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第14話:暫定的な救済


 ノイズは、最も非効率な不純物だ。

 門前の叫び声はもはや言葉の体をなしておらず、ただ空気を震わせ、俺の鼓膜に不快な振動を刻みつけてくる。

 俺は窓から一度だけ外を見た。

 門前に積み重なった人影の中に、子どもの姿がある。

 親に抱えられたまま、ぐったりと動かない。

 生きているかどうかは、この距離では分からない。

 ……分からなくていい。

 俺が関与すれば、またあの地獄が始まる。


「……ヴェラ。そろそろ、『後継者』を実戦に投入します。このままでは、温泉の効能よりもストレスによる損耗が上回る」


「よろしいのですか、アルヴィン様。……あちらの『教育』は、まだ不十分かと」


「実地訓練を兼ねればいい。壊さないように調整はしてあります」


 俺は地下へと降りた。

 冷気に満ちた部屋の中央。

 椅子で瞑想するカイルの顔を、俺はしばらく見た。

 泥の中で捨てられていたあの夜、こいつは何も言わなかった。

 泣きもしなかった。

 ただ、目だけが開いていた。

 何かを待つような、あるいは何かを諦めたような、そういう目だった。

 俺は別に、それに同情したわけではない。

 ただ、あの目を見て、「使える」と思った。それだけだ。


「……時間ですよ、カイル。仕事の準備を」


 カイルが、ゆっくりと目を開けた。

 何も言わない。

 ただ、俺の顔を見て、それからゆっくりと自分の手を開いて、閉じた。


「勘違いしないでください。俺はあなたを『救った』わけではない。俺が二度と働かなくて済むように、俺の代わりをしてもらうために『教育』しただけです」


「あ、の……僕は……」


「あなたは、俺の後継者だ。俺の代わりに王都へ行き、門前に溜まったノイズを元の場所へ引き取らせてきなさい。……いいですか、絶対に『壊れる』ことだけは許可しません。あなたが壊れれば、俺がまた働かされる羽目になる」


 俺は、カイルに一振りの杖を預けた。

 俺の技術のすべてを詰め込んだ、祈りの効率を極限まで高めるための「鍵」だ。

 渡す瞬間、俺の手がカイルの肩に触れた。

 接触確認。

 それ以外の理由は何もない。


「……行って、掃除をしてくれば……僕は、あなたの役に立てますか?」


 カイルのその問いに、俺は3秒ほど沈黙した。

 役に立つ。

 それは、俺にとって「休日」を意味する。


「……あなたが完璧に稼働し続ける限り、俺はあなたに感謝さえするでしょう。……行きなさい。自分の価値を証明するために」


 カイルは、力強く頷いた。

 頷きながら、その目に光が集まっていくのが分かった。

 泥の中で死にかけていた時とは違う光。

 諦めではなく、行き先を持った光だ。

 俺はそれを直視しなかった。

 必要がないからだ。

 かつての仲間から「資材」と呼ばれた少年は、今、俺の「唯一の代弁者」として空間転移を唱えた。


 王都は、魔法の残滓でひどく汚れていた。

 大司教が絶望の淵で、もはや声にもならない祈りを煤に向かって吐き出していた時、その「白」が現れた。

 門を潜り、真っ黒に染まった大通りを歩む、一人の少年。

 足音が静かだった。

 煤を踏むたびに立つはずの砂埃が、カイルの周囲だけ、すでに起きていなかった。

 少年が通った後の地面が、一歩ずつ、もとの石畳の色を取り戻していく。

 カイルは立ち止まった。

 目の前に、動けなくなった老婆が倒れている。

 煤を吸いすぎて、肺がまともに動いていないのだろう。

 白目を剥いて、それでも胸だけが微かに上下していた。

 カイルはしゃがんで、老婆の顔の隣に杖を置いた。

 アルヴィン様に教わった、最も繊細な浄化の手順を施す。

 老婆が、ひゅう、と息を吸った。それから、また吸った。

 カイルは立ち上がり、歩き続けた。

 顔には何もない。感傷も、達成感も。

 ただ、杖を突き立て、一言「……アーメン」と呟いた瞬間。

 都を覆っていた煤が、波が引くように少年の周囲から消滅していった。


「ああ……! アルヴィンの、アルヴィンの弟子か!? 救世主が来たぞ!」


 大司教が這いつくばりながらカイルに縋り付く。

 だが、カイルはそれを冷淡に、しかし毅然と見下ろした。

 その目の奥に、燃えているものがあった。

 怒りでも慈悲でもない。

 ——アルヴィン様がここで、20年間、1人でこれをやっていた。

 その一事だけが、カイルの胸の中で静かに燃え続けていた。

 その姿は、かつて王都を一人で支え続けていた男の影を、色濃く継承していた。


温泉宿。

 俺は、門前から人影が消えていくのを確認し、ようやく深く椅子に身を預けた。


「……これで、しばらくは静かになるでしょう」


「……カイル様の術式は安定しています」


 ヴェラが、新しく淹れたお茶を置きながら、満足げに微笑む。


「……当然です。あいつを一人前にするために、俺の休日の半分を費やしたんです。投資分は、きっちり働いて返してもらわないと困る」


 俺は目を閉じた。

 心地よい静寂が戻ってくる。

 カイルが王都でどんな賞賛を浴び、どれほど「本物」に近い奇跡を見せているか。

 そんなことは、俺には関係ない。

 あいつが稼働し続ける限り、俺の休日は守られる。

 それだけでいい。

 ……あの、行き先を持った目の光のことは、もう考えていない。


■ ヴェラの観察ログ

•【状況】:次代神父「カイル」の王都定着を確認。当宿の静寂値は、理論上の最高値を維持しています。

•【分析】:アルヴィン様は、カイル様を「使い捨て」にするどころか、ご自身が不在でも世界が回るための「完璧なシステム」として再構築されました。これは慈愛ではなく、効率的隠居術です。

•【評価】:王都の連中は、カイル様を「新しい神」として崇めています。しかしその本質は、アルヴィン様が作り上げた神父であることを誰も理解していません。……無能たちには、その光さえ眩しすぎるのでしょう。

•【特記事項】:カイル様を送り出す際、アルヴィン様は杖を渡すふりをして、カイル様の肩を一度だけ、無造作に叩きました。アルヴィン様はそれを「最終的な接触確認」と定義されたことでしょう。私もそう記録します。——ただし。その手が、カイル様が視界から消えるまで、僅かに空中に留まっていたことも、ここに付記しておきます。

救済ではなく、継承。

アルヴィン様が手放した世界の残骸を、彼が育てた少年が拾い上げる。

……私の主人は、どこまでも恐ろしく、そして「正解」を選び続けます。

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