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第13話:澱みの都、招かれざる聖域


 空気が重い。

 数百キロ先で「浄化」に失敗した余波が、微かな圧力の変化となってこの山奥にまで届いている。

 王都は今頃、自分たちが吐き出した魔力の澱みに埋もれているはずだ。

 俺が20年間かけて処理し続けてきたものを、一晩で垂れ流したのだから、当然の結果だ。

「……アルヴィン様。外のノイズが、一段と大きくなっていますわ」

 ヴェラが眉をひそめ、窓の外を顎で示した。

 温泉宿の門前。

 そこには、煤まみれの顔をした避難民たちが、数キロにも及ぶ列を成していた。

 彼らは一様に地面にひれ伏し、俺の住む家を、あるいは俺がさっき歩いた土を、涙を流しながら拝んでいる。

「……清浄だ。ここだけが、呼吸ができる……」

「アルヴィン様……! 救世主アルヴィン様……!」

 彼らが縋り付いているのは、慈悲ではない。

 都から溢れ出した煤によって、呼吸すら困難になった生物としての、生存本能だ。

 俺がこの地にいるだけで、俺が20年間かけて最適化してきた術式が、無意識に周囲の不純物を弾き飛ばしている。

 その結果として生まれた「清浄な空気」を、彼らは聖域と呼び始めた。

 俺が何もしていないのに。

 ただ、ここに存在しているだけで。

 近くで泣き崩れている女がいた。

 子どもを抱いている。

 子どもは既に目を開けていない。

 女は何かを叫んでいるが、声が掠れていて言葉にならない。

 それでも、両腕の力だけは緩めなかった。

 俺の視線に気づいた瞬間、女は子どもを高く掲げた。

 差し出すように。

 ……祈りではない。

 取引だ。

 最後の、取引だ。

 俺はそこから目を逸らした。

「迷惑ですね。……俺は、ただ静かに茶を飲みたいだけだと言ったはずですが」

「あの方々にとっては、アルヴィン様の吐息一つすら神の奇跡に見えるのでしょう。……救う気のない救世主ほど、民衆を狂わせるものはありませんわね」

 ヴェラはどこか愉しげに、手帳に「信仰による環境汚染」と書き留めた。

 彼女の言う通り、これは信仰という名のノイズだ。

 俺が何かをしたわけではない。

 俺がここにいる、それだけで発生するノイズだ。

 実に、面倒くさい。


一方、王都。

 そこは、文字通りの「地獄」と化していた。

 昨日、最後の鐘突き男が「もう肺が持たない」と言い残し、消えた。

 今日、通りに人影はない。

 煤だけがある。

 白く積もるように、あるいは呼吸するように、煤だけが都を覆っている。

 大司教は、真っ黒に染まった聖堂で、錯乱したように叫び続けている。

「洗え! もっと魔法を注いで、この煤を洗い流せ! 水の魔法使いを全員集めろ!」

「閣下、無理です! 水を出せば出すほど、その魔力が煤に変換されて逆流してきます! 街の井戸は既にヘドロで詰まり、排水路も……!」

 ジュリアンが血を吐くような思いで進言するが、大司教は聞く耳を持たない。

「では、火だ。焼き払え。煤ごと、全部焼いてしまえ! 街など、また建てればいい!」

「閣下……。もう、街には誰もいません」

 沈黙。

 大司教は初めてそこで、窓の外を見た。

 かつて何万もの民が行き交っていた大通り。

 商人の怒鳴り声と子どもの笑い声が混ざり合っていたあの場所に、今は白い煤だけが深く積もり、風もない。

 足跡が一つある。

 一つだけ。

 昨日か、一昨日か、誰かが北へ向かって歩いた跡だ。

 引きずるような不規則な歩幅で、途中から消えている。

 倒れたのか。

 あるいは這って進んだのか。

 大司教はその足跡の先を、しばらく目で追っていた。

「……私の、民が」

 彼にとって、魔法は無限の資源だった。

 不都合な汚れは「より強い光」で消し飛ばせるものだと思い込んでいた。

 結果、王都中に高出力の洗浄魔法が叩き込まれ、それと等量の、いやそれ以上の魔力の残滓が煤となって街を埋め尽くした。

 魔法を使い、都を掃除しようとする行為そのものが、都を破壊する。

 祈りという循環の仕組みを理解しないまま、出力し続けた結果だ。

 アルヴィンが20年間、それを一人で処理し続けていたという事実を、この男はまだ理解していない。

 理解できないまま、終わるのかもしれない。

 ジュリアンは、大司教の横顔を盗み見た。

 老いた頬に、一筋の煤が伝っている。

 涙が流れた跡に、都の澱みが染みついていた。

 それはひどく、静かな光景だった。


温泉宿。

 俺は、あまりの騒がしさに耐えかねて、再び地下へと逃げ込んだ。

 ここなら、外の「神格化」という名の絶叫も、少しは遠のく。

「……やはり、あなたに急いでもらうしかありません」

 椅子にかけて眠る影。

 俺の全ての面倒事を引き継いでもらうための、精緻な身代わり。

「王都はもう、自分たちで自分たちを窒息させる道を選んだ。……あいつらを王都に帰すには、俺の劣化コピーではなく、俺を上回る神父が必要だ」

 点検。調整。

 淡々とした作業。

 だが、ふと、俺の指が止まった。

 膜の向こう側、微かに見えた眠る影の顔。

 ……あの日、勇者が資材として切り捨て、泥の中に転がっていた時よりも、ずっと安らかな顔をしていた。

 何も知らない顔だ。

 外の声も、自分が何のために作られたかも、何も知らない。

 知らないまま、ただ呼吸している。

 ……門前の女が、子どもを差し出した時の顔と、少しだけ、重なった。

「……。何を、感傷に浸っているんだか」

 俺は自分自身に毒づき、点検を続けた。

 俺がこいつを助けたのは、こいつが可哀想だからではない。

 俺が自由になるために、こいつが必要だからだ。

 それ以上の理由は、俺の人生にはもう存在しない。

 存在しない、はずだ。

「ヴェラ。……進捗を早めます。外部のノイズが実害になる前に、こいつを起動させる」

「かしこまりました。……ふふ、やはりアルヴィン様。目的のためには世界すら作り替えるその合理性……。ゾクゾクいたしますわ」

 ヴェラの熱っぽい視線を背中で受け流しながら、俺は再び、闇の中で針を動かし続けた。

 俺の休日を、誰も、神ですら、邪魔させるつもりはない。

 薄暗い部屋に、揺り籠の微かな光だけが揺れている。

 眠る影の呼吸が、今日も規則正しく続いていた。

 俺はそれを確認して、扉を閉めた。

 確認しただけだ。

 それ以外の何でもない。


■ ヴェラの観察ログ

 王都のゴーストタウン化が加速。門前には一昨日の三倍の人数が蹲っております。大司教は「出力を上げれば煤は消える」という誤認を継続中。このままでは王都は魔力残滓による圧壊を迎えるでしょう。無知という名の自死です。なお、アルヴィン様が地下の器を確認された際、指先がほんの一瞬止まりました。また、門前の子を抱えた女性をご覧になった後、約四秒、視線を床に落としておいででした。「感傷ではない」と仰るでしょう。私もそう記録します。ただし、扉を閉める前にもう一度だけ振り返られたことも、ここに付記しておきます。

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