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転生した清明 少年〜青年期

書庫は静まり返っていた。

 

屋敷の書庫は、いかにも人間の蔵書然とした佇まいを見せているくせに、その実、内包する中身はまるで異なっている。

紙の匂い、古びた革表紙、幾重にも積まれた巻物や整然と並ぶ背表紙など、見た目だけを切り取るならば人の世のそれと大差はない。

だが、棚の暗がりに収まっている文字列は、決して人間のものばかりではなかった。

 

道満はその事実を、嫌というほど知っていた。

こはくがたまに執務で用いる見慣れない文字や、紙の上に流れる見覚えのない線。それは人の術式とも、漢字とも、梵字とも違う。

 

読めはしないが、肌を刺すような感覚で分かってしまう。

あれは人間の言語ではないのだ。

形も、線の流れる呼吸も違う。それは見た瞬間に、自らの理解の範疇を超えた外側にあると直感させる類の文字だった。

道満自身、人と異形の文字の区別くらいは容易につく。人間の言葉が意味へと向かって組み立てられるものであるのに対し、異形の言葉は、その歪な形そのものが質量を持った意味として完結している。そのような決定的な違いくらいは、さすがに分かっていた。

 

だからこそ、その日、道満はぎょっとしたのだ。

 

書庫の奥、机を一つ挟んで清明と向かい合っていた時のことである。

少年の清明はまだ背も低く、机に向かう後ろ姿も年相応に小さかったが、不思議とその手元だけには迷いがなかった。

術式の基礎を叩き込むつもりで、道満は人間用の基礎術式や結界構造、祓いの組み方といった本を適当に何冊か積み上げていた。

 

「そこまで読んでおけ」

 

そう言い残して自分は別の巻物を広げ、しばらくは静寂が満ちていた。

耳に届くのは紙をめくる規則的な音だけで、清明も珍しく黙り込んで集中しているのだろうと、道満は高を括っていた。

 

しかし不意に、衣服が擦れ、紙の上を何かが滑る音がした。道満が何気なく顔を上げると、清明が何かを書き込んでいる。机の端、開いた本の余白にさらさらと筆を走らせるその手つきに、言い知れぬ引っかかりを覚えて道満は視線を細めた。

次の瞬間、彼の思考がぴたりと止まる。

 

「……何を書いている」

 

清明が顔を上げる。

 

「注釈」

 

「何の」

 

「これの」

 

そう言って開いた書物を少し持ち上げたが、道満は眉をひそめた。それは先ほど自分が積んだ本ではなく、どうやら清明がいつの間にか、棚の隙間から勝手に引き抜いていたらしい。

古い装丁。紙ではなく、まるで獣の薄い膜のような頁は、道満にとっても見覚えのある類のものだった。

 

こはくがたまに、影の中で読んでいるあの手の本だ。

道満は胸を突く嫌な予感を覚えたまま、清明の手元を凝視する。そこに整然と並んでいた文字は、やはり人間の紡ぐものではなかった。

 

細く、どこか歪んでいて、滑らかに流れているのに形としては頑なに閉じている。意味を読むための記号ではなく、形そのものが呪力のような何かを孕んでいる文字。

紛れもない、異形の言葉だった。道満の眉がぴくりと跳ねる。

 

「……おい」

 

清明は首を上げる。

 

「何だ」

 

「それが読めるのか」

 

清明は一拍だけ静かに沈黙し、それから自らの本を見下ろした。

 

「読める」

 

あまりにも自然に、当然のように言うので、道満は返す言葉を失ってしまった。

 

「読める、だと」

 

「うん」

 

清明は頷いた。

 

「こっちの方が分かりやすい」

 

道満はしばらく言葉を発せなかった。

 

「……何?」

 

清明の瞳は、本気だった。

 

「人の文字より形が素直だ」

 

小さな指先で頁をなぞる。

 

「人間の文字は、同じ意味に対して言い回しが多い」

「でもこれは、形がそのまま意味だから早い」

 

さらりと言い捨ててまた視線を落とすと、彼は何事もなかったかのように続きを読み始める。

そこには一瞬の詰まりも、迷いもない。それはまるで、幼い頃から読み慣れた故郷の文字を見るような目だった。

 

道満の背筋に、ぞわりと薄寒い寒気が這い上がる。

人間の子どもが、人間の文字より先に、人ならざるものの言葉を“分かりやすい”と宣う。

書ける。読める。迷いがない。

異形に囲まれて育った人間は、これほどまでに変質してしまうものなのか。道満はそれを頭での理解ではなく、本能的な恐怖としてぞっと感じていた。

 

清明は確かに人間だ。脈もあり、寿命もあり、やがては老いて死ぬ。

だが、その内側の境界線が、人間の規格から静かに、そして致命的にずれていく。

こはくが日常的に使う文字を、こはくの周りに蠢くものたちが解する文字を、当たり前のように拾い上げ、理解し、自らの血肉として馴染ませていく。

 

それは天賦の術の才とは少し違っていた。ただ、この悍ましい環境に馴染みすぎているのだ。

人間が異形に近づくとこうなるのか、それとも最初からそのような異質な器であったのか、道満には判別がつかない。分からないまま、胸の奥に冷たい澱のような寒気だけが残った。

 

当の清明は何も気に留める風もなく、異形の文字でさらさらと余白を埋めていく。その迷いのない筆先を眺めながら、道満は妙に落ち着かない気分で重い息を吐き出した。

 

――育っている。

確信めいて、そう思った。

人間としてではなく、この化け物じみた屋敷のものとして。


 

時は流れた。

少年だった清明はいつしか成長して背が伸び、顔立ちからは幼さが消え、声も低く落ち着いていく。

 

輪郭は大人びて立ち姿も洗練され、気づけばそこに佇む姿は、かつて道満が知る前世の清明とほとんど瓜二つのものになっていた。

変わったのは容れ物である身体だけで、その中身は驚くほどそのままだった。真面目で、真っ直ぐで、天然で、それでいて妙に肝が据わっている。

 

そして、ある日のこと。

執務室でこはくを挟み、清明と道満が並んで立っていた時のことだった。ふと昔の光景が脳裏をよぎり、道満は少し意地悪な皮肉を込めて口を開く。

 

「そういえば」

 

清明が書類から顔を上げる。

 

「何だ」

 

「子どもの頃、こはくと結婚すると言っていたな」

 

清明は一拍も置かずに頷いた。

 

「ああ」

 

道満は鼻で笑う。

 

「随分と大層なことを言っていたものだ」

 

半ば揶揄うつもりであり、昔の他愛ない戯言として聞き流すつもりだった。だが清明は、あの頃と全く変わらない大真面目な顔で言葉を返す。

 

「今でもそのつもりだが」

 

重苦しい沈黙が落ち、道満の表情が凍りつく。

 

「……は?」

 

清明はこはくの横に立ったまま、平然と続けた。

 

「何か問題あるか?」

 

「あるだろう」

 

即答だった。清明は不思議そうに首を傾げる。

 

「どこに」

 

「全部だ」

 

清明はこはくを見るが、こはくは相変わらず鉄の仮面のような無言を貫いている。拒否も肯定もしない、ただそこに存在している。そしてその変わらぬ態度こそが、道満にとっては一番面白くない。

清明はそれを気にせずに続ける

 

「昔より今の方が現実的だと思うが」

 

「何がだ」

 

「年齢的に」

 

道満は頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。

 

「そういう話をしているんじゃない」

 

清明はどこまでも不思議そうな顔をする。

 

「じゃあどういう話だ」

 

道満は苛立ったように言い捨てる。

 

「私の主だぞ」

 

清明は一拍だけの間を置き、それから淡々と返した。

 

「私の主でもある」

 

道満の思考が再び停止する。

 

「……何だと」

 

「屋敷付きだ。護衛だ。主に仕える立場だろ」

 

理屈としては一分の隙もなく正しい。正しすぎて、逆に無性に腹が立つ。道満の目がじりじりと細くなった。

 

「一緒にするな」

 

「なぜ」

 

「お前は護衛だ」

 

「お前は式神だ」

 

ぴたりと、部屋の空気が凝固する。道満のこめかみに浮き出た青筋がピクリと跳ねた。

 

「言うようになったな」

 

対照的に、清明はどこまでも淡々としている。

 

「事実だろ」

 

こはくはその対峙の真ん中で、相変わらず何も言わない。止めようともせず、視線を逸らしもせず、ただ静かに佇んでいる。そしてそれこそが、最悪の触媒となっていた。

道満が低く威嚇するように言う。

 

「私の主だ」

 

清明も全く同じ温度の、揺るぎない声で返す。

 

「私の主でもある」

 

それは昔とは違う。幼い子どもの戯言などでは決してない。真っ直ぐに、歪みなく育ってしまった一人の男の、退路を断った本気の言葉だった。

 

その瞬間、道満は呪いにも似た確信を抱く。

ああ、これは駄目だ。この男は昔の“初恋”を何一つ拗らせることなく、あまりにも純粋に、真っ直ぐなまま大人になってしまった。しかも、タチの悪いことに前世と同じ顔をして。

 

道満は心底嫌悪の入り混じった顔を向け、清明はただ真顔でそれを受け止め、こはくは静寂を纏って佇んでいた。

 

そして執務室の空気だけが、じわじわと、底なしの泥沼のような面倒な方向へ向かって固まっていった。

 

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