第10話:底辺への帰還
王都の路地裏は、かつてよりも静かで、そして浅ましくなっていた。
乾いた音が響く。
パンの耳が、石畳の上に落ちた音だ。
「よこせッ!」
「離せって言ってんだろ!!」
数人の男たちが、たった一欠片のパンを巡って地面に這いつくばっていた。
泥にまみれ、互いの腕を掴み、爪を立て、獣のように唸り合っている。
かつて彼らが纏っていた装備の残骸が、泥の中でくすんでいた。
黄金色だったはずの鋲が、今はただの錆びた金属だ。
俺は立ち止まった。
その顔に、かつて酒場で語られていた栄光の面影はない。
「……そんなに欲しいなら、モンスターでも狩ってこいよ」
通りすがりの男が、鼻で笑った。
「酒場で散々言ってただろ? レベルがどうとか、スキルがどうとか」
「……うるせぇ」
掠れた声が返る。
「お前こそ会心率が高いとか言ってたじゃねぇか……お前こそ、冒険にいけよ」
「……うるせぇよ」
短く、吐き捨てる。
そして、誰も動かない。
沈黙が落ちた。
風が路地を抜けた。石畳の隙間に積もった埃が、薄く舞い上がる。
誰も、その風から顔を背けなかった。
俺には、その理由がわかる気がした。
背ける気力がないのか、あるいはもう、何も感じなくなったのか。
やがて、一人がぽつりと漏らした。
「……怖ぇんだよ」
誰も否定しなかった。
「あいつがいねぇと……ちょっと傷ついただけで終わるかもしれない。ポーションもねぇ、薬草も……」
薬草は、昨日の十倍の値で取引されていた。
「……死ぬのが、怖ぇ」
その言葉で、全員の手が止まった。
パンの耳が、誰のものでもないまま石畳の上に転がる。
誰も拾わなかった。
もう、それどころではなかった。
「……もう、あっちと変わんねぇじゃねぇか……」
誰かが呟いた。
元の世界。
名もなき、使い潰されるだけの人生。
特別だと思っていた。
選ばれたと思っていた。
だが今、この路地裏で這いつくばっている彼らは、あの頃と何も変わらない。
その空気を切り裂くように、俺の隣からヴェラの声が響いた。
「……やはり王都は品揃えがいいですね。茶葉の種類が豊富です」
俺が露店の棚を眺めながら言うと、男たちが一斉に振り返った。
見慣れた顔だと、わかるだろう。
神父服は脱いだが、この顔は変わらない。
隈も、乾いた目も。
「ええ。ただし”治安”は劣化していますが」
ヴェラが一瞥だけで、路地裏の男たちを評価した。
その声は静かで、感情がなかった。それがかえって、刃のように刺さるのだろう。
空気が張り詰めた。
誰かが立ち上がる。
膝が笑っている。
それでも立つ。
それに続いて、全員がゆっくりと立ち上がった。
手には、木の棒や鍬。
腰に差した剣は、ない。
だが――誰も、踏み込んでこない。
距離だけが、じりじりと詰まる。
ヴェラが一歩前に出た。
書類を脇に抱え、眼鏡の位置を直す。
その動作に、迷いが一切ない。
「警告しておきます。アルヴィン様は現在”休暇中”です。お引き取りを。」
「……どけよ女」
「嫌です。あなた方は”障害物”ですので」
俺は露店の茶葉を手に取り、香りを確かめた。
「……どうしました」
俺は言った。
振り返りもせず。
「俺はモンスターじゃないですよ。……倒しても、何も落としません」
「……ふざけるな!」
一人が前に出た。
「戻れよ、教会に! 今までみたいに祈ってりゃいいんだよ!」
「そうだ……そうすれば全部元に戻る……!」
声が重なる。
だが、力がない。
自分たちでもわかっているのだろう。
戻らないことを。
元に戻らないことを。
俺は茶葉を籠に入れ、少し首を傾げた。
「……もっと早く勇者同士で協力していれば……」
静かな声で、俺は言った。
「今頃、魔王くらいは倒せていたのでは?」
「……何を」
「功績を奪い合って、足を引っ張って、怠けて……」
誰も反論しなかった。
反論する言葉を、誰も持っていなかった。
「……もっと早く、終わっていたでしょうね」
一人が、膝をついた。
音がやけに大きく響いた。
石畳が冷たい。
「……あれが勇者?」
「近づくなよ、巻き込まれるぞ」
街の人が集まってきていた。
それでも、立っていられなかったのだろう。
「……なぁ」
震える声。
「……ここにいれば」
喉が詰まる。続きが出てこない。
それでも、絞り出すように言った。
「……死なないんだろ……?」
「……頼むよ」
1人の男が土下座した。
「……で?」
完全な沈黙。
俺には、その言葉の意味がわかった。
強さへの憧れでも、冒険への渇望でもない。
ただ、死にたくない。
それだけだった。
俺は少し考えた。
茶葉の入った籠を持ち直しながら。
「……保証はしません」
「ですが、俺のもと働くなら。……死ににくくはなるかもしれません」
顔が上がった。
「……働く?」
「ええ」
「死を遠ざけたいなら、働いてください」
沈黙。
ヴェラが静かに補足した。
手帳を開き、ペンを走らせながら。
「安心してください。労働量に応じて”生存確率”は上昇します。逆に、怠慢は即時リスクに直結しますが」
誰も笑わなかった。
「……なんでもする」
誰かが言った。
「……頼む……」
声が重なる。
プライドも、特権意識も、とっくに路地裏に捨ててきた人間の声だった。
俺は頷いた。
「では、その言葉。忘れないでください」
俺は足元に視線を落とした。
さっきまで奪い合っていたパンの耳。
それを、顎でさす。
「……それ、いらないんですか?」
誰も動かなかった。
「……では、俺が」
軽く口に入れて、噛んだ。
「不味いですね」
そのまま吐き捨てた。
温泉宿のある山の奥地。
ガン、ガン、と乾いた音が響く。
かつて勇者と呼ばれた者たちが、ツルハシを振るっていた。
汗にまみれ、泥にまみれ、無言で。
昼の日差しが岩肌に反射して、目を焼く。
誰も文句を言わない。
俺は少し離れた岩に腰を下ろして、それを眺めていた。
「そこ、手が止まっています」
ヴェラの声が飛ぶ。
「……は?」
「作業効率が規定値を下回っています。……死にたくないのでしょう?でしたら、手を止めないことです」
「なっ……!」
「もしくは退場しますか?きっとアルヴィン様はそれでもいいとおっしゃいます。」
誰も逆らえない。
再び、ツルハシが振り下ろされる。
その中の一人が、ふと手を止めた。
「……俺さ」
誰も見ない。
「魔王倒すために来たんだよな……」
別の男が吐き捨てた。
「…違う。勝手に呼ばれただけだ。それだけだ……」
風が山を抜ける。
汗が顎から滴る。
やがて、その男は何も言わずに、再びツルハシを振り下ろした。
ガン、と。
俺はその音を聞きながら、何も言わなかった。
言う必要がなかった。
温泉宿。
俺は湯気の立つ茶を一口啜った。
今日の茶は、澄んでいる。
「……静かですね」
「ええ。無駄なノイズが排除されましたので」
ヴェラは遠くの音に耳を傾けた。規則的な、岩を砕く音。
「規則的で、良い音です。……あの方々も、ようやく”用途”を得ましたわね」
「……ええ。楽しみです」
俺は、もう一口啜った。
茶の味は、静かだった。
「……そのスキル、ようやく役に立ってますね」
■ ヴェラの観察ログ
• 【状況】:路地裏に滞留していた不甲斐ない肉塊(元勇者群)の再資源化を開始。
• 【分析】:プライドを完全に喪失した個体は、生存のために「外部からの命令」を渇望するようになります。
• 【評価】:彼らを人間としてではなく、温泉地維持のための「資材」として再定義しました。
これより、「資材稼働テスト」へと移行します。
アルヴィン様。あなたの静かな生活を守るため、彼らには徹底的に働いていただきましょう。
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