第9話:現場検証
王都に入った瞬間、喉の奥にねっとりと絡みつくような不快感があった。
空気が淀んでる。
100人がかりでこねくり回し、結局形にできなかった祈りの残骸が、灰色の霧となって街を覆っていた。
「……。醜悪ですね」
俺の呟きに、隣を歩くヴェラが静かに頷いた。
彼女は鼻をハンカチで押さえている。
魔王軍の幹部として戦場を渡り歩いてきた彼女ですら、耐えがたいものがあるらしい。
街の人々が、俺たちに視線を向けてくる。
助けを求める目だ。
呪いにやられた者、体の痛みを抱えた者、腐った食料を前に途方に暮れている者。
俺は、その視線を正面から受け止めて、真っ直ぐ歩いた。
見えていないわけではない。
ただ、俺はもう神父ではない。
大聖堂の門を潜る。
そこは、もはや聖域ではなかった。
床はどす黒く変色し、壁に飾られた聖画は、内側から滲み出た脂のような汚れで塗り潰されている。
かつて信徒たちが跪いていた石畳は、腐食してところどころ陥没していた。
中央では、100人の神官たちが折り重なるように倒れ、その中心で「それ」が浮いていた。
第一王子だったものだ。
肉体は不自然に膨張し、口ではない場所から、絶え間なく「声」が漏れ出している。
「アルヴィン!戻ったか、アルヴィン!!」
祭壇の影から、大司教ボナパルトが這い出してきた。
涙と鼻水で顔を汚し、俺の足元に縋り付こうとする。
俺は、その手が触れる前に一歩下がった。
「……下がってください。服が汚れる」
「何でもする! 望みは何だ、金か、地位か!? この呪いを、このバケモノを消してくれ!」
俺は大司教を無視し、浮遊する異物へ視線を向けた。
その傍らで、一人の若い神官が、狂ったように空中に数式を書き殴っていた。
国中の期待を背負った、次期大司教候補のジュリアンだ。
目の下に濃い隈を浮かべ、指先から血が滲んでいる。
おそらく昨夜からずっと、ここで計算し続けているのだろう。
「……ダメだ、計算が合わない。この魔力干渉を相殺するには、さらに300人の回復魔法を集めて王都の結界魔法をすべて反転させて……」
ジュリアンの指先から放たれる複雑な光の呪文。
俺は、その横を通り過ぎるついでに、呪文を遮った。
「あ……! 私の、私の計算が!!」
「……五月蝿い。その余計な呪文のせいで全体がより濁る」
「何だと……!? 君に何がわかる、これは王立魔導院が導き出した最新の理論……」
「……理論なんて知らない。ただ、醜いと言っているんだ」
ジュリアンが絶句した。
俺は懐から、温泉宿で買い取った短剣を取り出した。
行商人がゴミとして捨て、俺が「アーメン」一言で磨き上げた銀色の刃。
果物の皮を剥くために買ったはずの刃物が、今日は別の用途で役に立つことになった。
王子の前で、俺は短く唱えた。
「アーメン」
爆発も、閃光もなかった。
ただ、王子の周囲に纏わりついていた「光のヘドロ」が、音もなく剥がれ落ちた。
それは、精密な手術というよりも、からまった紐を解くようなものだった。
光の泥が剥がれるたび、王子の豪華な刺繍が施された衣装が、共に消えた。
大聖堂を照らしていた魔法のランプが、共に消えた。
神の奇跡を謳っていた数々の宝具が、共に石ころへと戻った。
数秒後。
不快な音は消え、王子はただの裸の男として床に転がった。
俺は王子を一瞥して言った。
「……呼吸はしている」
王子は、目を開けたまま瞬き一つしなかった。
大聖堂は、完全な静寂に包まれていた。
魔法の光はすべて失われ、窓から差し込む朝の光だけが、色彩の消えた石造りの部屋を照らしている。
「……確認しました。王都の結界崩壊、この地の魔力は消えました。再建は……不可能です」
ヴェラが静かに報告した。
その声に感情はなかったが、眼鏡の奥の目が、わずかに細くなっていた。
「……あ、ああ……。聖遺物が、魔法の火が……王都の繁栄が……」
大司教が、力なく膝をついた。
魔法の街灯、自動で水を汲む井戸、温度を保つ食料庫。
それらを支えていた魔力は、なくなった。
だが、そんなことはどうでもいい。
「……ヴェラ。茶を」
「はい。準備できております」
ヴェラは、魔法を使わずに火種から沸かしたお湯で、丁寧に茶を淹れた。
俺はそれを一口啜り、ゆっくりと目を閉じた。
……泥の味はしない。
……鉄の臭いもしない。
「……。戻りましたね。ようやく飲める」
「……これくらいで壊れるなら、最初から使わない方がいい」
王都の崩壊も、王子が助かったかどうかも、俺にとっては二の次だ。
ただ、俺の休日を邪魔していたノイズが消えた。
「掃除終了です。帰りましょう、ヴェラ。温泉が冷めます」
「かしこまりました、アルヴィン様」
俺たちは、呆然と立ち尽くす人々を置き去りにして、出口へと歩き出した。
背後でジュリアンが「なぜだ……理論は、間違っていなかったはずだ……」と震える声で呟いていたが、振り返る必要はなかった。
■ ヴェラの観察ログ
• 【状況】:王都における「光のヘドロ」の剥離、および魔力の完全初期化。
• 【評価】:アルヴィン様の「アーメン」は、もはや祈りですらない。対象に付着した不純物を、一瞬で剥ぎ取る「高精度なスクレイパー」です。
• 【結果】:王都は非魔法都市へとダウングレード。魔力に依存していた全ての利便性が、その「剥離」によって失われました。
これにて、茶の香りを濁すノイズは消滅しました。
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