今更、自由などいらない
屋敷の夜は静かだった。風が渡るたび、庭木の葉がカサカサと擦れ合い、遠くからは水琴窟の音が微かに響いてくる。
その深い静けさの中で、道満は一人、縁側に腰を下ろしていた。今夜は珍しく酒もなく、手元にあるのはすっかり冷え切った茶だけだった。
やがて、背後で障子が開く気配がする。振り返らなくても、それが誰であるかはすぐに分かった。こはくだ。白い衣の裾が、静かに板張りを滑る。こはくは道満の隣へやってくると、そのまま音もなく縁側へ腰を下ろした。言葉はなく、ただ隣に寄り添うように座っている。
道満は少しだけ視線を伏せた。それだけで胸が満たされてしまう自分に、いつも少し腹が立った。
しばらく、心地よくも切ない沈黙が続く。夜気は冷たかったが、隣にある気配だけが、妙に近く、温かかった。
やがて、こはくが一枚の紙を静かに差し出した。古い術式、そして、契約陣。それを見た瞬間、道満の指先が凍りついたように止まる。
「……これは」
声が少し低くなる。こはくは答えないが、紙に描かれているものを見れば、それだけで十分だった。
それは、式神契約の解除術式。
そのとき、夜の音が急に遠くなった気がした。道満は数秒の間、何も言えずにただ視線だけを紙面へ落としていた。そこに描かれている文字の意味を、頭では理解していた。理解してしまった。
やがて、小さく笑う。それはあまりにも乾いた笑いだった。
「……なるほど」
道満は紙を指先でなぞる。
「随分急だな」
返事はない。
「私を自由にする気か?」
皮肉のつもりだったが、思ったよりも自分の声が掠れていた。こはくは静かに道満を見つめるだけで、否定もしない代わりに肯定もしない。ただ見つめてくるその沈黙が、逆に道満の胸の奥へ深く刺さった。
「……そうか」
「長く使えば、飽きもするか」
笑うが、上手く笑えている自信など微塵もなかった。
「壊れない収集物も、いずれ整理したくなる」
言葉にしながら、自分でよく分かっていた。これは皮肉ではない。ただの、恐れだ。道満は視線を落としたまま、言葉を紡ぎ続ける。
「まぁ、元は人間だ」
「永遠に置いておくには邪魔だろう」
こはくは何も言わない。そのあまりに深い静けさが、今だけは酷く残酷に思えた。道満は唇を噛み締め、胸の奥が妙に冷えていくのを感じる。
自由——本来なら、いつか望んだはずのものだった。影の牢からも解放され、召喚に縛られず、誰の命令にも従わず、どこへでも行ける。
だが、嫌だった。その感情をはっきりと認識した瞬間、道満は苦しげに目を閉じる。情けないと思った。何百年も主へ仕え、今さら何を言っているのかと。
この契約だけは、二人を繋ぐ唯一切れない絆だった。獄露のようにはなれないし、閻魔のように自然に懐へ入り込み、愛されることもできない。だからせめて、式神であることだけは、失いたくなかった。
道満はゆっくりと息を吐き、そして、ようやく重い口を開いた。
「……私は」
喉が妙に重く、なかなか言葉が出ない。何百年もの間、こんなことは一度も言わなかったし、言う必要もなかった。だが今、言わなければ本当にすべてが切れてしまう気がした。道満は視線を伏せたまま、絞り出すように声を震わせる。
「……まだ」
指先がわずかに震えていた。
「まだ、貴方の式神でいたい」
静寂が、辺りを包み込む。ただ風だけが、冷たく庭を渡っていく。言った瞬間、酷く惨めな気分になった。まるで捨てられるのを恐れて縋りつく犬のようだ。道満は自嘲するように笑う。
「……随分だな」
「ここまで落ちるとは思わなかった」
その時だった。静かにこはくの手が伸び、道満の髪へ触れた。何事もないように、その指先が優しく髪を梳く。それだけで、道満の思考はすべて停止した。
こはくはもう片方の手で、術式の紙をゆっくりと折った。そしてそのまま、火も使わずに手の中で握り潰す。紙は儚い白い光になって、夜の闇に消えた。
解除する気など、最初からなかったのだ。ただ、術式の研究をしていただけだったのだろう。
道満は数秒の間、呆然として動かなかった。やがて、自分の額を押さえる。深く、長く、溜め込んでいた息を吐き出した。
「……我が主は」
掠れた声だった。
「本当に、人を試すのが上手い」
こはくは何も答えない。ただ静かに、もう一度だけ道満の髪を撫でた。その触れ方があまりにも自然で、あまりにも“いつも通り”だったから、道満は結局、その手を最後まで振り払えなかった。
あの日以来、道満の中に、小さな棘のようなものが残った。
普段通りだった。屋敷も変わらなければ、こはくも変わらない。召喚されれば応じ、命じられれば動き、そして影の牢へと戻る。何一つ、変わった変化はない。
なのに、頭のどこかにあの術式がこびりついている。 “解除” というその言葉だけが、妙に頭から離れなかった。
道満自身、それが滑奢でしかないことは分かっていた。あれはただの研究途中の術式であり、こはくは実際には解除しなかったのだ。むしろ、最後には自ら消した。
理解はしている、理屈では。だが、理屈と感情は全くの別物だった。
例えば、こはくが数日の間、自分を召喚しない。ただそれだけで、妙に落ち着かなくなる。
「……忙しいだけだ」
自分で自分に言い聞かせるが、影の牢の中で静かに待っている時間が、以前よりもずっと長く感じられてしまう。
以前なら平気だったはずだった。何十年呼ばれなくても耐えられると思っていたし、式神とはそういうものだと割り切っていた。
だが、一度でも“切られる可能性”を知ってしまった。それからというもの、道満は微妙におかしくなっていた。本人にその自覚はないが、周囲には、かなり分かりやすく伝わっていた。
「お前最近気持ち悪いな」
閻魔が率直に言った。道満は即座にその顔を睨みつける。
「喧しい」
地獄の執務室。閻魔は頬杖をつきながら、じっと道満を観察していた。
「いやだってさぁ、こはくが他のやつ呼んだだけで機嫌悪くなるじゃん」
「なっていない」
「なるほど、否定は“機嫌”だけなんだ」
道満の眉間に深く皺が寄る。閻魔はそんな彼の様子を完全に面白がっていた。
「この前なんて、清明がこはくと出掛けてるって聞いた瞬間、空気めちゃくちゃ重かったけど?」
「……」
「怖かったんだけど」
道満は決まずそうに視線を逸らす。その重い沈黙こそが、もう答えだった。
実際、最近の道満は妙に敏感になっていた。こはくが誰かへ触れる。清明が隣にいる。閻魔が自然にその距離へ入る。そのたびに、頭の片隅で嫌な想像が首をもたげるのだ。
“別に私でなくてもいいのでは”
その恐ろしい考えが、一度浮かぶと二度と離れない。式神は代えが利くし、契約も絶対ではない。こはくほどの腕を持つ術師なら、なおさらだ。
そして何より最悪なのが、こはくはたぶん悪意なく契約を切る。不要になったから、あるいは自由にした方が良いから。その程度の、淡々とした理由で。
だから最近の道満は、妙に“存在確認”をするようになっていた。本人は完璧に隠しているつもりだが、周囲から見れば、全然隠れていなかった。
「いや〜、道満くん最近ほんと重いよね」
「“捨てられたくない大型犬”感すごい」
「殺すぞ」
だが閻魔はへらへと笑う。
「でもさ」
そこで、少しだけ真面目な声になった。
「お前、ようやく“失うのが怖い”って理解したんじゃない?」
道満は黙り込む。閻魔は言葉を続けた。
「今までのお前、“どうせ自分は外される側”って顔してたし」
静かな沈黙が室内に落ちる。道満はゆっくりと視線を伏せ、そして、小さく笑った。それはどこか、寂しげな自嘲だった。
「……今さらだろう」
その声だけが、少しだけ疲れたように、地獄の闇に溶けていった。
地獄の執務室は、今日も薄暗かった。青白い灯火が壁に揺れ、積み上がった書類の影を長く不気味に伸ばしている。
その中で、今日の道満は珍しく静かだった。皮肉を言うことも少ない。閻魔が茶を飲みながらその顔を心配そうに覗き込む程度には、分かりやすく沈み込んでいた。
「……お前さぁ、ほんとに気にしてるんだ」
閻魔がぽつりと言う。道満は小さく眉を寄せる。
「何をだ」
「契約解除」
即答だった。道満の落とした沈黙が、何より分かりやすい肯定だった。閻魔は少しだけ笑ったが、その今日の声音は妙に優しかった。
「大丈夫だよ、こはくの収集癖本物だから」
道満が怪訝そうに、視線を閻魔に向ける。閻魔は椅子へ深く座り直した。
「お前さ、こはくの蔵見たことある?」
道満は小さく眉を寄せる。
「……あるにはある」
「表だけでしょ」
閻魔は悪戯っぽく笑う。
「奥やばいよ」
楽しそうな声だった。だが、そこに嘘がないことも分かった。
「壊れた神器」
「砕けた術具」
「死んだ神の角」
「機能しなくなった神域」
「意味もなく集めた石ころ」
閻魔は一つずつ、愛おしそうに指折り数えていく。
「全部そのまま残ってる」
「こはく、“壊れたから捨てる”って発想ほぼないんだよね」
道満は、黙ってその言葉に耳を傾けていた。閻魔は少しだけ目を細める。
「壊れたものは、壊れたまま集める」
「直さないことも多い」
「でも捨てない」
それは、とても静かな声だった。
「俺、見たことないよ」
「こはくが、一度手にしたものを自分から捨てるところ」
道満の視線が、わずかに床へと落ちる。閻魔はさらに続けた。
「しかもお前さ」
「蔵に仕舞われてるわけですらないじゃん」
そこで、閻魔はにやっと笑った。
「影の牢で特別展示ってわけ」
道満が露骨に嫌そうな顔をする。
「言い方を選べ」
「いや実際そうじゃん」
閻魔はけろっとしていた。
「普通の収集物、たまにしか触られないし」
「お前めちゃくちゃ出番あるもん」
「召喚される、使われる、隣に置かれる」
閻魔はしみじみと肩をすくめる。
「収集家としては破格待遇だよ」
道満は、深く大きなため息をついた。
「慰め方が最悪だな」
「でも効いてるでしょ?」
否定できなかった。それがまた、ひどく腹立たしい。
閻魔は、少しだけ真面目な顔になって道満を見つめた。
「お前さ“契約だから置かれてる”って思ってるけど」
「こはく、嫌ならそもそも近くに置かないよ」
その言葉に、道満の視線がゆっくりと動く。閻魔は机へ頬杖をついた。
「特にお前みたいなの。危険だし、面倒だし、執着重いし」
「喧しい」
「でも置いてる」
閻魔は優しく笑う。
「しかも永遠に壊れない形で」
静かな沈黙が、今度は温かく二人の間に落ちた。地獄の火が、遠くでパチリと鳴る。
道満はしばらく何も言わなかった。やがて、小さく、憑き物が落ちたように息を吐く。
「……随分な慰めだ」
「慰めというか事実」
閻魔はあっさりと返す。そして、少し遠い目をして考えるように続けた。
「たぶんお前、捨てられるならもっと早かったよ」
その言葉だけは、妙に静かに、深く道満の胸へと落ちていった。
何百年もの間、道満はずっとここにいるのだ。他でもない、こはくの内側である影の牢に。
捨てられてなどいない。
まだ、これからも、永遠に。




