陰陽師 清明、転生する
地獄の獄卒区画は、いつもと同じように淡々としていた。
責務は流れ、処理は進み、感情の入り込む余地は最初から設計されていない。
その静かな業務の隙間で、清明はふと立ち止まった。
いつも通りの顔で、いつも通りの声で、だが少しだけ違う間を置いてから言う。
「道満」
呼ばれて、道満が不審げに顔を上げる。
「何だ」
清明は一瞬だけ、自身の足元へ視線を落とした。
それから、まるで天気の変化でも告げるかのように、何でもないこととして言葉を続けた。
「そろそろ輪廻に戻ることになった」
空気が一段だけ遅れる。
道満の表情が変わるより先に、沈黙だけが先に落ちた。
「……は?」
ようやく出た声は、いつもの調子よりわずかに低い。
清明は変わらないまま頷く。
「役目は終わりのようだ」
「急だな」
「急だ」
淡々としたやり取りが、冷えた石を投げ交わすように交わされる。
だが、その“淡々”の中にだけ、妙な現実感があった。
道満は少しだけ目を細める。
「そうか」
短く言ってから、わざとらしく肩をすくめた。
「ではようやく地獄も静かになるな」
皮肉をまとったその言葉を、清明は否定しようとはしなかった。ただ少しだけ、困ったような笑みを唇の端に浮かべる。
「そうでもないと思うけどな」
「どういう意味だ」
「お前がいるし」
その一言で、道満の眉がわずかに動く。
「私は関係ないだろ」
すぐさま返された拒絶。だが、言い切った残響のあとに、ほんの僅かな空白が混ざる。清明はその繊細な綻びを、決して見逃しはしなかった。
「そういうところだよ」
軽く言う。
道満は鼻で笑う。
「勝手に評価するな」
だが、拒絶とは裏腹に、その視線は清明から外されることはなく、いつもより少しだけ長く見つめている。そんな視線を受け止めながら、清明は言葉を重ねた。
「正直、もう少し時間があると思ってた」
その言葉は、少しだけ柔らかかった。
「やっと、ちゃんと共有できるようになってきたところだったからな」
その瞬間、道満の指先がわずかに止まる。
共有――その単語が、胸の奥深くに小さな棘のように引っかかる。だが、それを口にして形にすることは選ばない。清明は彼の沈黙を見届けると、少しだけ視線を遠く、地獄の果てへと泳がせた。
「まあ、こういうもんなんだろうな。残る方が長いかと思ってたけど」
小さく息を吐く。
「案外、そうでもなかった」
沈黙が落ちる。しばらく、どちらも何も言わない。
業務の気配だけが遠くで動いている。
やがて道満が口を開く。
「勝手に来て、勝手に戻るのか」
「そうだな」
「迷惑なやつだな」
清明は少しだけ笑う。
「よく言われる」
その反応が気に入らないのか、道満は軽く舌打ちする。
「……最後くらい、もう少し引き留めるようなことを言ったらどうだ」
清明は一瞬考えて、それから素直に言う。
「引き留めても意味ないだろ。お前はそういうの嫌うし」
道満は返す言葉を失い、ただ黙り込む。そこに否定の言葉は生まれなかった。清明はそれを見届けると、慈しむように少しだけ目を細める。
「でもまあ、惜しいとは思ってる」
その言葉は、先ほどよりも少しだけ率直だった。
道満はすぐに返さない。珍しく、ほんの少しだけ遅れる。
「……そうか」
短く吐き捨てるように言ってから、視線を逸らす。
だが完全には離さない。
清明はそんな彼の不器用さを見つめ、静かに頷いた。
「じゃあな」
軽いはずの別れの言葉。
だが道満はそれに即座に返さない。
少しだけ間が空いてから、ようやく言う。
「勝手に消えるなよ」
清明は目を瞬かせる。
そして、少しだけ困ったように笑った。
「消えるわけではないけどな」
「似たようなものだ」
道満の声はいつも通りだが、わずかに硬い。
清明はそれ以上何も言わない。ただ一度だけ頷く。
「じゃあ、そのうちまた」
そう言って、背を向ける。
輪廻へ戻る流れの気配が、少しずつ清明の周囲に集まっていく。
その背中を、道満は最後まで見ていた。
何も言わず。何も呼ばず。
ただ、ほんの少しだけ舌打ちしてから、ぼそりと呟く。
「……面倒なやつだな」
その声は、誰にも届かない。
届かなくていい、とでも言うように。
清明の気配は、やがて静かに地獄から離れていった。
◇
屋敷の執務室は、いつもより少しだけ空気が張り詰めていた。
紙の音、術式の微かな残滓、整えられた結界の揺らぎ。
その中心に、屋敷の主であるこはくがいる。
そしてその横に、屋敷付きの上役・獄露が立っていた。
道満は呼び出される形でその場に現れる。
足元の転移の余韻が消えきる前に、違和感が一つ、視界に刺さった。
――知らないはずの“知っている顔”。
そこにいたのは、一人の少年だった。
だが、ただの人間であるはずがない。その立ち姿からは、術の濃密な気配が、骨の奥深くまでしっかりと通っているのが見て取れた。
そして、何よりもその目。
その瞳と視線が交わった瞬間だった。道満の胸が激しく脈打ち、呼吸がほんの一拍だけ凍りつく。
「……っ」
視線が合う。
見覚えがあるどころではない。
「……清明?」
思わず零れた声は、ほとんど確認というより反射だった。
少年は一瞬だけ目を瞬かせる。
そして、少しだけ首を傾げる。
その動きが、妙に“あの頃のまま”だった。
驚きに固まる道満を他所に、獄露が淡々と、業務報告のように説明を始めた。
「今日から護衛に配属になる術師だ」
「人間だが、術を扱う。お前が面倒を見ろ」
道満は弾かれたように、獄露へと鋭い視線を転じる。
「……面倒を見る?」
「そうだ」
返答は簡潔を極めていた。そのすぐ横で、こはくは一切の感情を削ぎ落としたように何も言わない。ただ、底の知れない視線だけが静かにそこに据えられている。道満は拒絶を噛み殺しながら、もう一度、少年を見据えた。
清明だった。輪廻を経たはずの、あの清明。
だが見た目は少年の形に変わっている。
それでも、目の奥の“質”だけは変わっていない。
少年は軽く頭を下げる。
「よろしく頼む」
声も同じだった。
あまりにも、自然に。
あまりにも、何事もなかったように。
道満の口元がわずかに歪む。
「……は」
小さく息を吐く。
「随分と忙しい再会だな」
獄露はそれを聞き流すように続ける。
「現場判断だ。こいつは戦力になる」
「お前が潰すなよ」
道満は一瞬だけ黙る。
そして、少年――清明を見たまま言う。
「輪廻というのは、もう少し穏やかなものだと思っていたがな」
清明は少しだけ目を細める。
「そうでもなかったようだ」
短く返す。その言い方が、昔とまったく変わっていない。
道満の眉がわずかに動く。
「……変わってないな」
「そうか?」
「そういうところだ」
こはくは相変わらず無言で二人を見ている中で、獄露が淡々と場を締める。
「説明は以上だ。配置につけ」
空気が動く。
道満は清明に視線を落としたまま、軽く肩をすくめる。
「護衛か、随分と大層な役職を貰ったものだな」
わざとらしく息を吐く。
「精々頑張れ」
皮肉の形をした言葉。
だがその奥に、ほんのわずかだけ違う温度が混ざる。
清明はそれをそのまま受け取るように、静かに頷いた。
「ありがとう」
変わらない。その一言が、逆に少しだけ引っかかる。
道満は視線を逸らさずに言う。
「……面倒な再配置だな」
誰に向けたでもないその言葉は、執務室の空気に溶けていく。
こはくは何も言わない。獄露はすでに次の書類を見ている。
そして清明だけが、そこに当然のように立っていた。
まるで最初から、そこにいるべきだったかのように。
◇
屋敷に来たばかりの清明は、まだ少年だった。
背丈も低く、顔立ちも幼い。だが、目だけは妙に落ち着いていた。
人間の子どもらしくない、と最初に思ったのは道満だった。
次に思ったのは、やはり清明だな、だった。
拾われたばかりの清明は、屋敷の仕事も術の扱いも覚えが早かった。
術を見る目も、見えないものを見分ける感覚も、年齢に対して妙に出来すぎていた。
獄露は便利な新戦力として使い、閻魔は面白がり、
こはくは相変わらず何も言わず、ただ必要な場所へ置く。
そして清明は、それを“選ばれた”と受け取った。
ある日、執務室の端で術具の整理をしていた清明が、ふと道満へ言った。
「こはくは優しいな」
唐突だった。
道満は書類から目も上げずに答える。
「どこがだ」
「拾ってくれた」
「お前をか」
「そうだ」
清明は素直に頷く。
「前は、ああいうのは気味悪がられることの方が多かった」
術が見える。見えないものが見える。
触れなくていいものに触れてしまう。
人間の世では、そういう子どもはだいたい扱いに困られる。
清明はそれを、特に恨みもなく淡々と言った。
「でもこはくは違った。気味悪がらなかった」
「見えてるなら使えばいい、みたいな顔してた」
道満はそこで、ようやく重い腰を上げるように顔を上げた。見下ろした先にある清明の表情は、至って真面目そのものだった。
「だから好きだ」
あまりにも自然に、息をするように彼は言う。道満は理解が追いつかず、不快そうに眉をひそめた。
「……何だと」
「好きだ」
清明は繰り返す。
「初めての友達だし」
少し考える。
「初恋でもあるかもしれない」
道満の手が完全に止まる。
「は?」
清明は、冗談の欠片もない真顔のまま、淡々と言葉を紡ぎ続けた。
「大人になったら、こはくと結婚しようと思う」
道満はしばらくの間、ただただ絶句して無言に陥るしかなかった。
目の前にあるのは、まだあどけない少年の顔。揺るぎない真顔。どこをどう探しても、悪ふざけや冗談の気配など微塵も存在しない。
本気だ。この歪な少年は、大真面目でこの恐ろしいことを言っている。
「……お前」
ようやく絞り出す。
「それは……どうだろうな……」
否定も肯定もできない声音だった。
清明は不思議そうに首を傾げる。
「難しいか?」
「難しいというか」
道満は必死に反論の言葉を探したが、結局、常識の範疇に収まる答えは見つからず、諦めたように自らの額を深く押さえた。
「……お前はまず人間の常識から学べ」
清明は素直に頷いた。
「分かった」
だが分かっていない顔だった。
その横で、こはくは無言のまま書類を見ている。
聞いているのかいないのか、分からない。
ただ、道満だけが妙に落ち着かない。
何が厄介かと言えば、清明が冗談ではなく、本気で言っていることだった。
そしてもっと厄介なのは、清明がそのまま真っ直ぐ育ったことだった。
清明ルートの道満視点の話が始まります。
別編で清明目線の作品もありますので、そちらも合わせてお楽しみください。




