獄露とこはくの距離、そして道満
閻魔の統べる地獄が、血と硝煙の燻る泥臭き「現場」であるならば、獄露の支配するこはくの屋敷は、冷徹な規律で全てを縛る「統制・管理」の檻だった。
そしてその二人はお互いに、大局において互いの存在が必要不可欠であることは理解しつつも、致命的なまでに“性格が反発し合って合わない”間柄であった。
ある日のこと、薄暗い地獄の廊下を歩きながら、閻魔がふと思い出したように、隣を歩く道満へと声をかけた。
「そういえば、お前」
「何だ」
億劫そうに、道満が低い声で応じる。
「屋敷付きの上役、獄露にはもう会った?」
道満は考えるまでもなく、即座に傲然と首を振った。
「会ってない」
「ふーん」
閻魔はそれ以上深く驚く様子も見せなかった。
むしろ、最初からその答えを予期していたかのように、妙に納得した顔で頷く。
「そっか、こはくの式神だから屋敷付きではないもんね」
その言葉に、道満の眉がわずかにピクリと動いた。己とこはくの繋がりの深さを、安易な枠組みに嵌められたような不快感が過る。
「式神扱いにするな」
「実質そうだろ」
閻魔は気にした風もなく、歩調を緩めずに淡々と話を続ける。
「獄露はあれだよ、融通が効かないやつだ」
道満は、冷ややかな視線を横目で閻魔へ投げた。
「上役だろ」
「だからだよ」
閻魔はうんざりしたように肩をすくめてみせる。
「規則でしか動かない。現場を見てから決めろって話でも、書類が先」
道満は鼻で冷笑した。融通の利かない机上の空論など、己の最も嫌悪する人種だったからだ。
「どこにでもいるタイプだな」
「で、あれがこはくの周りを管理してるわけだ」
その何気ない一言が投げ込まれた瞬間、道満の強固な足が、廊下の床の上でほんの少しだけ止まった。
「……管理?」
「そう」
閻魔はそれが世界の理であるかのように、当然の口調で言い置く。
「屋敷側の統制役だ。あいつはあいつで“正しいこと”しかやらない」
道満は不機嫌さを隠そうともせず、短く苦い舌打ちを漏らした。
「正しいことしかしないやつほど面倒だ」
閻魔が、その横顔を見てニヤリと可笑しそうに笑う。
「似てるな」
「何がだ」
「お前と獄露」
道満は神速の如き身のこなしで、即座にその不名誉な比較を否定した。
「違う」
間髪を入れない拒絶だった。
「俺は融通が効く」
「どこが」
「結果を出す」
「それはあいつも同じだ」
道満の歩調が、焦燥を映すようにわずかに速くなる。あのこはくを「管理」する立場として、そんな男と同列に扱われること自体が、彼の傲慢な自尊心を逆撫でした。
「一緒にするな」
閻魔はそんな彼の苛立ちをむしろ楽しむように、さらに言葉を重ねていく。
「でもな、お前さ」
「何だ」
「こはくに対する執着の仕方、あいつと似てるぞ」
その瞬間、張り詰めた廊下の空気が、凍りついたようにピキリと止まった。
道満の目が、獲物を狙う猛禽のように細くなる。
「……は?」
閻魔はそんな威嚇などどこ吹く風で、構わず言葉の刃を突き刺してくる。
「必要以上に管理したがるところとか、勝手に線引きするところとか」
道満の声のトーンが、地を這うように低く、昏く沈んだ。
「違う」
「何が違う」
「俺は管理している側だ」
こはくの危機を誰よりも先に見つけ、その白い襟に触れ、呼吸を整えてやっているのは自分だ。自分がこはくを一番近くで支配し、守り、管理しているという絶対的な自負が、道満にはあった。
しかし、閻魔は哀れむように笑う。
「そう言うやつほど、管理されてるんだよ」
道満は激昂に近い感情で、即座にそれを否定した。
「違う!」
普段の冷静さを欠いた声だけが、やけに強く、虚しく廊下の壁に響き渡る。
閻魔は「はいはい」と、これ以上の反論を流すように大着に肩をすくめた。
だが最後に一言だけ、重い真実をさらりと床へ落とす。
「まあ、どっちでもいいけどな。お前ら、似た者同士だよ」
道満はそれ以上、何も言い返さなかった。いや、言い返せなかった。
ただ、感情の乱れを示すように、歩く速度だけが目に見えて速くなっていく。
閻魔はその頑なな後ろ姿を見送るように視線を据え、ぽつりと静かに付け足した。
「……ま、こはく絡むと面倒になるのも一緒か」
その預言めいた言葉だけが、やけに軽く、しかし呪いのように廊下の残響となっていつまでも残っていた。
◇
獄露の執務室のなかでは、それは誰も疑わない、あまりにも当たり前の光景として存在していた。
こはくがその静謐な執務室へと足を踏み入れると、獄露はごく自然な、呼吸をするような動作でその華奢な身体を抱き上げて、己の膝の上へと乗せる。
山と積まれた書類を冷徹に捌く手は、その間も一切止まることはない。
強靭な片腕でこはくの腰をしっかりと支え、もう片方の手で流麗に筆を走らせる。
そして何より道満を絶望させるべきは、こはく自身もそれを微塵も拒まないということだった。
暴れて逃げようともしない。その膝から降りようともしない。
ただ、それが世界の摂理であるかのように当然の顔でそこに収まり、獄露の厳格な仕事が終わるまで、静かな重みとなって乗っている。
あの厳格な屋敷のなかにおいて、それは半ば溶け込んだ日常の景色だった。
獄露という男は、元よりこはくとの距離が、他者の立ち入る隙がないほどに近かった。近すぎると言ってもいいほどに。
それは、屋敷の上役として、絶対的な管理者として、最も長い時間を、最も近くでこはくを扱い、支配してきた者だけが許される特権的な距離だった。
だからこそ、その身体を膝に乗せることも、その細い背を支えることも、軽々と抱き上げることも、獄露にとっては特別ですらない、呼吸と同義の行為なのだ。
ただの、いつものこと。
そして悲劇的なことに、己こそがこはくを最も特別に扱い、独占していると信じ込んでいた道満は、その決定的な事実を今の今まで何一つ知らなかった。
扉の前で、まるで全身の血が凍りついたように固まった道満を、獄露は机の向こう側から静かに見返した。
その膝の上には、当たり前のようにこはくが座っている。
逞しい片腕でその存在を当然のように抱きすくめたまま、獄露は眉一つ動かさず、冷徹な視線だけで道満を射抜いていた。
その酷薄な目が、ほんのわずかに、愉悦を孕んで冷たく細まる。
——勝ち誇っている、と道満は直感した。
露骨な嘲笑ではない。
だが確かに、目の前の男はすべてを理解し、怜悧に優位性を示している顔だった。
『お前は、ここまでは来れないだろう』と。
声にこそ出しはしないものの、冷酷な沈黙がそう物語っている気がしてならなかった。
自分が一番こはくに近い場所にいると思っていた誇りが、音を立てて崩れていく。道満のこめかみが、屈辱にひくりと激しく動いた。
「……報告だ」
五臓六腑を焼かれるような乾いた声をどうにか絞り出し、手元に携えていた書類を乱暴に机の上へと置く。
獄露は視線だけをわずかに落とし、慣れた片手の手つきでそれを引き寄せた。こはくをその膝に、腕の中にしっかりと乗せたままで。
何事もない事務的な顔で書面に目を通し、必要な箇所だけを的確に確認していく。
道満はその間、凍りついた影のようにずっと直立したまま、机の向こうに広がる地獄のような光景を凝視していた。
獄露の膝の中で、世界で一番甘やかされた人形のように静かに収まっているこはく。
逃げる素振りも、拒絶の意思も一切見せず、当たり前のようにその男の体温に身を委ねてそこにいる。
自分が触れるたびにあれほど狂おしく呼吸を乱し、特別に繋がっていたはずの存在が、別の男の腕の中で平然と日常を過ごしているのだ。
道満の喉の奥が、嫉妬と敗北感で妙にカラカラに乾いていく。
やがて、獄露はパタンと無慈悲に報告書を閉じた。
「問題ない」
淡々と、冷徹な一言だけが放たれる。
そのまま机の上へ書類を戻し、ようやく用済みの玩具を見るかのように道満へと視線を戻した。
「報告が終わったなら持ち場へ戻れ」
あまりにも事務的で、一歩の踏み込みすら許さない拒絶の壁。道満の眉がぴくりと拒絶に動く。
「……それだけか」
「報告は終わった」
獄露は一切の感情を排して、簡潔に言い放つ。
「用が済んだなら下がれ」
こはくは、未だにその膝の上に静座している。
獄露の強固な腕の中にすっぽりと収まったまま、こちらを見ようともせず、何も言わない。
道満は数秒の間、金縛りにあったようにその場から動くことができなかった。
対する獄露も、彼を急かすような下品な真似はしない。ただ、絶対的な王者の余裕を持って、静かに道満を見下ろしている。
その絶対的な格の違いを見せつけるような視線が、妙に、腹立たしかった。
自分は、わざわざ外から報告を持ってくるだけの「部外者」に過ぎない。
獄露は、絶対的な権力を持って机の向こうに鎮座する「身内」。
そして、己のすべてだと思っていたこはくは——その膝の上にいる。
決定的に、距離が違う。
生きている立ち位置の次元が違う。
あまりにも明確に、残酷なまでの境界線がそこに引かれていた。
道満は、限界を迎えた自尊心をかき集め、ようやく重い踵を返した。
扉へと向かい、逃げるように執務室を抜け出していく。
だが、閉まる寸前、どうしても抗いきれずに、最後に一度だけ未練がましく振り返ってしまった。
獄露の視線は、すでに興味を失ったように次の書類へと戻っている。
こはくは相変わらず、その男の膝の上で、静かに世界の一部として溶け込んでいた。
あまりにも自然で、あまりにも絵画のように美しい、日常の光景がそこにあった。
パタン、と静かに扉が閉まる。
冷たい廊下へと放り出された途端、道満は糸が切れたようにピタリと足を止めた。
しばらくの間、深い闇に呑まれたように無言のまま立ち尽くす。
喉の奥が、鉛を詰め込まれたように妙に重苦しい。
胸の奥底には、今まで味わったことのない、言いようのないどす黒いざらつきが、消えない傷痕のように残っていた。
私では。
思考の檻のなかで、絶望を孕んだその問いが、初めて明確な言葉となって形を結ぶ。
私では——主とあの距離ではいられない。
そう思った瞬間、はらわたが煮えくり返るほどの、ひどく苛烈な怒りが激しく込み上げてきた。
それが、己の至らなさへの怒りなのか、獄露への嫉妬なのか、それとも何も言わないこはくへの怨嗟なのか。
何に対する怒りなのかは、決して考えない。
考えたくもなかった。ただ、己の無力さと独占欲の敗北だけが、冷え切った廊下にいつまでも重くのしかかっていた。




