道満、少し過保護になる
それ以降、道満は召喚されるたび、何よりもまず最初にこはくの姿を病的なまでに凝視するようになった。
襲い来る敵の数でもない。
周囲に展開された術式の構造でもない。
地形の利不利や、戦況の緊迫度でもない。
彼の世界の中心には、常にまず、こはくがいた。
空間の影が裂け、この世に確固たる姿を結ぶ。
その着地と同時に向ける最初の視線は、磁石に引き寄せられるように、必ずこはくの細い身へと落ちるのだった。
汚れのない白い着物。
胸元の襟のわずかな乱れ。
繰り返される呼吸の深浅。
地に立つ足の不確かさ。
無意識に強張る指先の癖。
揺れる赤い目の焦点。
踏み出す歩幅の危うさ。
そして、あの熱を孕んだ喉の上下。
彼が宿す力そのものの全貌は、道満には分からない。
人間の矮小な器では決して測り知れない神域の質量。
その身の内で何がどれほど乱れていて、どこまで崩壊の決壊が溢れかけているかなど、本来の道満の目に見えるはずもなかった。
だが、見えないなりに、五感のすべてを研ぎ澄まして「見る」ようになった。
呼ばれた先の世界で、道満はまず一拍、頑なにその場を動かない。
こはくの姿を頭のてっぺんから爪先まで、舐めるように眺め回す。
それは単純な外傷の有無を確かめるためではない。
その魂が、己の裡で乱れているかどうか——ただそれだけを、世界の何よりも優先して確認するためだった。
息は浅くなっていないか。
細い肩が恐怖や苦痛で強張っていないか。
立ち位置の重心は安定しているか。
あの白い喉元に、逃げ場のない熱が燻り残っていないか。
赤い瞳の光が鈍くなっていないか。
袖の暗がりのなかで、指先が妙に固まっていないか。
ほんの爪の先ほどでも違和を感知すれば、それだけで道満の眉間には深い皺が刻まれた。
「……何だ、その顔は」
空間に現れた開口一番の言葉が、それになることも今や日常と化していた。
もちろん返事はない。
こはくは相変わらず、借りてきた人形のように黙り込んでいる。
だが、今の道満はそれで引き下がるほど甘くはなかった。
有無を言わさず一歩寄り、その真正面へ立ちはだかる。
じっと伏せられた赤い目を強引に覗き込み、焦点の合い方を探り、視線のわずかな遅れすらも見逃さない。
「立てるのか」
返事はない。
「息は」
返事はない。
「……喉を見せろ」
やはり、返事はない。
それでもこはくは決して道満の手から逃げようとはしなかった。
だから道満も、当然の権利のように勝手に行動を移す。
吸い込まれそうな喉元を凝視し、襟元の合わせの乱れを検分し、立ち姿の重心の傾きを測る。
戦場を歩き出す前に、まずその肉体の隅々を自らの視線で所有するように確かめるのだ。
そこに一切の異常がないと確信できて、ようやく彼は周囲の現実に目を向ける。
敵の陣形。飛び交う術式。刻一刻と変わる状況。処理すべき仕事。
完全に、彼の中の優先順位が変わっていた。
以前の彼ならば、召喚されればまず真っ先に周囲の戦況を冷徹に読み解き、こはくの安否など最後回しだった。
だが、今は違う。
何をおいても、まずこはく。
その後に、有象無象の広がる周囲。
その自覚は、道満にも明確にあった。
それは彼にとって、ひどくプライドが傷つき、気に食わない性質の自覚だった。
しかも厄介なことに、こはくは自らの窮地を何も口にしない。
自発的に苦痛を申告することなど決してなく、いつでも硝子細工のような平然とした顔で佇んでいる。
胸の奥で呼吸がどれほど浅く喘いでいようとも、指先が強張って震えていようとも、襟元が乱れて肌が露わになっていようとも。
だからこそ、道満が誰よりも先に気づいてやるしかなかった。
召喚され、見つめ、確認し、苦々しげに眉を顰める。
その一連の流れは、すでに抗えない猛毒のような癖となっていた。
一度、平穏な屋敷内で呼ばれた時のことだ。
敵の気配も術の残滓も何もない安全な空間だったというのに、現れた瞬間の道満の手は、思考を挟むより先にこはくの襟元へと伸びていたことすらある。
雪のような白い襟が、ほんの少しだけ横にずれていた。
そのせいで、守るべき喉元がいつもより僅かに露出している。
それを見た瞬間、道満の指先は獣の反射のように動いていた。
乱れた襟を正す。はだけかけた布を元に戻す。
無防備な喉元を、他者の目から隠すように覆う。
そこまで無意識のうちにやってのけてから、道満は己の行動に気がついて動きを止めた。
こはくは、至近距離で黙ったまま道満を見上げていた。
道満の大きな指先は、まだその白い襟元に深く触れたまま、熱を伝えている。
重苦しい数拍が流れる。
道満は眉間にこれ以上ないほどの皺を寄せたまま、未練を振り払うようにゆっくりと手を離した。
「……乱れているかと思った」
それはまるで、己の過保護な執着への言い訳のように、苦しく吐き出された言葉だった。
こはくは何も言わない。
ただ、吸い込まれそうな赤い瞳だけが、静かに、じっとこちらを見つめ返している。
道満は気まずさに顔を顰めた。
「紛らわしい」
吐き捨てる声はどこか苦い。
だが、次に呼ばれた時も、彼の身体はやはり何より先にこはくの姿を捉えていた。
すべてに異常がないと肌で理解できてから、ようやく周囲の退屈な世界へ視線を向ける。
それはもう、呪いのような繰り返しの日常だった。
誰に命令されたわけでもない。
こはくに頼まれたわけでもない。
自分自身でそうしようと誓った覚えすすら、毛頭なかった。
ただ、そうしなければ胸の奥が狂いそうになる気がして、ただ身体が勝手に動いている。
面倒だ。厄介極まりない。実に気に食わない。
それでも、召喚のたびに最優先でその瞳に映す存在は、もう永遠に変わることはなかった。
地獄の一室だった。
閻魔の広大な執務室の隣にある、半ば休憩所のように使われている私的な部屋。
清明は長椅子で古びた書を広げ、閻魔は退屈そうに茶を啜り、こはくはいつものように、黙って座っていた。
そこへ空間の影が滑らかに裂け、道満が召喚に応じる。
現世に姿を取り、着地する。
そして、世界の誰よりも、何よりも先に、彼の眼裏はこはくの姿で満たされた。
その赤い瞳。呼吸の脈動。喉元の皮膚。襟元の重なり。
ほんの一拍の逡巡。
道満は周囲の視線など一瞥もせず、真っ直ぐこはくの前まで大股で歩み寄った。
見れば、その白い着物の襟が、ほんの少しだけまた右へずれている。
それだけで、道満の眉間にはお決まりの皺が刻まれた。
「……何だ、その襟は」
低く独占欲を孕んだ声で吐き捨て、考えるより先に手を伸ばす。
こはくの返事など待つ気もなく、その白い襟元へ躊躇いなく触れると、乱れた布地を大きな指先で手慣れた手つきで整え始めた。
無防備な喉元を隠し、布の重なりを正し、本来あるべき正しい位置へと収めていく。
そのついでに、指先で触れた喉元の熱を測る。
呼吸は浅くない。肩の力も安定している。
自分を見つめる視線もぶれてはいない。
そこまで完璧に確認し尽くして、ようやく道満は名残惜しげに手を離した。
「……ならいい」
安堵を隠すように低く吐く。
その瞬間、正面で茶を飲んでいた閻魔が盛大に吹きかけた。
辛うじて茶を噴きかける寸前で堪えたものの、その肩は可笑しそうに激しく震えている。
「っ、ふ……」
道満の眉間に、鋭い皺が寄った。
「何だ」
閻魔は慌てて口元を手で押さえたが、その目の奥の笑いは到底堪えきれていない。
「いや、何でもない」
「何でもない顔ではないだろう」
「いやあ」
閻魔は肩を震わせたまま、こはくと道満の二人を、面白くてたまらないといった様子で交互に見つめた。
「随分自然にやるようになったなと思って」
道満の顔が、一気に険しく引き締まる。
「何を」
「襟直して、喉見て、呼吸確認して、異常なしでようやく周囲確認」
閻魔が楽しげに指折り数えてみせる。
「手慣れてるね」
「……確認だ」
一切の迷いのない即答だった。
それを見て、閻魔がさらに破顔する。
「うんうん」
「監視だ」
「はいはい」
「最低限の管理だ」
「言い方だけは立派だね」
道満のこめかみの青筋がピキリと引きつる。
その時、それまで静観していた清明が、ようやく書から静かに目を上げた。
清明は何も言わず、まずこはくを見た。
美しく整えられたその襟元を見つめ、次に、その襟を直した男へと冷ややかな視線を移す。
それから、まるですべてを見透かしたような声音で言った。
「素直ではないな」
道満の動きが、凍りついたように止まる。
ゆっくりと、地を這うような視線で清明を睨みつけた。
「何だと」
だが、清明はどこまでも淡々としたものだった。
「気にしているならそう言えばいい」
「誰が」
「お前が」
流れるような即答だった。
これには閻魔も耐えきれず、声を上げて笑い出す。
「ほら、清明にも言われた」
「貴様ら……」
道満の眉間の皺は、もはや修復不可能なほどに深くなっていく。
清明はそんな親友の怒りなどどこ吹く風で、静かに次の頁をめくった。
「様子を見る、呼吸を見る、襟を直す、異常がないと分かるまで仕事に入らない」
そこでピタリと、頁を繰る指が止まる。
「それを気にしていると言う」
「違う」
間髪入れずに拒絶の言葉が返る。
清明は静かに目を上げた。
「では何だ」
「……」
道満の口が、完璧に詰まった。
それを見逃すはずもなく、閻魔がすかさず愉しげに口を挟む。
「監視、管理、確認」
清明が淡々と、先ほど道満が口にした言い訳を並べていく。
閻魔が意地の悪い笑みで口元を歪めた。
「便利な言葉だねえ」
道満のこめかみが、今度こそ激しく引きつった。
「貴様ら、好き勝手——」
「素直じゃないね」
閻魔がからかうように笑う。
「実に」
清明もまた、確信を持って頷いた。
道満の顔は、これ以上ないほど露骨に不快そうに歪んでいる。
こはくはその狂騒のすぐ横で、ただ静かに、黙って座り続けていた。
道満の手によって完璧に整えられた襟元のまま、その潤んだ赤い瞳だけが、静かに、しかし真っ直ぐに道満の姿だけを映し出している。
その熱い視線に気づいて、道満の眉がさらにこれでもかと寄せられた。
「見るな」
熱を孕んだ声で、低く吐き出す。
それでも、こはくは何も言わず、ただ彼を見つめ続けた。
閻魔が再び可笑しそうに肩を震わせ、清明が満足したように静かに書へと視線を戻す。
「素直じゃないな」
「本当に」
部屋に重なる二つの呆れた声に、道満の、深く苦々しい舌打ちの音が重く落ちるのだった。




