第12話:祈りなき魔法
お茶を淹れる。
ただそれだけの動作に、これほどまでの集中力を割けるのは、ここが「平和」だからだろう。
王都にいた頃は、茶葉が浸かるのを待つ数分の間に、少なくとも3人は不甲斐ない死体が運ばれてきていた。
今は、鳥のさえずりが途切れることさえ「事件」に思える。
湯気が、朝の光の中でゆっくりと立ち上る。
消えていく。
また立ち上る。
俺はそれを、ただ眺めていた。
これが「時間を持て余す」ということか。
「……アルヴィン様。お茶が入りました。本日は、王都のギルドで最高級とされていた銘柄です」
ヴェラが、静かにカップを置く。
透き通った黄金色の液体。
だが、俺は一口啜る前に、その水面に浮かぶ微かな「違和感」に目を細めた。
「……ヴェラ。王都の方向で、何か始まりましたか」
「ええ。その通りです。……数百キロ先の魔力波を正確に『ノイズ』として聞き分けるとは、相変わらず恐ろしい感覚をお持ちですね」
ヴェラが眼鏡の奥の瞳を微かに細める。
その声には、隠しきれない感嘆が混じっていた。
「大司教が、新任のジュリアンに『大規模浄化儀式』を執り行わせているようです。地位を回復させるための、派手なパフォーマンスでしょう」
俺は窓の外、遠く霞む王都の空を見上げた。
空気が、わずかに震えている。
不快な、高周波の唸り。
大出力の魔法を放った時に出る、特有のノイズだ。
「……無理をする」
俺は茶を一口啜った。
苦みが舌に広がる。
悪くない。
「祈りの仕組みも知らない連中が」
一方、王都の中央広場。
そこは、数分前まで歓喜の渦に包まれていた。
大司教が見守る中、天才ジュリアンが放った浄化魔法は、実に見事なものだった。
一瞬にして厚い雲が晴れ、空に七色の光が踊った。
割れんばかりの歓声。
「奇跡だ」「神の恵みだ」という声が広場を埋め尽くす。
大司教は、特注の「聖金糸」で編まれた純白の法衣を翻し、民衆に手を振った。
「見たか! アルヴィンなどいなくとも、我らには奇跡がある!」
その言葉が、広場の石畳に吸い込まれるより早く。
「……? ジュリアン殿、空が……」
騎士の一人が、震える指で空を指差した。
晴れ渡ったはずの青空が、油を流したようにドロリと黒く変色していく。
パキパキと、大気が凍りつくような不吉な音が響く。
次の瞬間。
ドロリ、とした黒い雨が、降り注いだ。
それは雨というより、粘着質で腐臭を放つ「煤」の塊だった。
「ぎゃああああッ!? 私の、私の法衣がぁ!」
大司教の顔面に、ドブのような黒泥が直撃した。
純白だった聖なる衣は、一瞬で雑巾のような汚濁に染まる。
泥は聖堂の壁を、街の洗濯物を、人々の希望を執拗に塗り潰していく。
ジュリアンは青ざめ、必死に杖を振った。
だが、彼が魔力を注げば注ぐほど、空からはより濃い「黒」が溢れ出した。
「な、なぜだ……! 計算では、完璧なはずだった……!」
温泉宿。
俺は、お茶の表面に落ちた小さな黒い粒を見つめていた。
「……やはり来ましたか」
溜息をつき、そのお茶を庭に捨てる。
俺が祈ることで処理されてきた「魔法の残滓」の総量を、あの連中は想像したこともないだろう。
それを、出力だけ上げて垂れ流した。
「俺の邪魔が、なかなか消えてくれませんね」
「全くです。あの方々の無能さが、アルヴィン様の平穏を侵食するなど」
ヴェラは事務的な足取りで、俺の背後についてくる。
俺は席を立ち、宿の最下層へと足を向けた。
石段を降りるたびに、空気が変わる。
地上の朝の香りが消え、代わりに、魔力で満たされた静かな冷気が満ちてくる。
結界で封じられた薄暗い部屋の扉を開けた。
中央に、魔法の揺り籠がある。
その中で、一人の人影が深く眠っていた。
顔は見えない。
薄い光の膜が、その輪郭を曖昧にしている。
ただ、規則正しい呼吸だけが、この人影がまだ「生きている」ことを示していた。
「……やはり、あなたに頑張ってもらうしかないようですね」
俺は無表情に、眠る影の脈動を指先で確認する。
慈愛ではない。
部品の耐用年数をチェックする、点検作業だ。
ヴェラは扉の傍らに立ち、その様子を静かに見ていた。
「……アルヴィン様。この『器』は、いつ頃から動けるようになりますか」
「さあ。俺の代わりができるようになるまでは、もうしばらくかかる」
俺がゆっくりお茶を飲み、温泉に入れるように。
この「器」に、世界を押しつける。
それだけだ。
扉の外では、王都から逃げてきた人々が、煤まみれの体で門扉に縋り付いていた。
「アルヴィン様、お救いください!」という声が山々に木霊する。
俺はその喧騒を一切無視して、揺り籠の魔力調整に戻った。
「……騒がしい」
「遮音の結界を一段上げておきますわ」
「頼みます。……茶を、もう一杯」
ヴェラが静かに頷いた。
薄暗い部屋に、揺り籠の微かな光だけが揺れている。
眠る影は、何も知らない。
外の声も、自分が何のために作られたかも。
ただ、静かに呼吸を続けていた。
■ ヴェラの観察ログ
【状況】:王都における大規模浄化魔法のバックファイア(魔法残滓の逆流)を確認。
【分析】:ジュリアンという「演算器」は、排気処理のプロセスを完全に無視しました。浄化とは汚れを消すことではなく「移動させること」であり、アルヴィン様はその「移動先」を20年間、ご自身の術式で黙って引き受けておられた。今回の煤は、その20年分の「未処理の残滓」ではなく、たった一回の儀式による排気です。王都が20年間に渡り蓄積してきた汚れの総量を想像すれば——今後、何が起きるかは、計算するまでもありません。
【特記事項】:アルヴィン様が、地下の「器」の進捗率を本日また引き上げました。
……ただ。
「器」の眠る顔を見た瞬間、アルヴィン様の指先が——ほんの一瞬だけ、止まりました。
私の気のせいでしょうか。
完全な休日までは、まだかかりそうです。
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