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陰陽師 清明の死後、地獄にて使われる

地獄の底は、暗いばかりではない。

燃え続ける業火の底、罪人の呻きと獄卒の足音が絶えぬ深層にも、ひどく静かな場所がある。叫びの届かぬ裂け目、裁きと裁きのあわい。亡者の濁りが流れ込み、瘴気となって澱むその境に、白く薄い光が常に落ちていた。


清明はそこに立っている。


鬼のように咎人を裂くでもなく、槍を振るい追い立てるでもない。

ただ一人、境に立ち、流れ込もうとする穢れを押し留めている。足元に描かれた巨大な陣は絶えず淡く明滅し、幾重にも重なった清浄の術式が、地獄に似つかわしくないほど澄んだ光を保っていた。近づく亡者は呻き、怨嗟は焼けるように霧散し、形を持った悪念は陣の外縁で砕けて消える。


獄卒、と呼ばれてはいる。

だが役目は監視でも拷問でもない。

地獄の底でなお腐り切らぬものを、境の内へ入れぬための堰だ。清明は罰するのではなく、流れを止めている。


閻魔にその名が通ったのは、生前の功績ゆえだけではない。

人の理にありながら、人ならざるものの理を知り、それを借り受け、使い、それでもなお術を濁らせなかった。死と共に契約は解け、四神もまた清明の手を離れたが、それでもなお、その魂は清く澄んでいた。死後、その才を地獄へ置くことに異を唱えるものはいなかった。むしろ、置かねばならなかった。


清明は淡い光の中に立ち、静かに亡者を見ている。

逃げようとするもの、呪おうとするもの、なお己を正しいと信じるもの。そうしたものを一つずつ見、必要なだけ術を流し、押し留める。淡々と、ただ絶えず。


その日、陣の外に一つ、見慣れぬ静けさが立った。


「……珍しいな」


清明は振り返らぬまま言った。

地獄の瘴気に混じるにはあまりに静かな気配。濁りの中にあってなお輪郭を崩さぬ白。


こはくがいた。


人の姿を取っている。白い衣に黒い帯、音もなく立つその姿は、地獄の底にあってなお異質だった。瘴気は触れず、怨嗟も近寄らない。亡者ですら、本能的に視線を逸らす。


清明はようやく視線だけを向ける。


生前には知らぬ気配だった。

だが、知らぬはずなのに、その静けさには覚えがあった。己の術の奥に、かつて幾度も触れていたものに似ている。借り受けていた力の、そのさらに奥。届いていたはずの手の、ずっと先にあったもの。


清明はしばし白を見つめ、やがて静かに目を細めた。


「……なるほど」


声は低く落ちる。

得心だけがそこにあった。


「あなたか」


こはくは何も言わない。

ただそこにいる。


四神は死と共に離れた。

契約は生者の理に結ばれる。死ねば解ける。それだけのことだ。清明に未練はなかった。借り受けた力は返り、役目は終わったのだと、それで納得していた。


だが、今ようやく腑に落ちる。


あれほどのものが、人の一陰陽師に従っていたわけではない。

従っていたのではなく、流れていただけだ。気まぐれに手を貸し、時が来れば去る。その先にいるものが、今、目の前に立っている。


「四神の主か」


問いではなく、確認だった。


こはくは答えない。

否定もしない。


それで十分だった。


清明は小さく息を吐き、再び陣へ視線を戻す。

亡者の一群が術式へ押し寄せ、触れた端から焼けるように崩れていく。袖の内で印を切り、陣の一角へ術を流す。白い光が一段強くなり、濁流が押し返される。


「……道満のことだろう」


問いではなく、これもまた確認に近い声音だった。

こはくは沈黙したまま、否定しない。

清明はわずかに苦く笑う。


「生前から、あれは真面目すぎた」

 

声は淡い。嘲りではなく、ただ少し呆れている。

 

「負ける理由を探して、勝つ理屈を探して、最後には自分で道を踏み外す」


陣の外で、亡者が一体、喉を裂くような声を上げる。清明は視線も向けず、指先だけで術を流した。淡い光が走り、声は途切れる。


「張り合う相手と思われていたらしいが、そういうつもりはなかった」

 

清明の声に熱はない。

 

「競っていたわけじゃない。あれはただ、勝ちたかっただけだ」


こはくは黙って聞いている。

聞いているのかどうかも、見た目には分からない。ただ去らないだけで、清明はそれを聞いていると見なした。


「強くなりたかったんじゃない。負けたくなかったんだろう」

 

清明は静かに言う。

 

「だから、強さの外に手を伸ばした」


言葉は責めるでもなく、断じるでもない。

ただ、生前から見ていたものを、そのまま口にしているだけだった。


「……あなたを選んだのは、分からなくもない」


ようやく、清明はこはくを見る。

白い沈黙。勝敗の外にいるもの。人の理の外にあるもの。


「だが、あれは少し深く沈みすぎた」


声は穏やかだった。

憐れみではない。悔恨でもない。ただ、長く知る者としての静かな案じ方だった。


陣の向こうで亡者が蠢く。

光は揺れず、清明はその場を動かない。


「使うなら構わない」

 

清明は再び前を向いた。

 

「あれは不器用だ。真っ直ぐに沈む」


こはくは何も答えない。

ただしばらくそこに立ち、やがて音もなく去っていく。


白が地獄の瘴気に溶けても、清明は振り返らない。

足元の陣はなお淡く光り、亡者の濁流を静かに押し留め続けていた。

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