表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/22

第11話:残り湯とプライドの味


 山あいに、冷たい朝靄が立ち込めている。

 かつてなら、この時間は第一教会の前で、蘇生を待つ不快な肉塊の山を前に、祈りを捧げていただろう。


 耳をつんざく絶叫、汚物の臭い、そして「早くしろ」と急かす傲慢な声。

 それが20年間、俺の「日常」という名の地獄だった。

 だが今、俺の鼓膜を震わせるのは、源泉が湧き出る音と、小鳥のさえずりだけだ。

 縁側に出ると、冷たい空気が肺の奥まで入り込む。

 薄い霧が、山の稜線を白く縁取っていた。

 風が木々を揺らし、茶の湯気がゆっくりと流れていく。


「……静かだ」


 茶を啜る。

 温かい液体が喉を通り、胃がそこにあることを教えてくれる。

 20年。俺はこの静寂を維持するために、あんなドブ川のような場所で、神父という名の部品をやっていたらしい。

 実に、馬鹿げた人生だった。


「アルヴィン様。本日の『資材』の稼働状況です」


 隣に控えるヴェラが、手元の水晶板を指先で弾いた。


「……手短に。ノイズは不快だ」


「はい。元勇者リアンを含む計12名。数名に効率低下が見られますが――問題ありません。間もなく『調整』が入りますので」


 視線を崖下へ向ける。

 ガツン、ガツン、と。

 岩を打つ、乾いた金属音が響いてくる。

 かつてなら苛立ちを覚えたであろうその雑音も、今の俺にとっては、自分が「あちら側」にいないことを確認するための心地よいBGMに過ぎない。

 泥と汗に塗れた「資材」たちが、温泉の配管を通すために岩盤を砕いている。

 彼らが手にしているのは、かつての『断罪の聖剣』。

 魔王軍を葬ったはずの至宝は、今や先端を潰され、岩を穿つためだけの無様な杭へと成り果てていた。

 叩くたびに黄金の装飾が剥げ、価値が削れ、ただの鉄の棒に戻っていく。

 持ち主と同じ、当然の末路だ。

 その中に、リアンがいる。

 そして、その足元には、もう一人の資材が転がっていた。

 ……カイル。

 かつてリアンが弟のように可愛がっていた少年。

 その脚は落石でひどく潰れ、化膿し、風に乗って鼻を突く腐臭をこちらまで届けてくる。

 放置すれば、今夜には終わるだろう。

 俺にはわかる。何万回もその「終わる瞬間」を見てきたからだ。


「……リアンさん……っ」


 カイルが、泥の中で這っていた。

 機能しない脚を引きずり、それでも「自分はまだ勇者だ」と言わんばかりに、震える腕でリアンの裾を掴む。


「俺……勇者、なんで……っ、まだ、戦える……っ。リアンさんなら……助けてくれますよね……っ」


 縋る声。依存。

 自分が動けないことを、他人の責任にすり替える。

 俺が一番耳にしてきた、反吐が出るほど聞き飽きた声だ。

 その時。

 崖の上からヴェラが木樽を傾けた。

 俺が先ほど使い終わった、残り湯が溝へ流れ落ちる。


「お裾分けです。アルヴィン様の残り湯ですよ」

 それだけで、十分だった。


 空気が崩壊する。

 資材たちが、理性を手放した獣のような咆哮を上げて溝へ殺到する。

 それは水ではない。

 アルヴィンという「システム」の恩恵を失った彼らにとって、唯一の「救済」であり「生存」そのものだ。

 リアンも動く。

 だが、その進路をカイルが塞いでいた。


「リアンさん……っ、先に……っ、俺、もう……っ」


 溝までは、あと数歩。

 リアンの身体はまだ動き、時間もわずかに残っている。

 カイルを助けてからでも、間に合うかもしれない。

 人間としての誇りを守りながら、生存を掴み取る。

 そんな「選択可能な状況」が、そこにはあった。


「……っ」


 リアンが止まる。

 視線が揺れ、呼吸が乱れる。

 カイルと誓い合った理想、民衆からの歓声、綺麗だった頃の自分。

 そんなものが、一瞬だけ脳裏を掠めたのだろう。

 だが。


「……どけ。今は、作業中だ」

 (ここで止まれば、俺も終わる。生き残る方が、優先だ)


 リアンの口から出たのは、枯れ果てた、拒絶の言葉だった。

 そこには謝罪も、葛藤もない。

 次の瞬間。

 リアンは、自分の意志でカイルの潰れた脚を力任せに踏み抜いた。


「ぎ、あああああああああああああああッ!!」


 骨が砕ける、鈍い音。

 カイルの絶叫が山あいに響き渡る。

 リアンは止まらない。

 叫ぶ少年を泥の中に押し退け、溝に顔を突っ込んだ。

 泥と混ざった、生温かい残り湯。

 俺の垢と汗が混じったはずの廃棄物を、彼は夢中で啜り始める。


「……っ……うまい……」


 一口ごとに、身体が繋がっていく。

 折れた指、裂けた筋肉、壊れた神経。

 俺の術式が彼の肉体を無理やり「修理」していく。

 その焼けるような痒みすら、彼は悦楽として受け入れていた。

 背後で、カイルが泣いている。


「なんで……っ、リアンさん……っ」


 聞こえているはずだ。

 だが、リアンは振り返らない。

 振り返らないと決めて、飲み続けている。

 一度だけ。

 その喉が詰まり、リアンが咳き込んだ。

 その時、彼の目から落ちた何かが、泥に混じって消えた。

 だが、それも一瞬。

 彼はすぐに啜ることを再開した。

 もう、後戻りはできない。

 彼は、自らの手で「人間」を辞める道を選び、それに適応したのだ。

 崖の上。


「アルヴィン様。資材『リアン』。仲間の排除による生存確保。……実に、熟成が進んでいますわ」


 ヴェラの声には、隠しきれない愉悦が混じっていた。


「……そう」


 俺は空になった茶碗を、静かに置いた。

 崖下の絶叫も、ヴェラの報告も、今の俺にとってはただの「処理済みタスク」でしかない。

 20年間、彼らのために流してきた俺の血と時間に比べれば、この程度の光景、安いものだ。


「明日のシフト、一名分補充を」


「承知いたしました。カイルは夜のうちに『清掃』を済ませておきますわ」


 頷き、椅子から立ち上がる。

 遠くで響くカイルの泣き声が、わずかに耳に残る。

 

 ……ほんの一瞬だけ。

 心の中に、泥のような何かが沈んだ気がした。

 それが何なのか、今の俺にはもうわからない。


「……ヴェラ。音を遮断してください。茶の香りが、濁る」


「はい、アルヴィン様」


 ノイズは消え、静寂が戻った。

 誰の責任も負わず、誰の声も聞かなくていい、完全な休日。


「……これでいい」


 俺は、一度も振り返ることなく、暗い寝室へと戻っていった。



■ ヴェラの観察ログ

• 【対象】:元勇者リアン

• 【肉体】:残り湯により強制修復。作業効率142%へ上昇。

• 【精神】:不可逆の変質を確認。

【特記事項】:

 対象は、仲間の排除という非道な選択を、自ら「作業」と定義することで正当化しました。

 生存本能の完全な優位。

 理想的な労働体へと近づいています。

 ……ですが。

 残り湯を啜る最中、一度だけ「涙」の分泌を検出。

 かつての栄光、あるいは良心の残滓。

 

 アルヴィン様。

 彼は壊れながら、まだ泣いています。

 

 ……ああ。だからこそ、この「資材」は美しい。

 

面白い、続きが気になる、もっと見たい!と思っていただけましたら、ぜひ【ブックマーク】や下の【☆☆☆☆☆】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ