*整力
直接的な性描写はありませんが、連想させる表現を含みます。
森の奥だった。
夜の湿気が低く沈み、木々の合間には冷えた靄が、まるで生き物のようによどんでいる。
高く絡み合った枝葉が天を覆い、月明かりさえも深くは届かない。
そんな薄暗い森の底、湿った土の上に、こはくは力なく膝をついていた。
白い着物の裾は見る影もなく土に汚れ、片手を頼りなげに木の幹へとついている。
浅く乱れた呼吸を繰り返すたび、細い肩が痛々しく上下した。
伏せられた赤い目の奥で何が堪えられているのか、その喉元がわずかに震えている。
その周囲を、不気味な影が囲んでいた。
数は多くないが、彼らは決して退こうとはしなかった。
こはくの明らかな乱れを好機と見たのだろう、冷徹に距離を測りながら、じわじわと包囲を狭めていく。
暗がりに結ばれる術式の手、密かに刃を構える影——木々の隙間には、鋭利な殺意だけが静かに張り詰めていた。
こはくが、指先をわずかに動かす。
その瞬間、空間の影が裂けた。
道満はその裂け目から滑り出るように現れ、着地と同時に鋭い視線で周囲をねめつけた。
まず敵の気配を捉え、次にその包囲網を把握し、最後に、木の幹へ寄りかかるこはくの姿を視界に収める。
呼吸が浅い。
肩が激しく揺れている。
放出を求める熱がその喉元に燻っているのが、離れていても肌で分かった。
道満の眉が、不快そうに寄る。
「……成程」
低く、苦々しげに吐き出す。
「よりにもよって、今か」
返事はない。
ただ、夜の静寂にこはくの浅い呼吸だけが白く消えていく。
均衡を破り、敵が先に動いた。
道満が懐の札を切るより早く、前方から狂おしい刃が振り下ろされる。
それと同時に、側面からも容赦のない術が奔流となって押し寄せた。
だが、道満は迷わず一歩前へ踏み出していた。
その大きな身体で、こはくを背後へ完全に庇う位置に立つ。
漆黒の袖が夜風を孕んで翻った。
指先で引き裂かれた黒い札から、劫火のような火が走る。
「失せろ」
地を這うような低い声と同時に、狂暴な黒炎が地を舐めた。
前へ躍り出ていた影がまとめて炎に灼かれる。
悲鳴が上がる猶予さえ与えず、今度は側面の術者へ向けて容械なく札を撃ち返した。
構築の途中で術式が木端微塵に割れ、逆流した魔力が術者自身の喉元を焼き尽くす。
包囲が一瞬にして乱れた。
だが、その崩壊の隙を突いて、生き残りの残党が死に物狂いで距離を詰めてくる。
道満は下がらない。
こはくの前から、一歩たりとも退くつもりはなかった。
迫り来る刃を衣の袖で受け流し、術で強引に弾き飛ばすと、懐へ滑り込んできた相手の喉を黒炎で容赦なく灼く。
横合いから割り込むように飛んできた呪を札の一振りで断ち切り、返した火塊で遮る木々ごと焼き落とした。
息を継ぐ暇もないほどの猛攻。
それでも、彼は頑として退かなかった。
背後からは、絶え間なくこはくの狂った呼吸が伝わってくる。
「……っ、は……」
浅く、細く、今にも消え入ってしまいそうなほどに崩れかけている。
道満の口から、苛烈な舌打ちが漏れた。
「貴様ら……」
その怒りに呼応するように、黒炎が一際強く、猛々しく膨れ上がった。
「間が悪いにも程がある」
地を舐めるように狂い広がった黒炎が、残る影を濁流のようにまとめて呑み込んでいく。
木々の根元を焼き、逃げ場を完全に封鎖し、最後の絶叫ごと無慈悲に焼き潰した。
やがて火が落ち、喧騒の去った森に重苦しい静けさが戻る。
鼻を突く焦げた匂いと、湿った土の香。
パチパチと焼けた枝の崩れる音だけが、静寂のなかで虚しく響いていた。
道満は数拍の間、微動だにせずその場に立ち尽くし、敵の気配が完全に潰えたのを確認してから、ようやく背後を振り返った。
こはくは未だ木に背を預けたまま、苦しげに呼吸を乱している。
「……っ、は……ぁ……」
細い肩が小刻みに揺れていた。
喉を上下させ、潤んだ赤い目がわずかに持ち上がる。
ただ道満を見つめるその視線だけで、道満の眉間には深い皺が刻まれた。
「……分かっている」
吐き捨てるように言い捨て、道満はこはくの目の前へと膝をついた。
その時、閻魔の戒めるような声が脳裏を掠める。
——いきなり深く触らない。先に見る。喉、胸元。順番がある、と。
道満は荒ぶる息を無理やり整え、まずはこはくの額へと手を伸ばした。
額に乱れて落ちた黒髪を払う。
その痛々しい視界を塞ぐ分だけを、指先で優しく横へ流した。
触れられたこはくの睫毛が、微かに揺れる。
「……っ」
細く息が漏れた。
反応はある。
だが、その繋がりはまだあまりにも浅い。
道満は次に、その白い頬へと触れた。
愛おしむように輪郭をなぞり、顎先まで浅く、滑らかに指を滑らせていく。
その瞬間、こはくの肩がぴくりと跳ねるように揺れた。
「……ぁ」
喉の奥で息が引っかかる。
道満の喉が、緊張に小さく鳴った。
「……まだだ」
自分を律するように低く吐き、その指先を次なる標的、喉元へと移す。
吸い込まれそうなほど白い喉。
未だ熱の残るそこへ、そっと指を宛てがう。
それだけで、こはくの身体がびくりと拒絶するように跳ね上がった。
「っ、ぁ……!」
鋭く裂けた息が漏れる。
激しく肩が揺れ、行き場のない指先が湿った土を必死に掻いた。
道満の指が一瞬、躊躇うように止まる。
喉が鳴る。
だが、ここで手を離すわけにはいかない。
「……ここだな」
息混じりに低く吐き出すと、指先へじわりと熱が滲み始めた。
深く注ぎ込むことはしない。
ただ少しだけ圧を乗せ、その内側の反応だけを確かめるように見る。
こはくの喉が、ひくりと切なげに震えた。
「……っ、は……ぁ……」
波打つように乱れる。
だが、まだ崩れ切る一歩手前で踏みとどまっている。
道満はそこで一度、名残惜しげに手を離した。
解放されたこはくが浅く息を呑む。
道満は溜まった息を一つ吐き、今度はその胸元へと手を下ろした。
着物の襟元、そして鎖骨の下。
薄い布地を隔てたそこへ、そっと掌を触れ合わせる。
こはくの背が、限界を迎えたように大きく強張った。
「——っ、ぁ……!」
肩が跳ね、せっかく繋がりかけた呼吸が再び音を立てて崩れていく。
道満の喉が、圧迫感に詰まる。
「……っ、は……」
自身の息までもが引きずられて乱れかけるのを強引に押さえ込み、指先にじわじわと力を乗せていく。
少しずつ、壊れ物を扱うように急がず。
体内の淀んだ流れを整えるように。
布越しに、狂おしいほどの熱が脈打っている。
こはくの呼吸は、さらに一段と浅く乱れていった。
「……ぁ、っ……は……」
全身が小刻みに震え、喉が詰まる。
白い指先が、狂おしげに何度も土を掻き毟った。
道満の額にも、いつしかじっとりとした汗が滲み出している。
「……行くぞ」
掠れた声で最期の宣告を告げ、指先を深く沈め、一気に流し込んだ。
その瞬間、こはくの身体がまるで電流が走ったかのように大きく跳ね上がった。
「——っ、ぁ……!!」
息が鋭く引き裂かれる。
激しく震える肩、詰まる喉、身体の全細胞がびくりと強張る。
それと同時に、濁流のような熱が押し寄せてきた。
指先から腕へ。
腕から肩へ。
そして骨の奥深くまで。
「——っ、ぐ……!」
今度は道満の身体が、衝撃に跳ねた。
喉が詰まり、息が激しく乱れる。
熱い——だがそれは肉体を焼く炎ではない。
自身の器へと強制的に満たされ、押し込まれていく異質な熱量。
足りない場所を無理やり抉るように満たし、魂の器の内側をきしきしと軋ませていく。
「っ、は……ぁ、……っ」
あまりの圧力に、息が続かない。
それでも、彼は決して指を離さなかった。
こはくの肩が激しく震える。
それと同調するように、道満の肩も同じリズムで震えていた。
互いに理性を削りながら息を乱し、荒い呼吸だけが至近距離で重なり合っていく。
「……っ、ぁ……は……」
「っ、は……ぐ……」
やがて、こはくの呼吸が少しずつ整い始めた。
しかし代わりに、今度は熱を受け止めた道満の呼吸が目に見えて崩れていく。
視界がチカチカと明滅し、膝がガクガクと震える。
腕が痙攣するように強張って動かない。
それでも、繋がりを絶つことだけはしなかった。
「……っ、は……まだ、……だ……」
掠れた声で、自分を繋ぎ止めるように吐き出す。
こはくの呼吸が、ほんの少し、確かな落ち着きを取り戻す。
あれほど酷かった肩の震えが、薄紙を剥ぐように引いていった。
そこでようやく、道満の腕から緊張の糸が切れたように力が抜けた。
吸い付いていた指先が、ゆっくりと離れる。
「っ、……は……!」
途端に息が切れ、肩で荒く酸素を貪りながら、道満はその場に膝をついたまましばらく動くことができなかった。
鉛のように腕が重い。
指先はジンジンと痺れ、喉が焼けるように熱かった。
こはくは木に背を預けたまま、まだ名残惜しそうに細く息を乱している。
だがその表情には、先ほどまでの致命的な危うさは消え、確かに生気が戻っていた。
道満は荒い呼吸を繰り返す合間に、恨めしげにこはくを睨みつける。
「……っ、は……」
未だ息は乱れたままだ。
それでも、怒りを隠そうともせず吐き捨てる。
「……こうなる前に、……呼べ……」




