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*戦闘中、力を求める

直接的な性描写はありませんが、連想させる表現を含みます。

召喚の気配が上空から落ちてきた時点で、道満は今回の敵がひどく面倒な相手だと察していた。


肌を刺す空気が重い。場が悪い。大気中の霊力が淀み、術式の通りが最悪なまでに鈍かった。

 

敵は、歪な形をした異形だった。

巨体というわけではない。派手な妖気や術を放ってくるわけでもない。だが、恐ろしく厄介だった。

 

こちらが符を切り、術を通すたびに、確実に削れたはずの気配が泥のように蠢き、瞬時に均されてしまうのだ。符で縛り上げても肉が裂けるようにして逃れ、黒い炎で焼いても核まで崩れ切らない。

形が一定に安定していないのだ。焼けば灰のように散り、散れば霧のように集まって別の形で戻る。

 

道満は忌々しげに舌打ちをひとつ漏らし、新たな符を指先で切った。

黒い炎が爆ぜるように走り、地を舐めるように広がって異形の足元を焼き尽くす。

焼ける。確かに焼ける手応えはある。だが、あまりにも浅い。

 

「……チッ、面倒な」

 

低く吐き捨てる。

こはくは少し後方、いつものように感情の失せた佇まいで静かに立っていた。手を出そうとはしない。ただ、実験の経過を観察するように見ているだけだ。

道満は一歩退き、間合いを管理しながら次の符を連続で切る。

 

結界を幾重にも重ねて敵の動きを狭め、拘束の呪を重ねる。さらに、その中心へ黒い炎を極限まで圧縮して撃ち込んだ。

異形が軋む。肉体が内側から崩れる。

――だが、それでも崩れきらない。

次の瞬間、爆炎を突き破って、異形の歪な腕が槍のように伸びてきた。

瞬時に身体をあおる。避ける――だが、踏み込みの鈍さの分、わずかに遅れた。

肉を切り裂く嫌な音が響き、鋭い斬撃が道満の脇腹を深く裂いた。

 

「……っ」

 

激しい衝撃が走り、現界している式神の身体が一瞬、ノイズのようにぶれる。手元から符がばさばさと虚空へ散っていく。

これが生前の生身であれば、とっくに立てなくなっていただろう。死者の器、式神の身体だからこそ、辛うじて形を保っている。

 

だが、痛覚は確実に思考を鈍らせる。一拍、次の動作が遅れる。

戦場において、その一拍の遅れは致命的だった。

異形がさらにその形を変質させる。刃のように鋭利に収束した腕が、返しの刃となって次の一撃を形成していく。

 

来る。まともに受ければ器が持たない。避けたとしても、次の一手で確実に追いつめられる。

道満は一瞬で脳内計算を完了させ、激しい舌打ちとともに地を蹴って後退した。


プライドを捨てた逃げではない。これは、次の一手を打つための戦略的な撤退

一直線に、こはくのいる方へと向かって。

 

地を裂くほどの勢いで踏み込み、異形の直線的な射線から強引に抜け出す。こはくのすぐ手前まで下がり、背後へ隠すようにして、肩で激しく息をしながら振り返った。

異形が猛烈な速度で追ってくる。止まらない。

道満は正面を見据えたまま、視線だけを隣の主へと流した。

 

「――我が主」

 

息が乱れ、喉の奥が引きつっている。それでも、その声ははっきりと通った。

 

「私に、あれをやれ」

 

こはくは何も言わない。ただ、迫り来る異形ではなく、じっと道満の顔を見つめる。道満は傲慢に笑う余裕すら完全に失ったまま、吐き捨てるように言葉を続けた。

 

「加減しろとは言わん。――今は、力が足りん」

 

異形が眼前にまで迫る。その圧倒的な質量に、周囲の地面がメキメキと軋んだ。

 

次の瞬間。

こはくの手が、道満の傷ついた肩口へと軽く触れた。

ほんの一瞬。触れたか触れないかのような、それだけの接触。

 

「——ッ!」

 

道満の身体が、内側から弾かれたように大きく震えた。

背筋が強烈に跳ね上がる。引き裂かれた脇腹の傷口が、焼けるような熱を持ち始める。そして、魂の器が一気に、恐ろしいほどの密度で満たされていく。

 

あの熱だ。術式の構築を一切介さない、この世の理屈をすべて飛び越えて魂の最奥を満たしてくる、あの悍ましい力。

肺が勝手に、溜まった息を激しく吐き出す。指先が制御を失って痙攣し、膝ががくんと地面へ落ちそうになる。

 

感覚が、狂う。

視界が歪んで滲み、意識の輪郭が急速に削り取られていく。身体の奥底が、もっとその熱を寄越せと、狂おしい渇望に軋みを上げる。

だが、今度は崩れ落ちるわけにはいかなかった。道満は奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばる。

 

「……ッ、は」

 

漏れかけそうになる情けない吐息を、強靭な理性で噛み潰す。

乱れるな。この力に呑まれるな。溺れる前に、すべてを術へと変換して使え。

 

過剰に溢れ出す万能の感覚を、己の個人的な欲へと落とす前に、すべて目の前の呪詛へと流し込む。

道満は激しく震える右手の指を、気力だけで立てた。空間を裂くようにして符を切る。

 

生まれたのは、黒い炎だった。

まるで夜の闇そのものを切り取って凝縮したような純粋な「黒」が、音もなく空間に立ち上がる。それは炎でありながら、ゆらゆらとした揺らぎすら一切ない。圧倒的な熱量を内包していながら、あまりにも静かすぎた。

 

迫り来ていた異形の動きが、ピタリと止まる。

本能的に生物としての絶対的な死を察知したかのように、一瞬だけその足が鈍った。――だが、遅い。

道満はそのまま、狂気に満ちた腕を容赦なく振り下ろした。

 

過密な黒い炎が、世界へ向けて落ちる。

轟音は鳴らなかった。爆ぜる音すら、破壊の速度に追いつかず遅れてやってくる。

 

先に、目の前の景色そのものが消え失せた。異形ごと、それが踏み締めていた地面ごと、周囲一帯の空間すべてが絶対的な黒に呑み込まれていく。

 

それは「焼く」という現象ですらなかった。存在を上から強制的に「塗り潰す」のだ。輪郭ごとすべてを奪い去り、因果の地平ごと灼いて均してしまう。

異形の輪郭が、飴細工のようにドロドロと崩れ、裂けていく。逃げる間もなく、断末魔の叫びすら声になる前に、完全にこの世から焼き切られた。

 

それでもなお、過密な炎は牙を収めない。

異形がいた場所だけにとどまらず、その遥か背後、その周辺一帯。この空間に展開されていた術場すべてをまとめて、黒い闇が残さず舐め取っていく。

 

数拍の破壊ののち、遅れて凄まじい大音響が鼓膜を打った。

押し潰された空気が遅れて爆ぜる。黒炎に焼き尽くされ、支えを失った周囲の岩や土が一斉に崩れ落ちていった。

 

後に残されたのは、完全な静寂。

異形の不快な気配は、文字通り跡形もなく消え去っていた。

道満はその破壊の渦の中心に立ったまま、荒く、激しい息を吐き出し続ける。肩が大きく上下する。術の解放とともに、指先から一気に力が抜けていき、膝がガタガタと笑った。


術は確かに通った。だが、通りすぎて世界を削り取ってしまった。

 

「……は、っ、ふう」

 

息の乱れが収まらない。身体の奥深くが、まだ狂おしいほどに熱い。魂を満たしたあの過剰な力が、未だに体内に残り、抜けきってくれないのだ。

世界の端々がまだぐにゃりと揺れて見える。道満はどうにか立ったまま、這い上がるような横目でこはくを睨みつけた。あの赤い瞳が、いつもと変わらぬ静けさでこちらを見つめ返してくる。

 

道満は荒い息の合間に、自嘲を込めて小さく口端を歪めてみせた。

 

「……ふん、加減というものが、できるではないか」

 

掠れた声で、ぽつりと吐き出す。それはいつもの痛烈な皮肉のようでありながら、決して主を責めるような響きを含んではいなかった。息を整えきれないまま、道満はどこか楽しげに言葉を続ける。

 

「最初から、そうしろ……」

 

言い切る頃には、限界を迎えた膝がわずかに折れかけていた。それでも地面に崩れ落ちることはせず、道満は傲然と笑ってみせる。

呼吸は乱れたまま。息を切らしたまま。

それでも――今度はあの熱に呑まれず、己の術として御してのけたのだ。


 

戦は、完全に終わっていた。

異形の悍ましい気配は塵一つ残さず絶え果て、周囲にはただ、黒く焼け爛れた大地だけが広がっている。黒い炎の名残が地表を薄く燻らせ、深く裂けた土の隙間から、陽炎のような熱が陽の下へと逃げていた。

 

道満はその破壊の跡地の中央に、ぽつんと立っていた。

荒れていた息はもう、すっかり整っている。脇腹を深く裂いていたはずの傷も、すでに跡形もなく塞がっていた。式神としての器は崩れておらず、正常な状態を保っている。

 

戦闘は完全に終了した。術の効力もすでに切れている。ならば――もう、この現界は解けるはずだった。いつもであれば、ここで全てが終わる。

 

戦いが終われば、役割を終えた式神の回路は閉じる。器は自然とほどけ、己の意識はあの暗く冷たい影の牢へと強制的に戻されるはずだ。次の瞬間には、再び呼び出されるまでの、あの気が遠くなるような長い静寂の底へと落ちていく。

本来なら、そうなるはずだった。

だが。

 

「……」

 

道満は焼けた地面に立ったまま、細めた目で自分の手を見つめた。

解けない。術の終端は確かに来ている。力の流れも、召喚の回路も、すでにその役目を終えて完全に閉じているのが術師として理解できる。

それなのに、自分はまだ、五感を持ったままこの場所に立ち続けている。

 

違和感はごく小さなものだった。だが、無視できないほどに明確だった。

道満は手を開き、そしてぎゅっと閉じてみる。指は生々しく動く。肉体の輪郭も強固に保たれたままだ。意識が遠のく気配すら、微塵もない。

式神としての現界が、術の終わりを超えてなお、不自然に続いていた。

 

少し離れた場所では、沈黙を保ったまま、こはくが数歩先で静かに佇んでいる。

先ほど、あの熾烈な戦いの最中。

ほんの一度だけ、あの男に肩口へ触れられた。軽く、確かに加減された、あの奇妙な接触。

それを思い出した瞬間、道満の眉間がわずかに寄り、不快そうに歪んだ。

 

「……成程、な」

 

低く、地を這うような声を落とす。

黒く焼けた地をしっかりと踏みしめながら、ゆっくりと時間をかけて、こはくの方へと視線を巡らせた。

 

「術を解いていない、のではないな、貴様」

 

まるで己の脳内に言い聞かせるような、独り言のトーンだった。

 

「召喚の術式そのものは、とっくに終わっている」

 

術師としての超越した感覚が、冷徹にその事実を告げている。召喚術はすでに完全に停止しているのだ。式の持続時間は終了し、呪力の供給も止まっている。

 

それなのに、自分は消えずに立てている。道満は一歩、こはくの方へと足を進めた。

こはくからの反応はない。近づくことを止めようともしない。ただ、あの底の知れない赤い瞳だけが、静かにこちらの動向を見つめている。

 

「……術が終わっているぞ、我が主」

 

声は低く、重い。それはいつもの嫌味な皮肉ではなく、ただ事実を突きつける確認に近かった。

 

「なぜ私は、まだ影の底へ戻らずにここにいる」

 

やはり返事はない。だが、沈黙のまま何でもない顔をして立つその姿そのものが、何よりの答えを雄弁に物語っていた。道満は視線をいっそう鋭く細める。

 

これは術ではない。少なくとも、己がこれまで何百年と研究し、行使してきた陰陽術や召喚術の理では、絶対に説明のつかない現象だった。

主と自分とが、術の回路で繋がっているのではない。意思によって維持されているのでもない。

 

ただ――まだ、こはくのあの異質な力が、道満の内側に生々しく残ってしまっているのだ。

あの緊迫した戦いの中で、触れられた一度。

体内へ乱暴に流し込まれたわけではない。制御を失って暴れさせられたわけでもない。

 

ほんの少し。消えない残り火をそっと移すように、器の底に残されたもの。

ただそれだけの、微量な「残熱」があるというだけで、式神の器がほどけることを拒み、現界を維持し続けている。道満はその仕組みを完全に理解し、長く、重苦しい息を吐き出した。

 

「……そういうことか。つくづく、ふざけた在り方だ」

 

声が、深い澱のように低く沈み込む。

術式による拘束ではない。魔力の供給でもない。現界の維持という意思すら介していない。

 

ただ、目の前の主によって、この世界に「まだここに在るもの」として当然のように認識されている。ただそれだけの理由で、死者の魂がこの世に繋ぎ止められ、解けることが許されないのだ。

 

道満はしばらくのあいだ、無言のままその場に立ち尽くしていた。

戦いが終わってもなお続く、この奇妙な現界。解除されるはずの器。戻るはずの意識。

そのどれもが、一向に訪れる気配を見せない。

 

自分は式神という「術の産物」でありながら、今は術ではなく、ただ独立した一つの「存在」としてこの場に置かれてしまっている。その根源的な理を無視された感覚に、道満は初めて、明確な薄気味悪さと戦慄を覚えていた。

 

「……反吐が出るほど、気色の悪い真似をしてくれる」

 

低く吐き捨てる。だが、それは激しく相手を責めるようでいて、どこか核心を責めきれない、複雑に入り混じった声音だった。こはくは相変わらず、何も言わない。

 

乾いた風が、荒涼とした焼け跡を静かに撫でて通り抜けていく。黒い煤の残滓が、風に乗って薄く宙に舞った。

道満はその場で、自分の手のひらをもう一度じっと見下ろした。

指先は、今もなお確かな肉の質感をもって形を保っている。術の繋がりが完全に切れた後の、およそあり得るはずのない、生々しい輪郭。

 

「私は、術によってここに呼ばれているのではないのだな」

 

ぽつりと、静かな言葉を落とす。

 

「ただ……お前の側に置かれている、それだけの理由で。私は影の底に落ちず、まだここに在り続けることができるのか」

 

言葉として明確に形にした瞬間、二人の間に重い沈黙がひとつ落ちた。

道満はそこで初めて、自嘲気味に、ほんのわずかだけ口元を歪めた。

それはいつもの邪悪な笑みにはならない。相手をなじる皮肉の形にも届かない。ただ、己の運命の理不尽さに、心底呆れ果てたような歪みだった。

 

「……成程。道理で、どこまで逃げても逃げ場がないわけだ」

 

小さく、諦めの混じった息を吐く。

あの冷たく寂しい影の牢の中だけではない。こうして術で呼ばれている一時のあいだだけでもない。

術で繋がれているのではなく、一度でも触れられたその時点で、しばらくの間はもう、こはくの認識の側から外れることすら叶わないのだ。

 

その圧倒的な支配の事実に、道満は静かに目を伏せる。

術師として、これほど不快で理不尽なことはなかった。理解もしたくないし、認めたくもない。

だが同時に――あの忌々しい影の牢へ引き戻されるはずの、あの凍てつくような永遠の静寂が、今この瞬間に訪れないということに対して。

 

ほんの、ごくわずかだけ、安堵している弱くて醜い自分自身を、道満は確かに認めてしまっていた。

そして、その安堵が何よりも――プライドの高い陰陽師にとっては、最高に気に食わなかった。

 

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