地獄での道満と清明の日常、閻魔が混ざる
断片集になります。
■ 断片:興味
地獄の一角に佇む、閻魔の執務室へと続く静かな部屋。
そこには机がひとつ置かれ、書が積み上がり、札が散らばる空間の中を、香の煙だけが細く不規則に漂っていた。
静寂の中で最初に異変に気づいたのは、道満だった。
こはくの視線が、珍しくもじっと清明のほうへと長く留まっているのだ。
その赤い目は、静かに清明の手元を追い続けていた。
清明が淀みなく文字を書き、それらを整え、迷いなく術式を組み上げていく一連の流れを、こはくはただ黙って見つめている。
それを見た道満は、不機嫌そうに眉を寄せた。
「……何だ」
こはくから返事はない。そんなことは最初から分かっていたが、それでも視線が清明から逸れる気配はなかった。
「貴様」
低く鋭い声で呼んでみても、やはりこはくは動かない。その様子を見て、清明がようやくそこでぴたりと筆を止めた。
「何だ」
「何だ、ではない」
道満は不満を隠そうともせず、清明を睨みつける。
「貴様、気づいていないのか」
清明は不思議そうに目を瞬かせると、ようやくこはくの方へと視線を向けた。静かな部屋の中で、赤い目と清明の目が真っ向から合わさる。
数拍の沈黙が流れた。
やがて、清明は小さく首を傾げた。
「……見られているな」
「今さらか」
吐き捨てるような道満の声には、明らかな刺々しさが混じっている。清明は少しの間だけ何かを考えるように目を伏せ、それから再びこはくを見つめ直した。
「何か気になるのか」
相変わらずこはくは言葉を返さないが、代わりにその視線がわずかに動いた。
清明の手元、広げられた札、細い指先、そして紡がれる術式。清明はその視線の意図を察し、ふと手元にあった札を一枚持ち上げてみせた。
「これか」
こはくは瞬きもせず、ただ見つめている。
「術式か」
静かな確認に対して、こはくはやはり何も言わなかった。だが、その雄弁な沈黙は十分すぎるほどの肯定だった。それを見た道満の顔が、露骨に苦々しく歪む。
「……成程」
清明はすべてに納得したように深く頷いた。
「あなたは術そのものではなく、組み方を見るのか」
こはくは静かに清明を見つめ、清明はそれを受け止めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「珍しいな」
面白くなさそうに、道満がさらに眉を顰める。
「何がだ」
「あなたが、人間の手順に興味を持つのは」
あまりにもあっさりと核心を突かれ、道満は思わず言葉を詰まらせた。清明は手元にあった札を一枚、こはくの目の前へと滑らせるように置いた。
「見るか」
こはくは札に触れようとはせず、ただじっと見つめ続けている。清明はその反応を自然に受け入れ、すぐ隣へ次の札を並べて置いた。
「人の術は遅い。面倒も多い。だが、手順がある」
淡々とした声が、静かな部屋に響く。
「無駄がある分、癖が出る」
その言葉に、こはくの赤い目が札から清明の顔へと戻った。清明は静かに言葉を続けた。
「あなたの術には、それがない」
その一言に、道満の視線がわずかに動いた。清明は手際よく札を一枚に揃えていく。
「だから見ているのだろう」
こはくは答えない。だが、決して否定もしなかった。道満はその二人の空気感を見ているうちに、どうにも妙に面白くなくなってきた。
「……こいつにだけ見せるな」
低く地を這うような声で道満が言い放つと、清明が怪訝そうに目を上げた。
「何の話だ」
「そういう話だ」
清明は呆れたように道満を見て、それから再びこはくへと視線を戻すと、少しだけいたずらっぽく口元を緩めた。
「興味を持たれたのは私だ」
「だから何だ」
「別に」
清明はそれ以上追及することなく、淡々と札を揃えた。
「お前が機嫌を悪くする理由には浅い」
道満の苦々しい舌打ちの音が、乾燥した部屋の中に小さく響き渡った。
■ 断片:顔見知り
「お前、昔から面倒なんだよね」
閻魔がのんびりと茶を啜りながら、何気ない調子で言った。その言葉に、道満の眉間は即座に跳ね上がる。
「何だと」
「頑固だし、拗れるし、妙なところで律儀だし」
「貴様に評される筋合いはない」
「分かる」
道満の反論に被せるように、清明が静かに茶碗を置いた。道満の動きがぴたりと止まり、その視線がゆっくりと清明の方へと向く。しかし、清明は何事もないような涼しい顔を崩さない。
「分かる、ではない」
「面倒なのは事実だろう」
「貴様まで乗るな」
二人のやり取りを見て、閻魔が楽しそうに声を上げて笑った。
「ほら、こういうとこ。いちいち噛みつく」
清明が、至極淡々とそこに補足を加える。
「面倒だ」
「貴様ら……」
道満のこめかみが、怒りでピキリと引きつった。
それにしても、閻魔と清明の会話はあまりにも自然すぎた。初対面らしい遠慮はどこにもない。
道満は不審そうに眉を寄せた。
「……いつからそんなに馴染んでいる」
閻魔は茶を飲みながら、くすくすと肩を竦めてみせる。
「死んでから」
清明もごく当然のように頷いた。
「顔は合わせる」
「何故私が知らん」
「お前がこはくのとこに籠ってるからじゃない?」
軽い。あまりにも軽すぎる閻魔の物言いに、道満の顔は露骨に歪んだ。
自分の知らないところで、清明と閻魔が普通に言葉を交わし、普通に顔を合わせ、挙句の果てには自分の扱いについて普通に意見を一致させている。
どうにも気分が悪い。
閻魔は道満のその不機嫌そうな様子を見て楽しげに笑い、清明は何事もないように静かに茶を飲む。
そんな二人の輪の中で、道満だけが、妙に面白くない思いを抱えていた。
■ 断片:煽り
「呼ぶなら清明かな」
閻魔がぽつりと、実に軽く言った。その一言で、部屋の空気が一拍ほどぴたりと止まり、道満の眉がぴくりと跳ね上がった。
こはくは何も言わずにただ座っており、清明は何でもない顔で書物に目を落としている。そんな中、閻魔だけが茶を片手に、いかにも軽快な調子で言葉を続けた。
「道満は面倒なんだよね」
「……何だと」
「すぐ噛みつくし、拗れるし、余計なとこ気にするし」
「貴様」
「清明は楽」
楽しげに話す閻魔の横で、清明はただ静かに頁をめくった。止めようともしない。そのスルーする態度が、道満にとっては余計に腹立たしかった。閻魔はこはくのほうを見て、おどけるように肩を竦める。
「呼ぶだけなら、ね」
道満の視線が、一気に鋭さを増した。
「なら呼ぶな」
「でも呼ぶと来るし」
「……」
ぐうの音も出ない道満を見て、閻魔がにやりと笑う。
「文句言いながら来るの、律儀でいいよね」
そこで、清明が静かに口を開いた。
「そこは否定できん」
「貴様まで乗るな」
即座に道満の怒声が返る。それを見た閻魔は、満足そうに楽しげに茶を啜った。
「ほら面倒」
こはくは黙ったまま、その賑やかな応酬を眺めている。その静かな赤い目だけが、三人の三者三様の姿をありのままに映し出していた。
何よりも、この中で道満だけが本気で腹を立てているという構図そのものが、彼にとってはなおさら癪で仕方がなかった。
■ 断片:術式の修理
地獄の最奥に位置する、術式構築室。
その床一面には、古い封印体系を元に大がかりな改造を施した、多重結界の術式がぎっしりと走り書きされていた。
清明が全体の基本骨格を設計し、閻魔が運用の条件を出し、それを道満が現場の実戦用に組み直した通称“地獄用改修術”――。
しかし、どうにも歯車がうまく噛み合わなかった。
「ここの循環が死んでる。流れが戻らない」
道満が苛立ちを隠せない様子で、床の術式をトントンと指で叩く。
「そもそも設計が古いんだろ」
清明は床にしゃがみ込んだまま、淡々と反論した。
「なら現場に合わせて書き換えた。まだ文句あるのか」
「あるに決まってるだろ。これじゃ維持コストが跳ねる」
二人の言い合いを聞きながら、閻魔が腕を組む。
「文句はいい。安定させろ」
術式は何度も何度も組み直され、そのたびに崩れ、また強引に繋ぎ合わされた。
線は増え、枝分かれし、何度も継ぎ足された結果、もはや誰が見ても歪な代物になっていた。
重苦しい沈黙が室内に満ちる。
清明が一度、息を吐いて立ち上がった。
「一回、全部外すか」
「外したら戻らん」
道満が即座に遮るように返す。
「ならどうする」
「……分からん」
八方塞がりの状況に、閻魔が不機嫌そうに舌打ちをした。
「時間がない」
まさにその時だった。
それまで何も言わず、ただそこに“存在している”だけだったこはくが、静かに一歩前へと踏み出した。誰も彼女を止めようとはせず、ただその動きをじっと見守る。
こはくは床に広がる複雑怪奇な術式の中心へと、その指先を軽く落とした。本当に、それだけだった。
次の瞬間、まるで魔法のように、ぐちゃぐちゃに絡み合っていた術式が、一箇所だけ“ほどける”ように綺麗に整っていく。
先ほどまで暴れていた循環が、嘘のように静かな流れを取り戻し、滑らかに動き始めた。それを見た清明が目を細める。
「……あ、こういうことか」
その意図を察し、道満が即座に声を荒らげた。
「最初からそれやれ」
閻魔は張り詰めていた肩の力を抜き、小さく安堵の息を吐く。
「流石だな」
こはくは何も言わないまま、ただそっと床から手を離した。
術式はそのまま、何事もなかったかのように安定を保ち、静かに回り始める。さっきまでの三人の苦労がまるで嘘だったかのように、信じられないほど滑らかに。清明は感心したように少しだけ笑った。
「すごいな、ほんと」
素直に称賛する清明に対し、道満は即座に眉をひそめて噛みつく。
「“すごい”で済ませるな。今の我々の数時間は何だった」
一方の閻魔は、腕を組んだまま満足そうに深く頷いていた。
「これでいい。流石俺のこはく」
その言葉を聞き咎め、道満が横目で睨みつける。
「お前のでもないだろ」
「俺のだ」
「どっちでもいいだろ」
こはくはそんな彼らの騒がしいやり取りには目もくれない。
ただ、完璧に安定した術式だけが、地獄の床で静かに、そして厳かに回り続けていた。
◇
それからしばらくして、地獄の術式室は、またしても同じような“完成直前の大混乱”へと陥っていた。
床一面に走る術式の模様は、先ほどよりもさらに複雑怪奇なものになっている。清明が頑丈な骨格を組み上げ、閻魔が細かい運用条件を詰め、それを道満が実戦仕様に肉付けしたものだ。
だが今回は、前回とは明らかに違う異質な要素が混ざり込んでいた。
その術式の中心に、こはくがぽつんと立っている。
「……今度は何だ」
道満が低く警戒するような声を漏らした。清明は複雑に絡み合う術式の流れを目で追いながら、不思議そうに首を傾げる。
「安定はしてる。けど、さっきと違う」
閻魔は腕を組んだまま、冷ややかな視線で術式を見下ろした。
「こっちも呼んだ覚えはないんだがな」
こはくは相変わらず何も言わない。ただ、流れる術式の中心に向けて、静かに指を落とした。
――次の瞬間、術式へと“何か”が爆発的に流れ込んだ。
術式全体が一瞬だけ、まるで底へ引っ張られるように深く沈み込む。せっかく安定していた流れの上に、全く別の異質な層が無理やり重なっていく。
清明が眩しそうに目を細めた。
「……力を“足した”?」
道満の反応は、誰よりも早かった。
「やめろと言ってるだろ」
その怒声と同時に、道満が制止しようと一歩踏み込む。だが、彼が止めるよりも一瞬早く、術式が激しく波打ち、そして崩れた。
それは単純な崩壊ではなかった。明確な“拒絶”だった。
唐突に付与された強大すぎる力に構造そのものが耐えきれず、見る影もなく歪んでいく。
「っ……!」
清明が一瞬驚いたように眉を動かした。
「どうして崩れる?増やしただけだろ」
純粋に理解できていない清明に対し、道満は激しく舌打ちをしながら、歪んだ術式の一部を乱暴に切り離していった。
「増やしたんじゃない、“混ぜた”んだ」
「同じだろ」
「違う!」
道満の指が空を鋭く切り裂き、術式の線が“意図的に壊される”。
後から付与された異質な層だけが、まるで古い角質を削ぎ落とすかのように、綺麗に剥がれていく。その鮮やかな手際を見て、清明はようやく事の本質に気づいた。
「……ああ、これ、相性の問題か」
「今更気づくな」
道満は荒い息を吐きながら、じっと佇むこはくを睨みつける。
「何度言えば分かる。お前のそれは“触れた後が問題”なんだ」
こはくは無言を貫いたまま、まだ術式の中心から動こうとしない。閻魔はその一連の騒動を特等席で眺めながら、面白そうに肩をすくめた。
「まぁ悪くはないけどね」
床に残された術式の残骸を軽く見下ろしながら、閻魔は言葉を続ける。
「使われる相手に同情する」
そして、意地悪そうな視線を道満へと向けた。
「それにしても、お前は過剰に反応しすぎ」
クスクスと、少し楽しそうに笑う。
「見ててこっちが恥っずかしくなってくる」
その煽りに、道満は即座に噛みついた。
「恥ずかしいのはお前の管理だろ」
「はいはい」
男二人が言い合う中、清明は一人でまだ深く考え込んでいた。
「でも、こはくの力が加わると、術式の“前提”が変わるのか」
「そういう話だ」
道満はそれ以上説明するのも煩わしいとばかりに、短く言い捨てた。
術式はすでに道満の手によって再構築されている。だが、それはもう、最初に設計した形とは全く違うものに変貌していた。
こはくはようやく満足したのか、床から指を離した。そして何も言わず、ただ元の位置へと静かに戻っていく。それを見届け、閻魔は満足そうに頷いた。
「で、次は最初からこいつ入れて設計しろ」
その無茶振りに、道満が即座に言い放つ。
「二度とやるか」
清明は呆れつつも、少しだけ楽しそうに笑った。
「でも結果は安定してるぞ」
「だから問題なんだ」
「問題はいつもあるだろ」
こはくはやはり、何も言わない。
ただ、新しく生まれ変わった術式だけが、地獄の暗闇の中で静かに、そして力強く回り直していた。




