第11話:残り湯とプライドの味
山あいに、冷たい朝靄が立ち込めている。
かつてなら、この時間は第一教会の前で、蘇生を待つ不快な肉塊の山を前に、祈りを捧げていただろう。
耳を劈く絶叫、汚物の臭い、そして「早くしろ」と急かす傲慢な声。
それが20年間、俺の「日常」という名の地獄だった。
だが今、俺の鼓膜を震わせるのは、源泉が湧き出る音と、小鳥のさえずりだけだ。
縁側に出ると、冷たい空気が肺の奥まで入り込む。
薄い霧が、山の稜線を白く縁取っていた。
風が木々を揺らし、茶の湯気がゆっくりと流れていく。
「……静かだ」
茶を啜る。
温かい液体が喉を通り、胃がそこにあることを教えてくれる。
20年。俺はこの静寂を維持するために、あんなドブ川のような場所で、神父という名の部品をやっていたらしい。
実に、馬鹿げた人生だった。
「アルヴィン様。本日の『資材』の稼働状況です」
隣に控えるヴェラが、手元の水晶板を指先で弾いた。
「……手短に。ノイズは不快だ」
「はい。元勇者リアンを含む計12名。数名に効率低下が見られますが――問題ありません。間もなく『調整』が入りますので」
視線を崖下へ向ける。
ガツン、ガツン、と。
岩を打つ、乾いた金属音が響いてくる。
かつてなら苛立ちを覚えたであろうその雑音も、今の俺にとっては、自分が「あちら側」にいないことを確認するための心地よいBGMに過ぎない。
泥と汗に塗れた「資材」たちが、温泉の配管を通すために岩盤を砕いている。
彼らが手にしているのは、かつての『断罪の聖剣』。
魔王軍を葬ったはずの至宝は、今や先端を潰され、岩を穿つためだけの無様な杭へと成り果てていた。
叩くたびに黄金の装飾が剥げ、価値が削れ、ただの鉄の棒に戻っていく。
持ち主と同じ、当然の末路だ。
その中に、リアンがいる。
そして、その足元には、もう一人の資材が転がっていた。
……カイル。
かつてリアンが弟のように可愛がっていた少年。
その脚は落石でひどく潰れ、化膿し、風に乗って鼻を突く腐臭をこちらまで届けてくる。
放置すれば、今夜には終わるだろう。
俺にはわかる。何万回もその「終わる瞬間」を見てきたからだ。
「……リアンさん……っ」
カイルが、泥の中で這っていた。
機能しない脚を引きずり、それでも「自分はまだ勇者だ」と言わんばかりに、震える腕でリアンの裾を掴む。
「俺……勇者、なんで……っ、まだ、戦える……っ。リアンさんなら……助けてくれますよね……っ」
縋る声。依存。
自分が動けないことを、他人の責任にすり替える。
俺が一番耳にしてきた、反吐が出るほど聞き飽きた声だ。
その時。
崖の上からヴェラが木樽を傾けた。
俺が先ほど使い終わった、残り湯が溝へ流れ落ちる。
「お裾分けです。アルヴィン様の残り湯ですよ」
それだけで、十分だった。
空気が崩壊する。
資材たちが、理性を手放した獣のような咆哮を上げて溝へ殺到する。
それは水ではない。
アルヴィンという「システム」の恩恵を失った彼らにとって、唯一の「救済」であり「生存」そのものだ。
リアンも動く。
だが、その進路をカイルが塞いでいた。
「リアンさん……っ、先に……っ、俺、もう……っ」
溝までは、あと数歩。
リアンの身体はまだ動き、時間もわずかに残っている。
カイルを助けてからでも、間に合うかもしれない。
人間としての誇りを守りながら、生存を掴み取る。
そんな「選択可能な状況」が、そこにはあった。
「……っ」
リアンが止まる。
視線が揺れ、呼吸が乱れる。
カイルと誓い合った理想、民衆からの歓声、綺麗だった頃の自分。
そんなものが、一瞬だけ脳裏を掠めたのだろう。
だが。
「……どけ。今は、作業中だ」
(ここで止まれば、俺も終わる。生き残る方が、優先だ)
リアンの口から出たのは、枯れ果てた、拒絶の言葉だった。
そこには謝罪も、葛藤もない。
次の瞬間。
リアンは、自分の意志でカイルの潰れた脚を力任せに踏み抜いた。
「ぎ、あああああああああああああああッ!!」
骨が砕ける、鈍い音。
カイルの絶叫が山あいに響き渡る。
リアンは止まらない。
叫ぶ少年を泥の中に押し退け、溝に顔を突っ込んだ。
泥と混ざった、生温かい残り湯。
俺の垢と汗が混じったはずの廃棄物を、彼は夢中で啜り始める。
「……っ……うまい……」
一口ごとに、身体が繋がっていく。
折れた指、裂けた筋肉、壊れた神経。
俺の術式が彼の肉体を無理やり「修理」していく。
その焼けるような痒みすら、彼は悦楽として受け入れていた。
背後で、カイルが泣いている。
「なんで……っ、リアンさん……っ」
聞こえているはずだ。
だが、リアンは振り返らない。
振り返らないと決めて、飲み続けている。
一度だけ。
その喉が詰まり、リアンが咳き込んだ。
その時、彼の目から落ちた何かが、泥に混じって消えた。
だが、それも一瞬。
彼はすぐに啜ることを再開した。
もう、後戻りはできない。
彼は、自らの手で「人間」を辞める道を選び、それに適応したのだ。
崖の上。
「アルヴィン様。資材『リアン』。仲間の排除による生存確保。……実に、熟成が進んでいますわ」
ヴェラの声には、隠しきれない愉悦が混じっていた。
「……そう」
俺は空になった茶碗を、静かに置いた。
崖下の絶叫も、ヴェラの報告も、今の俺にとってはただの「処理済みタスク」でしかない。
20年間、彼らのために流してきた俺の血と時間に比べれば、この程度の光景、安いものだ。
「明日のシフト、一名分補充を」
「承知いたしました。カイルは夜のうちに『清掃』を済ませておきますわ」
頷き、椅子から立ち上がる。
遠くで響くカイルの泣き声が、わずかに耳に残る。
……ほんの一瞬だけ。
心の中に、泥のような何かが沈んだ気がした。
それが何なのか、今の俺にはもうわからない。
「……ヴェラ。音を遮断してください。茶の香りが、濁る」
「はい、アルヴィン様」
ノイズは消え、静寂が戻った。
誰の責任も負わず、誰の声も聞かなくていい、完全な休日。
「……これでいい」
俺は、一度も振り返ることなく、暗い寝室へと戻っていった。
■ ヴェラの観察ログ
• 【対象】:元勇者リアン
• 【肉体】:残り湯により強制修復。作業効率142%へ上昇。
• 【精神】:不可逆の変質を確認。
【特記事項】:
対象は、仲間の排除という非道な選択を、自ら「作業」と定義することで正当化しました。
生存本能の完全な優位。
理想的な労働体へと近づいています。
……ですが。
残り湯を啜る最中、一度だけ「涙」の分泌を検出。
かつての栄光、あるいは良心の残滓。
アルヴィン様。
彼は壊れながら、まだ泣いています。
……ああ。だからこそ、この「資材」は美しい。
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