第16話:同じ檻の住人
朝の茶が、まだ冷めていなかった。
ヴェラが「異常接近を確認」と告げたのは、俺が二口目を啜ろうとした瞬間だった。
「……規模は」
「概算で三千。魔王軍の残党です。統率が取れていない。隊列も、指揮系統も、完全に崩壊しています」
「崩壊の原因は」
ヴェラが少し間を置いた。
「……私が、いないからかと」
俺は茶碗を置いた。
窓の外を見る。
山の稜線の向こうから、地響きが届いていた。
三千の足音だ。
統率が取れていないのに三千が動けば、ただの暴走する群れになる。
「……また、掃除ですか」
「そうなりますね」
「茶が冷める」
「申し訳ありません」
「あなたが謝ることではない」
俺は縁側から立ち上がり、草履を履いた。
杖は持たない。
杖がなくても、俺の「アーメン」は変わらない。
ただ、攻撃は別だ。
攻撃は祈りではない。
攻撃は、ただの魔法だ。
「……行ってきます。茶は置いておいてください」
「お供します」
「いい。すぐ終わります」
門を開けた瞬間、三千の気配が俺を捉えた。
どよめきが広がる。
最前列の兵士たちが、槍を構えながら後退する。
後退しながらも、前に進もうとする者たちに押されて、隊列がぐずぐずと崩れていく。
統率がないとはこういうことだ。
前に進みたい者と、逃げたい者が、同じ場所に押し込まれている。
宿の主人が、厨房の窓から顔を覗かせた。
青ざめた顔で、俺を見た。
俺は小さく首を振った。
心配しなくていい、という意味だ。
主人は窓を閉めた。賢い人だ。
崖下では、資材たちがツルハシを止めて空を見上げていた。
三千の魔族が山を囲む光景に、誰一人声を上げなかった。
声を上げる気力が、もうないのかもしれない。
あるいは、俺がいるから大丈夫だと、そういうことにしているのかもしれない。
最前列の魔族の一人が、震える声で叫んだ。
「て、撤退しろ! あれが……あれが例の神父だ! 魔王様を一撃で……!」
「逃げるな! 俺たちには使命がある! 魔王様の意思を……!」
「その魔王様が連行されてるだろうが! 状況を見ろ!」
後列で怒声が飛び交っている。
誰も指揮を取れていない。
ヴェラがいた頃は、こういう混乱をあの眼鏡の女が一言で黙らせていたのだろう。
俺は、騒がしい群れを眺めながら、短く唱えた。
「ウォーターボール」
初級魔法だ。
魔法学校の一年生が習う、最も基本的な水の球。
だが、レベル上限を超えた俺の魔力が込められたそれは、もはや「水の球」という概念を逸脱していた。
放たれた瞬間、周囲の気温が数度下がった。
水球が群れの頭上で炸裂し、極限まで冷却された水が霧となって降り注ぐ。
熱を奪われた魔族たちが、一斉に動きを止めた。
寒さではない。
水に含まれた俺の魔力が、彼らの「戦意」という名の熱を、文字通り奪ったのだ。
槍を持つ手が下がる。
怒号が消える。
三千の群れが、ただの「濡れた集団」になった。
「……次は、ファイヤーボールにします。乾かしてあげますが、少し熱いですよ」
誰も動かなかった。
静止した群れの中を、俺は真っ直ぐ歩いた。
左右に割れる気配の間を抜けながら、群れの最後尾を目指す。
通り過ぎる魔族たちが、一様に目を逸らした。
刃向かう気がないのではなく、刃向かう方法が思いつかないのだろう。
群れの最後尾。
そこに、「それ」はいた。
黒い外套を被り、両脇を魔族の兵士二人に抱えられるようにして、半ば引きずられてきた人影。
足が動いていない。
動かす気がないのか、動かせないのか。
頭を垂れ、外套の陰で顔が見えない。
俺が足を止めると、人影がゆっくりと顔を上げた。
魔王だった。
仕留めたはずの、あの男だ。
だが、玉座で見た時の威厳は、今の彼にはなかった。
鎧も、双角も、禍々しいオーラも、何もない。
あるのは、疲れ果てた者だけが持つ、深い隈と、乾いた目だけだ。
……俺と、よく似た目だった。
「……また会いましたね」
俺が言うと、魔王は小さく笑った。
笑い方が、どこか自嘲めいていた。
「……ああ。また殺されに来たわけではないが」
「そうですか。……その割には、随分と物々しい登場の仕方でしたね」
魔王は、両脇の兵士を静かに制した。
兵士たちが、おずおずと手を離す。
魔王は自分の足で立ち、俺を正面から見た。
立てるなら、最初から自分で歩けばよかったと思うが、余計なことは言わない。
「……話がしたい。あなたと、それからヴェラと。三人だけで」
「内容は」
「……神の話だ」
俺は少し考えた。
神の話。
その言葉の重さを、俺はまだ測りかねていた。
ただ、この目を持つ人間の話を、俺は無視できる気がしなかった。
「……中へどうぞ。ただし、そちらの三千人は外で待たせてください。狭い。それと、濡れたままなら乾かしてから入ってください。床が傷む」
魔王は、また小さく笑った。
宿の一室。
俺、ヴェラ、そして魔王の三人だけになった。
ヴェラは魔王を見て、眼鏡を静かに直した。
魔王はヴェラを見て、複雑な表情を浮かべた。
何百年もの付き合いがある、元上司と元部下だ。
だが、二人の間に流れる空気は、再会の温かさとは程遠かった。
長すぎた時間が、感情を削り取った後に残る、乾いた静けさだ。
「……生きていたか、ヴェラ」
「おかげさまで。……随分と、くたびれた顔をしていますね」
「お前もな」
二人の間に、長い沈黙が流れた。
言いたいことが多すぎて、何から言えばいいか分からないような、そういう沈黙だった。
俺は茶を啜った。
まだ、かろうじて温かかった。
「……神の話というのは」
俺が促すと、魔王はゆっくりと口を開いた。
「……俺は死んで、生き返った。あなたに殺されてから、しばらくして」
「知っています」
「生き返る時に、神に会った」
俺の手が、茶碗の上で止まった。
「神が言った。『世界のバランスが崩れた。祈りが少なくなった。だからお前を戻す。大いに暴れろ』と」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
「……それで、暴れることにしたんですか」
「嫌だと言った」
魔王は、疲れた目で俺を見た。
「暴れても、またあなたに殺されるだけだ。意味がない。……だが、神は聞かなかった。『それは許されない。お前は一生魔王として人間に恐怖を与え続けなければならない。神父は一生祈りを捧げ、勇者は一生魔王に挑まなければならない』と」
一生。
その言葉が、部屋の中に静かに落ちた。
「……俺はもう、何百年もそれをやっている」
何百年。
俺は20年でうんざりした。
その何十倍もの時間を、この男は同じことを繰り返してきた。
殺されて、生き返って、また暴れて、また殺される。
それが仕事だと言われて。
「……ヴェラも、同じです」
ヴェラが静かに口を開いた。
眼鏡を外し、テーブルの上に置いた。
その動作が、何かを脱ぎ捨てるように見えた。
「私も、何百年も魔王軍の事務を回し続けました。誰も感謝しなかった。誰も気づかなかった。……魔王様でさえ」
魔王が、目を伏せた。
「……すまなかった、ヴェラ」
「謝罪は結構です。今さら意味がありませんから」
二人の間に、また沈黙が流れた。
今度は、さっきとは少し違う種類の沈黙だった。
俺は茶碗を、静かに置いた。
「……整理しますね」
二人が俺を見た。
「俺が休もうとしても、神がシステムを維持するために邪魔をする。あなたが暴れることを拒否しても、神が強制的に戻す。ヴェラが魔王軍を離れても、統率が崩れて結果的に問題が発生する。……つまり、神が決めたシステムを変えない限り、誰の休日も永遠に来ない」
「……そういうことだ」
「そのシステムに、あなたは何百年も縛られてきた」
「ああ」
「……それは、ひどい職場でしたね」
魔王が、また笑った。
今度は、さっきより少しだけ力のある笑い方だった。
「……同感だ。だから、あなたに会いに来た。俺一人では、神には届かない。だが、あなたの祈りなら、あるいは」
「……俺は、もう神父ではありません」
「知っている。だが、あなたが神父でなくなっても、世界があなたを神父として扱い続けているだろう。それは、俺が魔王をやめようとしても魔王として扱われ続けるのと、同じことだ」
俺は黙った。
反論できなかった。
カイルが王都で「アーメン」を繰り返していた時も、結局俺が動かなければならなかった。
俺が休もうとする度に、何かが崩れて、俺を呼んだ。
それは、システムが俺を手放さないからだ。
「……一つだけ聞いていいですか」
「何だ」
「あなたは、本当に暴れたくないんですか。神に言われても」
魔王は、少しの間黙っていた。
窓の外を見た。
濡れたまま山の斜面に座り込んでいる三千の部下を、遠くから眺めた。
それから、静かに答えた。
「……疲れた。ただ、それだけだ」
俺は頷いた。
その言葉の意味が、よくわかった。
感情ではなく、体の奥から滲み出てくる言葉だ。
20年でそうなった俺に、何百年分の疲労がどれほどのものか、想像すらできない。
「……わかりました」
俺は立ち上がった。
「茶を、もう一杯飲んでから考えます。……あなたも、飲みますか」
魔王は少し驚いたような顔をした。
それから、静かに頷いた。
「……いただこう」
「ヴェラ、三人分」
「承知いたしました」
ヴェラが立ち上がり、茶の準備を始めた。
三人分の茶碗を並べる音が、静かな部屋に響いた。
神が決めたシステムに縛られてきた三人が、同じ部屋で、同じ茶を飲もうとしている。
それが何を意味するのか、まだ俺には言葉がなかった。
ただ、この三人でなければ、神には届かないという予感だけが、静かに腹の底に沈んでいた。
■ ヴェラの観察ログ
魔王との会談を記録します。彼は何百年も同じシステムに縛られてきた。私も同様です。アルヴィン様の20年が長いと思っていましたが、私たちの前では新参者に過ぎない。ただ、アルヴィン様が「それは、ひどい職場でしたね」と言った瞬間、魔王の目に何かが戻るのを確認しました。疲れ果てた者が、初めて「同じ側の人間」に会った時の顔でした。なお、アルヴィン様が魔王に茶を勧めた瞬間、私の計算では「あり得ない選択肢」でした。ですが、アルヴィン様はそれを選んだ。……完全な休日まで、まだかかりそうです。ですが今夜初めて、その道筋が、3人分になりました。
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