前に立ち、今度はこはくの隣を望んでいる。
ああ、そうか。
道満はひどく冷えた頭の片隅で思った。
これは昔の続きなのだ。
清明という男は、いつも道満の前で眩しいほど当然に欲しいものへ手を伸ばす。そして道満は、それを見て苛立ち、否定し、しかし目を離せなくなる。
「お前な……」
肺の底から絞り出すように、道満が低い声を絞り出す。
「それを私の前で言うな」
清明はようやく、邪魔者を視界に入れるように道満へと視線を巡らせた。
「何故」
「何故でもだ」
道満は噛みつくように即答した。
「気分が悪い」
清明はしばらく考え込んでから、妙に得心のいったような真面目な顔でぽつりと言った。
「そうか、なら次は二人きりの時に言う」
まさかの斜め上の配慮に、道満は三度目にむせ返った。
「お前はっ……!」
清明の瞳はどこまでも本気であり、それが相手を思い遣った上での配慮だと信じて疑わない顔をしていた。
道満はその瞬間、ほとんど殺意にも似た苛立ちと、どうにもならない焦燥を同時に覚えた。
二人きり。
その言葉が腹の底に重く落ちる。
清明とこはくを二人きりにするなど、考えただけでろくな未来が見えない。清明は真っ直ぐすぎる。こはくは拒まなすぎる。その二つが噛み合った時、何が起きるか分からない。
いや、分からないのではない。
分かりたくないのだ。
こはくは相変わらず、深い無言のなかに佇んでいる。道満にも清明にも、同じように静かな視線を向けている。その平等さが、今だけはひどく腹立たしかった。
道満はこはくの式神だ。永遠に繋がれ、影の牢へ戻され、呼ばれれば必ず応じる。それは檻であり、同時に唯一の救いでもあった。
だが清明は違う。
自分から望んでいる。
伴侶という立場を、隣に立つ未来を。
そしてその真っ直ぐさが、道満の中で眠っていた古い対抗心を、嫌というほど鮮やかに呼び起こしていた。
執務室には、ただ一人激しく咳き込みながら、心底嫌そうに苦々しい顔で机を睨みつける道満の姿だけが浮き彫りになっていた。
その顔の奥で、道満は静かに認めていた。
清明は厄介だ。昔からそうだった。
そして今度ばかりは、放っておけば本当にこはくの隣まで辿り着きかねない。




