力への独占欲 / 見慣れぬ乱れ
■ 断片:力への独占
それは、いつもの術式研究の最中のことだった。
見慣れた部屋の床には、幾何学的な陣が隙間なく敷き詰められている。空間に満ちる古い紙の匂いと、符の擦れ合う乾いた音。その中央にこはくが立ち、道満はその正面に佇んでいた。
扱っている術の構造自体は、極めて単純なものだった。
補助術の展開、出力の補正、そして式の安定化。道満が術式の僅かな癖を指摘し、それをこはくが淡々と修正して、再び術を流す。その繰り返しの作業は、既に何度目かも分からないほど、二人の間で淡々とこなされていた。
しかし、その日もまた――こはくは構築の途中で、術へ自分の力を一滴だけ落とした。
その不穏な変化に、道満の眉が即座に寄る。
「……やめろ」
短く制止の言葉を落とす。だが、こはくは止まらない。少年の指先は、そのまま何事もないように術式を流した。
一瞬にして陣の密度が変わり、部屋全体の空気がズンと重く沈み込む。術が歪な形で、強制的に“成立してしまう”側へと傾いていくのを肌で感じ、道満は露骨に顔をしかめた。
「だから、それを私に使うなと言っている」
低く、はっきりと告げる。不快そうに手元の符を払いのけ、術の流れを術師としての冷徹な目で見切りながら、大きく一歩下がった。
こはくは返事をしない。いつものことだった。
道満は舌打ちひとつ、床に組まれた術式を苦々しく睨みつける。
己の器が、あの強烈な感覚を鮮明に覚えていた。全身を無理やり満たしてくる狂おしい熱。己にいかに力が不足しているかを残酷に暴かれる感覚。完全に満ちているはずなのに、まだ足りないと錯覚させる、あの妙な飢え。思い出すだけで、その顔が不快そうにしかめられる。
「術の補助に使うには、性質が悪すぎる」
吐き捨てる言葉は辛辣だった。
「人間向きではない。術師向きでもない。ろくなものではない」
こはくはそんな酷評などどこ吹く風で、静かに次の符を置いている。道満はその淡々とした姿を見て、ふと言葉を失い、沈黙した。
数拍の重い間が流れる。
それから、目を細めたまま、低く言葉を紡ぎ出した。
「……いや」
声が、さらに一段深く沈む。
「私に使うな、ではないな」
その言葉に、こはくの手がピタリと止まった。道満は自分で紡ぐ言葉を選ぶように、わずかに視線を床へと落とした。
「誰にも使うな」
静かな、だが確固たる意志を孕んだ声だった。部屋の空気が、張り詰めたようにわずかに止まる。道満はゆっくりと顔を上げた。
「私に使われるのも不快だが」
言いながら、真っ直ぐにこはくの赤い瞳を見つめる。
「他の何かに使って、同じように満ちられるのも気に食わん」
言葉の調子はどこまでも平坦だった。いつも通り、冷ややかな皮肉の体裁を保っている。だが、その内容だけが妙に率直だった。
道満自身、それを口にしてから一瞬だけ黙り込んだ。己の内にある感情を、明確に自覚してしまったからだ。
嫌なのだ。あの悍ましくも至高の力を自分が知っていること。その性質を理解してしまったこと。そして、あの融解するような満たされ方を、他の誰かも知るかもしれないということ。そのどれもが、猛烈に気に食わない。
「術として使うには歪すぎる」
淡々と続けるが、こはくは揺れない。問い返しもしない。その頑なな沈黙に、道満は小さく鼻で笑った。
「……分かっているならいい」
言いながら、散らばっていた符を元の位置へと戻す。数拍の沈黙の後、道満はまるで独り言のように、ぼそりと付け足した。
「特に他人には使うな」
手元の陣を見たまま、決して主と目を合わせようとはせずに言う。
「面倒が増える」
紡がれる言葉はいつも通り、己の都合を優先した言い訳だ。だが、その声音だけが、わずかに低かった。
最初は、ただの牽制のつもりだった。
術式研究の最中、こはくが新しい術を組み、符を置き、陣を整える。道満はその正面で術の流れを見つめ、構築の癖を指摘し、破綻につながる歪みを潰していく。いつも通りの光景のはずだった。
だが、こはくが術へ自分の力を混ぜようとした瞬間、道満は即座に眉を寄せた。
「待て」
短く、鋭く制す。その声の圧力に、こはくの手が止まった。
道満は足元の陣を見下ろし、数拍のあいだ思案する。それから、いかにも面倒そうに深く息を吐き出した。
「……それを混ぜるなら、先に私に試せ」
低く言葉を落とす。言ってから、自分でも一拍遅れてその言葉の意味を認識したが、撤回するような真似はしなかった。
こはくは何も言わない。ただ静かに道満を見つめてくる。道満は眉を寄せたまま、傲然と言葉を続けた。
「他に流して術ごと壊されても面倒だ」
もっともらしい、徹底的に合理主義を気取った理屈だった。
「加減も精度も、お前はまだ甘い」
符を一枚引き寄せ、術式の構造を見ながら言い放つ。
「私なら壊れん。結果も見られる」
「だから、先に私で試せ」
理屈としては、完全に通っていた。少なくとも、道満の中ではこれ以上ないほど正当な前提だった。こはくは何も言わないまま、その要求通りに術式を書き換えていく。
そして次の機会からは、本当に道満へと先に試すようになった。道満は毎回、激しい文句を言いながらそれを受け止めた。毎回のように顔をしかめ、毎回のように嫌そうな態度を取る。そのたびに「だから使うな」と言い続ける。
だが、決して止めはしなかった。そうして、奇妙な実験が何度も繰り返されていく。
いつの間にかこはくが新しい術を組む時、道満は最初から、自分が試される前提で術式を見るようになっていた。
「そこは浅い」
「出力が散る」
「先に補助を挟め」
的確な指示を出しながら、当然のように陣の前へ立つ。こはくもまた、当然のように道満の器へとその力を試す。
文句を言う。嫌そうな顔もする。だが、受ける。
それが数を重ねるうち、道満の中で一つの妙な前提が出来上がっていった。
自分が先に見る。
自分が先に受ける。
自分が把握する。
その特権的な意識が、二人の間で音もなく共有されていた。
しかし、ある日のことだった。道満は召喚された直後、いつもの術研究部屋ではなく、見知らぬ長い廊下へと出された。珍しく、あの密室の外への召喚だった。
周囲では、数人の術者たちが何事か忙しなくざわついている。
その様子に不快げに眉を寄せた道満の耳に、一人の術者の軽い声が入ってきた。
「こはく様、新しい術の試験中でして」
若い術者が、事情を説明するようにそう言った。その瞬間、道満の足がピタリと止まる。
「……何?」
聞き返す声が、わずかに低く沈んだ。術者は空気の変化に気づかないまま言葉を続ける。
「補助術の新型らしく、今ちょうど別室で——」
最後まで聞かなかった。道満の整った顔から、すっと温度が落ちていく。
「別室」
低く、呪詛のようにその言葉を復唱する。
「誰に」
術者がようやく、ただならぬ空気の変化に気づき、恐怖に口をつぐんだ。だが、もう遅い。
「誰に試している」
静かな声だった。そこには怒気はない。だからこそ、余計に周囲の空間が冷え込んでいく。
術者が答えに詰まる中、道満はその沈黙だけで状況をすべて察した。それから、道満はゆっくりと息を吐き出す。
「……成程」
妙に穏やかな、しかし冷酷な声だった。
「私を呼んでおいて、他所で済ませるか」
独り言のように言葉を落とす。そのまま、道満は別室へと向かって歩き出した。背後で術者が慌てて止める間すら与えない。
襖を開ける。
部屋の中には展開されたばかりの術式と陣、そしてこはくと、見知らぬ術者が一人。
まさに今、試験の最中だった。その光景を見た瞬間、道満は静かに目を細める。
怒り狂っているわけではない。だが、明確に不機嫌だった。
「……我が主」
低く呼ぶ。その一言だけで、部屋の中の空気が完全に止まった。
「私が見ていないところで使うな」
静かで、ひどく落ち着いた聲音だった。だが、その一言だけで、部屋の空気が一瞬にして凍りつく。
試験台にされていた術者が恐怖に身体を固まらせ、周囲の連中も動けない。道満はただ、こはくだけを見据えている。
「加減も精度も、まだ甘いと言ったはずだ」
不遜な足取りで、一歩、部屋へと入る。
「結果の観測もせず、他へ流すな」
さらに一歩、主との距離を詰める。
「使うなら先に私を通せ」
そこで足を止め、数拍の息詰まる沈黙が落ちた。道満はそこで初めて、自分が衆目の前で何を口走っているのか、その言葉の意味を自覚した。
だが、もう遅い。言葉はすでに出たのだ。取り消すような真似はしない。道満は眉ひとつ動かさず、最後に低く言い切った。
「監督のない試験は事故になる」
もっともらしい顔で、あくまで合理の体裁を気取って。その実、部屋にいる誰よりも感情的な理由を、綺麗に理屈で包み隠したまま。
■ 断片:見慣れぬ乱れ
影の牢の真っ暗な空間に、一本の裂け目が開く。
いつものように、音もなく。暗がりの中へ細い光の境界が走り、その向こうから、現界での用向きを終えたこはくが戻ってきた。
道満は幾重にも巻かれた縄に縛られたまま、いつものように動かせる視線だけをその方向へと向ける。
何も変わらない。一見すれば、いつも通りの光景だった。
人の形をした器、漆黒の髪、汚れなき白い着物。感情の抜け落ちた静かな顔と、すべてを見透かすような赤い瞳。確かにいつも通りだ。
だが、卓越した術師である道満の視線は、そこで漫然と止まりはしなかった。無言のまま、戻ってきたこはくの姿を頭の先から順に、鋭く追っていく。
髪、顔、肩、そして襟元。
そこで、道満の目がわずかに細まった。
「……」
ほんの僅かな違和感だった。着物の襟が、少しだけ不自然にずれている。
大きく乱れているわけではない。常人なら見落としてもおかしくない程度。喉元の合わせの角度が、ほんの指一本ぶんだけ、いつもより浅く開いているのだ。
道満は黙ったまま、その一点をじっと凝視していた。
こはくはいつも完璧に整っている。乱れない、崩れない、誰かに触れられた形跡など、この影の牢にまず残すはずがない。そのこはくの襟元が、わずかにずれているのだ。
道満はしばらく黙り込んだ後、低く口を開いた。
「……珍しいな」
独り言のように言葉を落とす。こはくは答えない。裂け目を閉じ、何事もなかったかのようにその場に立っている。だが、道満の視線は衣服の襟元から一刻たりとも動かなかった。
「自分で崩したか」
低く問いかける。当然のように、否定の言葉すら返ってこない。
「……いや」
道満はそこでさらに視線を鋭くし、小さく目を細めた。違う。こはくはそういう不格好な崩し方をしない。
歩き方。戻ってきた直後の静けさ。袖の落ち方。そして、襟の開き方。
これは、自分で動いて崩した乱れではない。――誰かに直されたあとだ。
一度大きく乱れたものを、誰かが整えたのだ。だが、整えきれていない。その作業をした者の、僅かな手際の甘さだけがそこに残っている。
道満は数拍の間、深く黙り込んだ。それから、ひどく静かな声で言った。
「……誰に触られた」
それは問いではない。確認でもなかった。ただ、内側から湧き上がる激しい不快感が抑えきれず、口に出ただけだった。
こはくは答えない。道満は分かっている、この主から返事など来ないことくらい。
それでも、一度捉えた視線はどうしても外れなかった。
襟元に残る、指先で直した痕跡。乱れを整えた者の癖。扱いに慣れているが、完璧とは言えないその手つき。道満はそれを見ているうちに、己の脳内で勝手に思考を巡らせていく。
何があった。どこへ行っていた。誰が触れた。
人間を超えた神格の気配も、清浄な神気も、今の道満には完全には分からない。だが、その程度のことなら分かる。ただ毎日見つめていれば、嫌でも分かるのだ。いつも通りに見える景色の中の、ごく僅かな差だけは。
道満はしばらくこはくを見つめ続けたまま、やがてすべてを吐き出すように、小さく鼻で笑った。
「……随分と雑な手だ」
低く言葉を落とす。それは誰に向けた言葉でもなく、明確な皮肉とも断じきれない声音だった。
こはくは何も言わない。ただいつも通り、感情のない顔でそこに佇んでいる。その何も変わらない顔を見ながら、道満は静かに目を細めた。
何も知らない。何も聞けない。何も答えない。
それでも、こうして見ていれば、隠そうとした僅かな乱れだけは、確実に自分の前に残るのだ。
道満はその小さな綻びを拾い上げるようにじっと眺め、最後に低く吐き捨てた。
「……次は、もう少しましに隠せ」




