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第15話:空洞の祈り


 朝の光が、縁側に薄く差し込んでいる。

 茶の湯気が、静かに立ち上る。

 俺は目を閉じたまま、遠くの空気の質を確認する習慣が、どうやらまだ抜けていないらしかった。

 王都の方向。

 カイルがいる場所。

 ……おかしい。

 俺は目を開けた。

 茶碗を持ったまま、しばらくその違和感を転がした。

 浄化の精度が落ちている。

 術式そのものは成立している。

 だが、何かが薄い。

 水で割ったような、薄さだ。


 (……疲労か。あるいは、魔力残滓の蓄積か)


 俺はその考えを、茶と一緒に飲み込んだ。

 まだ、行かなくていい理由を探していた。


 翌朝も、精度は落ちていた。

 俺は縁側で茶を飲みながら、王都の方角を一度だけ見た。

 それだけだった。

 その次の朝も、同じだった。

 今度は、王都の方角を見なかった。


「ヴェラ」


 3日目の夕方。

 俺は手元の茶碗から目を上げずに言った。


「はい」


「王都の浄化精度が落ちています」


 ヴェラは手元の水晶板から目を上げなかった。


「……3日前から、です」


 沈黙が落ちた。

 俺は茶碗を置いた。


「報告しなかったんですか」


「アルヴィン様が、お気づきになるのを待っておりました」


 それ以上、ヴェラは何も言わなかった。

 俺も、何も言わなかった。

 3日。

 気づかないふりをしていた。

 いや。

 本当に気づいていなかったのか、気づきたくなかったのか。

 今の俺には、その区別がつかなかった。


「……行ってきます」


「お供します」


「いい。……一人で十分です」


王都に着いた時、カイルは大通りの中央に立っていた。

 杖を持ち、民衆に囲まれ、「アーメン」を繰り返していた。

 その姿は、傍目には完璧に見えただろう。

 術式は正確だった。

 浄化は成立していた。

 倒れている者を見れば歩み寄り、杖を向け、光を灯す。

 動作に無駄がない。

 俺が叩き込んだ手順を、寸分違わず再現していた。

 だが。

 カイルの隣で、一人の老人が涙を流していた。

 煤に侵されていた体が、カイルの祈りで浄化され、ようやく深く息が吸えるようになったのだろう。

 老人は震える手でカイルの袖を掴み、「ありがとう、ありがとう」と繰り返していた。

 カイルは、その手を静かに外した。

 感情ではなく、作業として。

 「次の方へ」と言いながら、すでに視線は別の場所へ移っていた。

 老人が何かを言い続けていたが、カイルはもう聞いていなかった。

 俺は、その光景を少し離れた場所から見ていた。

 かつての俺だ、と思った。

 あれは何年目だっただろう。

 5年目か、10年目か。

 カイルはまだ、神父になって数週間しか経っていない。


「……カイル」


 俺が声をかけると、カイルがゆっくりと振り返った。

 その顔を見て、俺は一瞬、言葉を失った。

 目が、空洞だった。

 送り出した時の「行き先を持った光」は俺が確認したその場所になかった。

 祈りは出ている。

 術式は動いている。

 だが、それを動かしているのが「カイル」なのかどうか、もはや俺には分からなかった。


「……アルヴィン、様」


 カイルが俺の名前を呼んだ。

 声は平坦だった。

 抑揚がない。

 俺がかつて、20年かけてそうなった声に、似ていた。


「……王都の浄化、継続中です。問題、ありません」


「問題だらけです」


 俺はカイルの正面に立った。

 その目を、今日は逸らさずに見た。

 空洞の中に、かすかに何かが残っていた。

 消えかけた火のような、それが何なのか俺には言葉がなかった。


「いつから、こうなりました」


「……覚えていません」


「何日、休んでいない」


「……休む必要が、ないと思っていました。アルヴィン様が20年、休まなかったので」


 俺は、返す言葉を持たなかった。

 俺がそう動いてきたから、こいつもそう動いた。

 俺の真似をして、俺と同じ速度で壊れていこうとしている。


「……仕事を止めなさい。今日は俺がやります」


「……でも、アルヴィン様の休日が」


「うるさい」


 俺は、カイルから杖を受け取った。

 自分の技術を詰め込んだ「鍵」の重さを、久しぶりに手のひらで感じた。

 思ったより、重かった。


俺が杖を持って大通りに立つと、民衆がざわめいた。


「アルヴィン様……!」


「本物だ……! 戻ってこられた……!」


 縋り付こうとする手を、俺は静かに制した。

 感情はなかった。

 ただ、体が覚えていた。

 立つ位置、杖の角度、声の出し方。

 20年分の所作が、染み付いたまま残っていた。


「次の方」


 俺の口から、かつての言葉が出た。

 自分でも気づかないうちに。

 民衆が列を作り始めた。

 俺は一人ずつ、淡々と処理した。

 浄化、蘇生、解呪。

 どれも、考えるまでもなく手が動く。

 5件、10件、20件。

 日が傾き始めても、列は途切れなかった。

 ふと、列の中に子どもの姿があった。

 親に手を引かれた、まだ幼い女の子だ。

 体中に煤を浴びて、目を細めながら俺を見上げている。

 俺が杖を向けると、女の子は怯えたように一歩下がった。

 それから、意を決したように顔を上げて、小さな声で言った。


「……こわい顔してる」


 俺は手を止めた。


「……子供は非効率な観察をしますね。俺の顔の筋肉が強張っているのは、あなたが怖いからではなく、単に長時間の業務による疲弊です。……次の方」


 女の子は一瞬きょとんとして、それからなぜか笑った。

 俺は次の人間を呼んだ。

 それだけだ。


日が完全に落ちた頃、列がようやく途切れた。

 俺は杖を持ったまま、大通りに一人で立っていた。

 体は動く。

 魔力も、まだある。

 だが、ひどく静かだった。

 自分の内側が、水を抜いたあとの桶みたいに、静かだった。

 宿に戻ると、カイルが縁側に座っていた。

 ヴェラが隣に控えている。

 カイルは俺の顔を見て、何かを言おうとして、やめた。

 俺はカイルの隣に座った。

 杖を縁側に立てかけ、空を見上げた。

 星が出ていた。

 王都にいた頃は、星を見る暇がなかった。


「……カイル。10日休め。お前の精度がこれ以上落ちると、俺のメンテナンスコストが跳ね上がる。……それは俺の休日に対する重大な侵害だ」


「……はい」


「感謝するな。俺の平穏のための指示です」


 カイルは黙って頷いた。

 俺は星を見続けた。

 その目に何かが戻ったかどうか、確認しなかった。

 確認する必要は、ないはずだった。


深夜。

 ヴェラが茶を持ってきた。

 俺は受け取りながら、ぽつりと言った。


「……計算が甘かった」


「教育のですか」


「違います」


 俺は茶を一口飲んだ。


「……光が消耗品だということを、計算に入れていなかった」


 ヴェラは何も言わなかった。

 ただ、静かに自分の席に戻った。

 それで十分だった。


■ ヴェラの観察ログ

 カイルの目から光が消えたのは3日前。アルヴィン様が気づいたのは今日。その3日間、アルヴィン様は一度も王都の方角を見ませんでした。「計算が甘かった」と仰った時の声が、いつもより少しだけ低かったことを、ここに記しておきます。


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