*主の乱れと式神道満
直接的な性描写はありませんが、連想させる表現を含みます。
森は、不気味なほどに静かだった。
風は薄く、微かな葉擦れの音だけが、遥か遠くの梢で小さく揺れている。
まだ完全に陽は落ちきっておらず、鬱蒼と茂る木々の隙間からは、澱んだ鈍い橙色の光が斜めに差し込んでいた。
足元から這い上がるような、湿った土の匂い。低く沈んだ、重苦しい大気。周囲に人気を拒絶する静寂が広がっている。
その深い奥庭で、こはくは一本の大木の幹に背を預けるようにして座り込んでいた。
白い着物の裾が容赦なく湿った土を踏み、片膝をだらしなく崩したまま、その呼吸だけが浅く激しく乱れている。
華奢な肩が大きく上下していた。喉元が細く、痛々しく動くたびに、吸い込んだ息がうまく肺へと整えられていないのが、傍目から見ても明らかに見て取れた。
顔色はいつも通り、血の気のない陶器のままだ。
表情も、大きく崩れてはいない。
それでも、その佇まいは明らかに異様であり、異常だった。
空気が、酷く重い。
森そのものが、座り込むこはくを中心に、メキメキと悲鳴を上げるように軋み始めていた。
ざわざわと落ち着きなく波打つ枝先。地面に落ちた不自然な影が、意思を持つかのように不規則に揺れる。
見えない何かが空間に満ち満ちて過密を極め、こはくの周囲にある景色の輪郭だけが、陽炎のように僅かに歪んで揺らいでいた。
その歪みの只中で、音もなく影が裂けた。
足元から黒い泥のように空間が裂ける口が開き、その闇の底から、弾かれるようにして道満の身体が現界へ引き上げられる。
だが、着地すると同時、道満は強烈な不快感に眉を寄せた。
肌を刺す空気が、あまりにも異様だった。
濃い。吸い込むだけで肺が爆ぜそうなほどに、重い。
だが、それ以上に――目の前に横たわる主の姿を見た瞬間、道満の足は完全に停止した。
こはくが、信じられないほどに乱れている。
大木にもたれかかったまま、規則正しい制御を失って呼吸を乱し、漏れ出そうとする息を必死に噛み殺すようにして、浅く空気を吸い込んでいる。
いつもなら底の知れないあの赤い瞳は、今は開かれてはいるものの、どこにも焦点が定まりきっていない。伏せられた長い睫毛の下で、おぞましいほどの熱を孕んで、じっとりと濡れて揺れていた。
道満は一瞬、次の言葉を完全に失った。
この光景には、明確な見覚えがあった。
あの時――術式研究の最中に、こはくの底知れぬ力を強引に流し込まれ、己の魂の器が満ちすぎて内側から軋みを上げた、あの瞬間だ。
熱が身体の芯へと融け落ち、呼吸が乱れ、肉体の制御が効かなくなっていく。圧倒的に満たされているくせに、同時に存在を根本から削り取られていくような、あの狂おしくも不快な高揚。
今、目の前で息を詰まらせているこはくは、かつて自分が味わったあの感覚と、全く同じようにして乱れ方をしていた。
「……おい」
低く、押し殺した声で呼ぶ。
しかし、返事はない。
焦点の定まらぬ目で、こはくは道満をただ見つめている。窮地に陥った己の身代わりとして、この場に道満を呼び出したのは、確かに目の前のこはくだ。
だが、呼んだはずの主からは、その先の命令が一切響いてこない。
道満は焦燥を隠さぬまま、数歩で一気に距離を詰め、こはくの目の前へと手荒に膝をついた。
湿った土が衣の生地に触れ、冷たい湿り気が直に膝へと移ってくる。そんな不快感など気にも留めず、道満はこはくの顔を間近から覗き込み、その眉間を深く、険しく寄せた。
「どうした」
低く、そして鋭く問いかける。
しかし、予想通りに返答はない。こはくは苦しげに息を整えきれないまま、ただ赤い瞳で道満を見つめ返すだけだ。
「何があった」
やはり、返事はない。道満の声のトーンが、怒気を含んで僅かに低くなる。
「一体どうした。私はどうすればいい」
重ねた切迫の問いにも、言葉としての回答は最後まで返らない。
ただ、その沈黙の代わりに、こはくの白い指先が、かすかに、何かを求めるように動いた。
激しい呼吸の合間。
細い指がわずかに持ち上がり、そして力なく落ちる。それは、言葉を持たぬ者が、何か明確な意図を示そうとしている動きのようにも見えた。
道満は思わず息を詰める。
分からない。この万能の陰陽師をして、目の前で起きている事象の正体がまるで掴めない。
目の前の少年は、現に壊れそうなほどに乱れている。どう見ても、尋常ではない異常事態だ。だが、これをどう処理し、どう術式を回して救い上げればいいのか、その手段が全く分からなかった。
こはくは喋らない。何一つとして説明もしない。
それでも、これほどの深刻な状態で自分を呼んだのなら、自分に何かをさせるつもりなのだろう。
道満は胸を焦がす焦燥感を無理やり押し殺し、ただじっとこはくの肉体を観察した。
乱れる呼吸。かすかに動いた指先。細い喉。
そして、皮膚の下で血流が激しく脈打つ、浅く上下している白い首筋。
そこで、ふと道満の脳裏に、これまでの記憶の断片が鮮烈に引っかかった。
指先。
こはくがいつも、己の器にあの異質な力を流し込む時、彼は必ず直接触れていた。みぞおち、あるいは、肩口。
その直接触れた箇所を起点として、あの膨大な力が、こちらの内側へと落ちてきていた。
さらに思い出す。以前、いつかの研究の最中、自分がこの少年の喉元へ無作法に手を伸ばした時、こはくはそれを決して止めなかった。拒みもしなかった。
道満の鋭い視線が、こはくの無防備な首筋へと吸い寄せられるように落ちる。
白い肌のすぐ下。ドクドクと、過剰な熱を孕んだ脈が打っている場所。
そこへ向けて、道満は大きな手のひらを、ゆっくりと伸ばしていった。
「……これか」
誰にともなく、掠れた呟きを落とし、その長い指先をこはくの熱い首筋へと直に触れさせる。
触れた瞬間、こはくの身体が、電流が走ったかのようにびくりと大きく震えた。
それと同時に、閉じ込められていた鋭い息が、跳ねるようにして漏れ出す。
「っ、……」
華奢な肩がガタガタと揺れる。
細く息を呑む音が静かな森に漏れ、喉がひくりと痙攣するように震え、こはくの薄い唇がわずかに開いた。
それと同時に、接触面である道満の指先へ、恐ろしいほどの熱が奔流となって走った。
熱、という言葉で表現するには、あまりにも濃度が高すぎた。
物理的な流れ。暴力的な圧。
まるで実体を持った塊のまま、無理やり体内に押し込まれるような、凄まじいまでの密度。
道満の指先から、伝うようにして腕へ、肩へ、そして魂の内側へ――こはくの内に溜まっていった過剰な力が、回路を介さずそのままダイレクトに流れ込んでくる。
「——っ」
受け止めた道満の身体が、内側からの衝撃で大きく跳ねた。
喉が瞬時に詰まる。肺の機能が停止したかのように、息が激しく乱れる。
「ぐ、……っ」
あまりの密度の高さに腕の筋が強張り、指先がこはくの首筋に深く食い込むようにして、激しく震える。
熱い。だが、それは肉体を焼くような火の熱ではない。存在のすべてを強制的に満たし尽くす熱だ。
魂の芯へと容赦なく流れ込み、骨の奥深くまで沈み込み、死者の器を内側から無理やり押し広げていく。力が足りない場所、欠損している部分へと勝手に流れ込んでそこを満たし、満たしすぎるがゆえに、器の輪郭をミシミシと軋ませていく。
「っ、は……」
道満の喉から、苦しげに掠れた息が漏れ出す。
首を掴まれたままのこはくの肩も、同じように激しく震えていた。
「……、っ」
喉の奥で浅く息が引っかかり、唇から細い呼気がこぼれ落ちる。
力を受け止めている道満の肩もまた、同調するように同じリズムで震えていた。
「く、……っ、は……」
互いに尋常ではないほどに息を乱しながら、言葉にならない断片的な呼吸だけを、至近距離で吐き出し合う。
深い森の静けさの中、二人の荒い呼吸の音だけが、重なり合うようにして近くで響き続ける。耐えかねたように、こはくの指先が地面の土を強く掻いた。
ざり、と湿った土を不格好に引く音が、静寂に消えていく。
「……っ、ぁ」
道満の腕全体が、過剰なエネルギーの流入に痙攣するように強張る。
「っ、ぐ……ぅ……」
もはや、自分が主の力を無理やり吸い上げているのか、あるいは主の手によって流し込まれているのか、その判別すら全くつかなかった。
ただ一つ確かなのは、道満の手が触れたその場所から、こはくを苦しめていた過密な何かが、確実に抜けていっているということだけだ。
こはくから、道満へ。
主の内で飽和し、破裂しかけていた満ちすぎたものが、媒介となった死者の器へと少しずつ移り変わっていく。その移動に伴い、こはくの呼吸からは、先ほどまでの逼迫した浅さが少しずつ失われていった。
「……は、……っ」
細く詰まっていた少年の息が、ようやく少しだけ深く、体内の奥へと落ちる。
だが、その代わりに、引き受けた道満の側の呼吸が完全に崩壊を始めていた。
「っ、は……ぁ、……」
息が、うまく続かない。
体内の力が過飽和を起こし、視界がチカチカと白く明滅する。
指先の生々しい感覚が鈍磨し、地を踏みしめる膝がガタガタと笑うように震える。
「まだ、……っ」
これ以上は器が持たないという本能の警告を無視し、掠れた声が道満の喉に固く引っかかる。
「……抜け、……っ」
首筋に触れられたまま、こはくの喉が小さく震えた。
「……、っ」
小さく息を呑み、その肩がびくりと跳ねる。
このままこの行為を続ければ、限界を迎えて先に壊れるのは間違いなく自分の方だと、道満は痛いほど分かっていた。自分はどこまでいっても、人間の形を模した式神の器だ。受け止められる量には、明確な限界がある。
それでも――道満は、ぎりぎりの最後の瞬間まで、その指を少年の首筋から離そうとはしなかった。
「……っ、は……」
道満の呼吸は限界を迎えて乱れきり、最早声にすらならない。
しかし、その執着と引き換えに、こはくの呼吸は目に見えて少しずつ整い始めていた。
「……は、……」
さっきまで浅く途切れていた主の呼吸が、ようやく、細い一本の糸のように繋がる。
それを見届け、その変化を指先で確かに感知して、そこでようやく、道満の腕から強固な力が完全に抜けた。
指先が、しっとりと汗ばんだ首筋から離れる。
支えを失った腕が、重力に従って地面へと力なく落ちる。激しく肩で息をしながら、道満はその場に片手を突いて、どうにか上体を支えた。
視界がぐにゃぐにゃと大きく揺れる。
流れ込んできた残熱のせいで、喉の奥が焼けるように熱い。
吸い込みすぎた過剰な力のせいで、息がうまく整わなかった。
こはくは、まだ変わらず木にもたれかかったままだ。
だが、先ほどまでの異常な取り乱し方に比べれば、その呼吸は明らかに深くなっている。
大きく揺れていた肩の動きも、幾分かはましな状態に戻っていた。
道満は未だに荒い呼吸を繰り返したまま、前髪の隙間から、こはくを鋭く睨みつけるようにして見上げた。
いつもの底の知れない赤い瞳が、静かにこちらを見返してくる。
その陶器のような顔には、先ほどまでの限界に近い切迫した色は、もう綺麗に薄れていた。
道満は乱れきった息を必死に押し殺しながら、低い、怒気を含んだ声を吐き捨てた。
「……こうなる前に」
一度、激しく息を継ぐ。
喉の奥が、未だに熱を帯びて酷く熱い。
声が、掠れてうまく掠れて響く。
それでも、目の前のこはくから決して目を逸らすことなく、はと言葉をぶつけた。
「こうなる前に、私のところへ来い」
大きく肩で息をしながら、道満は眉間をこれ以上ないほど深く寄せる。
「分からんまま呼ぶな」
低く、掠れた声音のまま、感情を剥き出しにして吐き捨てる。
「次は最初からやれ」
主従の境界を、その力の残熱がドロドロに溶かしていく。
主の危機を誰よりも先に検知し、その身に受ける特権を、道満は不快そうに、しかし強固に握りしめていた。
森は、元の静けさを取り戻していた。
二人の、まだ荒さの残る呼吸の音だけが、しばらくの間、湿った木々の間に重なり合って残っていた。




