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陰陽師 道満と清明、再会する

■ 断片:再会、あるいは未完の過去

 

影の境目がほどけていく。

いつものように式としての形を与えられ、いつものように視界が開く。だが、呼ばれた先へと足を踏み入れた瞬間、道満は即座に眉を寄せた。

 

空気が、これまで経験したどの場所とも違っていた。

影の牢の凍てつく静けさでも、いつもの屋敷の騒がしさでも、血生臭い戦場でもない。そこは妙に静かで、あまりにも端正に整いすぎていた。漂う香の気配、耳をかすめる紙の擦れる音、そして何より、その空間の隅々にまで行き届いた見覚えのある整え方。

 

そこは、紛れもなく一人の卓越した術師の仕事場だった。

道満は一歩も動かぬまま、警戒と不審を孕んだ視線だけを巡らせる。

置かれた卓、几帳面に積まれた書物、寸分の狂いもなく整えられた札。そこにあるのは、一切の癖を排した、静謐そのものの静けさだった。そして、その正面に座す影に視線が止まった瞬間――道満の息が、完全に凍りついた。

 

見間違えるはずがなかった。

忘れたつもりで、その実、一刻たりとも忘れきれていなかった顔。

 

安倍清明。

 

生前と何一つ変わらぬ容貌で、男はそこに佇んでいた。

道満の喉が、一度だけひくりと小さく動く。声を出そうにも、言葉が喉の奥にへばりついて音にならない。


あまりの衝撃に立ち尽くす道満に対し、沈黙の中で清明がわずかに目を見開いた。ほんの一拍。それだけの動揺を視線に見せ、すぐに静かに息をつく。

それから、まるで昨日の続きであるかのように、あまりにも自然にその唇が開かれた。

 

「……道満」

 

その響きに、道満の指先がぴくりと拒絶するように動く。

呼ばれた。その名で。あまりにもいつも通りに、責めるでもなく、咎めるでもなく、これまでの顛末を問い質すでもなく。ただ、遠い昔と同じ調子で。

 

「久しいな」

 

穏やかな声だった。

だからこそ、道満は答えを返せなかった。あまりにも無防備で濁りのない響きを前に、差し出すべき言葉が何一つ見つからない。清明は道満を真っ直ぐに見つめていた。生前と何も変わらぬ、澄んだ瞳で。そこには恨みも怒りも、あるいはかつての敵を裁こうとする気配すらもない。ただ本当に、久しぶりに旧友の顔を見たかのような、純粋な眼差しだった。

 

それが道満の喉をひどく重く、苦しくさせる。

何か言うべきだと、頭の片隅では分かっているのだ。いつも通りの皮肉や、痛烈な嘲り、あるいは冷酷な拒絶。牙を剥く手段ならいくらでも知っているはずなのに、どうしても言葉が出ない。

 

少し離れた場所では、こはくが静かに立っていた。何も言わず、ただ二人の間に流れる奇妙な熱を帯びた沈黙を見守っている。清明はそのこはくを一瞥し、それから再び道満へと視線を戻した。

 

「元気そうで何よりだ」

 

あまりにも無邪気に、あまりにも自然に放たれたその言葉に、道満の眉が僅かに歪んだ。

胸の奥を激しい焦燥が駆け抜ける。何を言っているのだ、こいつは。何をそんな、すべてを許したかのような顔で。よりによって今の自分に向かって、「元気そうで何より」などと、どうしてそんな言葉を向けられるのか。

 

「……随分と」

 

ようやく絞り出した声は、思った以上に掠れ、低く、うまく響かなかった。

 

「随分と、呑気なものだな」

 

かろうじて形になったのは、ひどく弱々しく、己を鼓舞するためだけの空虚な皮肉だった。しかし、清明はそれを受け流すように、ほんの少しだけ口元を綻ばせた。

 

「お前がその顔をするなら、変わっていないな」

 

静かな聲音が、道満の胸に突き刺さる。

変わっていないのは、どちらだ。そんな問いが頭をよぎる。切れたはずだった。とうに終えたはずだった。全てはあの生前の日々に置いてきた過去であり、自分を縛るものなど何もないと思っていた。だが、それは自分だけの思い込みにすぎず、目の前の男は何でもない顔をして「繋がりはまだここにある」と示してくる。

 

清明は、あの時のままだ。

真っ直ぐで、勝手で、何ひとつ捻じ曲がらず、そのままの純粋さを保ってここまで来てしまった。そんな顔をしている。


それに対して自分はどうか。勝手に噛みつき、勝手に離れ、勝手に絆を断ち切った。その結果として今の歪んだ自分がいるのだと、無言のまま突きつけられているようで、ひどく居心地が悪かった。

 

「道満」

 

もう一度、清明がその名を呼ぶ。昔と同じ、柔らかい響きで。

それだけで、道満は胸の奥に眠っていた古い傷痕が、鈍い音を立てて軋むのを感じた。忘れたつもりだった。とうに遠い境界の向こうへ消えたと思っていた。だが、ただ目の前に立たれ、名前を呼ばれるだけで、片づいたはずの過去が何ひとつ終わってなどいなかったのだと嫌というほど思い知らされる。

 

こはくは何も言わない。ただ、静かに二人を見つめ続けている。

 

その無言の視線に触れたとき、道満はようやく理解した。これは戦でも、召喚の用向きでもない。こはくは、ただ自分たちを会わせたのだ。説明も理由もいらない、ただ一度引き合わせるだけで十分だと、この風変わりな主はすべてを見抜いていたのだと。


 

■ 断片:独占、あるいは現在地

 

張り詰めていた空気は、清明が小さく息を吐き出したことで、妙にあっさりと緩んでいった。

 

道満の内側だけがドロドロとした重い感情に取り残されたまま、周囲の空気だけが、するりといつもの平穏な温度へと戻っていく。清明はくるりとこはくの方へ向き直った。

 

「しかし、驚いた」

 

穏やかな声でそう言ってこはくを見つめる様子は、先ほどの劇的な再会が、まるでひとまず済ませておくべき形式的な挨拶でしかなかったかのようだ。

 

「あなたが道満を使うとは思わなかった」

 

こはくは何も答えない。だが、清明は最初から返事など期待していないかのように、一人で納得したように頷く。

 

「成程、相性は悪くないか」

 

卓の札に視線を落とし、それからこはくの袖口へと目を向ける。その表情に、少しだけ楽しげな色が混じった。

 

「癖は強いが、手は早いだろう」

 

品評するような物言いに、道満の眉がぴくりと不快げに動く。

 

「余計なことを言うな」

 

だが清明はそんな制止など気にも留めず、こくはくの袖に触れかけていた札を指先でひょいと持ち上げた。

 

「術式の組み方も悪くない。面白い組み方をする」

 

その姿は、呆れるほどに昔のままだった。相手が言葉を返さずとも一人で話を転がし、勝手に見て、勝手に判断して、勝手に納得していく。清明は札を元の位置に戻すと、今度はこはくの顔を覗き込むように、少しだけ身を屈めた。

 

「道満の扱いは上手いな」

 

その声音には、明確な、そして本気の感心が混じっていた。

こはくは黙ったまま、真っ直ぐに清明を見つめ返している。清明はそれを受けて、さらに嬉しそうに微笑んだ。

 

「だろうな。でなければこんな風にはならん」

 

そのやり取りを見つめる道満の、こめかみの辺りが引きつる。

胸の奥を、えぐるようなざらつきが襲っていた。何だ、その妙に馴染んだ空気は。何だ、その言葉を介さずとも勝手に会話が成立しているかのような距離感は。

 

何より――清明が、楽しそうだった。

あの、何でも面白がる時の生前と変わらぬ顔で、こはくを前にして静かに機嫌よく喋っている。その光景が、道満にはひどく面白くなかった。お前が勝手にこちらの領域に踏み込んでくるな、という傲慢な独占欲が、急速に鎌をもたげる。

 

清明は昔からそうだった。人間であろうと異形であろうと、境目なく同じ顔をして懐に近づいていく。こちらが勝手に身構え、境界線を引いているものへ、何の躊躇もなく手を伸ばして奪っていくのだ。そしてその無邪気な手が、今、自分の主へと向いている。

 

道満は眉間に深い皺を寄せたまま、数歩分の距離を一息で詰めた。

考えるよりも先に身体が動いていた。そのまま、こはくの華奢な腕を容赦なく掴む。ぐい、と強引に自分の方へと引き寄せた。

こはくの身体がわずかに傾いたが、拒むような抵抗は一切ない。道満はこはくを完全に自分の側へと引き込み、背後に隠すようにして清明を鋭く睨み据えた。

 

「馴れ馴れしい」

 

低く吐き捨てる声には、明確な威嚇が混じっていた。掴んだ腕を頑なに離そうとしない道満に対し、清明は驚いたようにパチパチと目を瞬かせる。道満は清明を圧するように、言葉を重ねた。

 

「私の主だぞ」

 

一拍の沈黙。

清明は、その言葉を聞いてきょとんとした顔を浮かべた。道満がかつてのライバルを前にして、これほど明確に別の存在への帰属と執着を示したことが意外だったのだろう。だが、清明はすぐにあまりにも素直に、深く頷いた。

 

「それは悪かった」

 

あっさりとした、あまりにも拍子抜けするほどの謝罪だった。道満のほうが完全に肩透かしを食らい、怒りの持って行き場をなくす。清明は肩の力を抜いたまま、道満に腕を掴まれたままのこはくと、それを絶対に離そうとしない道満の姿を交互に見つめ、それから本当に嬉しそうに、少しだけ目を細めた。

 

「いい主を見つけて良かったな」

 

その言い方が、どこまでも、あまりにも昔のままだった。

昔からそうだったのだ。道満がどれだけ敵意を剥き出しにして噛みついても、清明はいつもこんな顔をした。少しだけ笑って、すべての毒を受け流し、それでいて妙に核心を突いた真っ直ぐな言葉だけを返してくる。

道満の眉間が、さらに深く寄せられた。

 

「……お前に心配される筋合いはない」

 

それは、ほとんど子どもの拒絶のような、ただの条件反射の言葉だった。清明はその呪詛にも似た言葉を受け止め、ほんの少しだけ慈しむように目を細める。

 

「そうか」

 

それだけ言って、怒りもせず、笑いもせず、ただ静かに頷いた。その完璧な引き際すらも、かつての日々と何も変わらない。

 

道満はこはくの腕を掴んだまま、内側から湧き上がる言いようのない居心地の悪さに身を焦がしていた。

生前と同じなのだ。噛みついて、返されて、思ったようには刃が刺さらず、しかし妙なところだけがこちらの心の奥底へと確実に届いてしまう。

 

何一つ、変わっていない。

清明も。そして、自分自身も。

すべてが変わってしまったはずの今の世界で、皮肉なことに、この男と対峙する時だけは、ひどく昔のままの自分でいられてしまう。


道満は掴んだこはくの腕に宿る確かな温度を感じながら、過去の残滓を睨みつけるように、ただ静かに視線を尖らせていた。

 

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