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第17話:劣等感の使い道

 朝の茶が、今日は最後まで温かかった。


 魔王が去ったのは昨夜のことだ。


 三千の部下を連れ、山を下っていく背中を、俺は縁側から見送った。

 見送る、というより、視界から消えるのを確認した。それだけだ。

 魔王は去り際に一言だけ言った。


「……準備が整ったら、また来る」


「次は三千人を連れてこないでください。茶が足りない」


 魔王は笑わなかった。

 だが、肩が少しだけ軽くなったように見えた。

 俺の気のせいかもしれない。


「アルヴィン様。カイル様の回復状況ですが」


 ヴェラが水晶板を覗きながら言った。


「魔力の安定を確認しました。明日には動けるかと」


「そうですか」


 俺は茶を啜った。

 明日からまた、カイルに王都を任せられる。

 そうすれば俺は、また温泉に入れる。

 それだけのことだ。

 その時だった。


「……アルヴィン様」


 ヴェラの声が、わずかに変わった。

 感情を排した彼女の声が、これほど硬くなるのは珍しい。


「王都の方向から、異質な魔力の波を確認しました。ただの揺らぎではありません」


「規模は」


「1人分です。ただし……」


 ヴェラが眼鏡を直した。


「……カイル様の魔力に、干渉しています」


 俺の手が、茶碗の上で止まった。


地下の部屋に降りると、カイルが椅子に座ったまま、目を閉じていた。

 回復のための静養だ。

 だが、その呼吸が、微かに乱れていた。

 規則正しかったはずのリズムが、どこか引っ張られるように揺れている。

 外部から、誰かの魔力が押し込まれている。

 俺はカイルの傍らに膝をついた。

 カイルの顔が、眠ったままわずかに歪んでいた。

 痛みではない。

 何かに引っ張られているような、そういう歪み方だ。


「……誰がやっているんですか」


 俺は独り言のように呟いた。

 答えは、すぐに来た。

 部屋の隅の空気が、静かに裂けた。

 光ではない。

 ただ、空間に「別の場所への窓」が開いた。

 その窓の向こうから、声が届いた。


「……久しぶりですね、アルヴィン神父」


 俺は立ち上がり、声の方を向いた。

 窓の向こうに、見知った顔があった。

 ジュリアンだ。

 だが、王都で見た時とは別人のように見えた。

 目の下の隈は消えていた。

 青ざめた顔も、震える手も、もうない。

 代わりに、どこか熱に浮かされたような光が、その目に宿っていた。


「……ジュリアン。その魔力の使い方、どこで覚えましたか」


「神に教わりました」


 淡々とした答えだった。


「神が、私に言ったんです。『お前の理論は正しかった。ただ、一つ変数が足りなかっただけだ。その変数を取り除いてやろう』と」


 変数。

 俺のことだ。


「……それで、カイルを人質にした」


「人質という言葉は正確ではありません」


 ジュリアンは、窓の縁に手をかけた。


「これは、交渉です。アルヴィン神父。あなたに、王都へ戻ってきてもらいたい。神父として、祈りを再開してもらいたい。それだけです」


「断ります」


「では、この少年への魔力の干渉を、少しずつ強めていきます。痛みはありません。ただ、眠り続けることになる。永遠に」


 部屋が静かだった。

 カイルの呼吸が、また一度だけ乱れた。

 カイルの顔が、また少し歪んだ。

 俺は、その顔を見た。

 4秒より長く、見た。


「……ジュリアン。一つだけ聞いていいですか」


「何ですか」


「あなたは今、神のために動いていますか。それとも、俺に勝つために動いていますか」


 沈黙。

 ジュリアンの目が、わずかに揺れた。


「……関係ありません」


「関係あります。神があなたを使う理由は、あなたの理論の精度ではなく、あなたの俺への劣等感です。その感情が、あなたを動かしやすくしている」


「黙れ」


「俺はただの事実を言っているんです。……あなたの理論は正しかった。王都でも、大聖堂でも。ただ経験が少なかった。それはあなたの敗北ではない」


「黙れと言っている!」


 ジュリアンの声が、初めて割れた。

 静かな部屋に、その声が反響した。


「……あなたに何がわかる。私が何年、魔導院で研究してきたか。何年、神の祈りの理論を積み上げてきたか。それを、あなたは『アーメン』の一言で全部上書きした。何の修行もなく、何の理論もなく、ただ20年間事務作業をしていただけの男が……!」


 ジュリアンの手が、窓の縁を強く掴んでいた。

 その手が、かすかに震えていた。

 怒りではない。

 俺には分かった。

 これは、ずっと飲み込んできたものが溢れ出している音だ。

 俺は少し考えた。

 カイルの顔を、もう一度見た。

 それから、ジュリアンを見た。


「……行きます」


「え?」


「王都へ。今から」


 ヴェラが、俺を見た。

 何も言わなかった。

 ただ、眼鏡の奥の目が、わずかに細くなった。


「ただし、条件があります」


「……条件?」


「カイルへの干渉を、今すぐ止める。それが条件です」


「それは、あなたが王都へ戻ると確約してから……」


「止めなければ、行きません。俺がいなければ、神のシステムは維持できない。それはあなたも、神も、分かっているはずです。俺には、交渉の余地があります」


 沈黙が流れた。

 ジュリアンの目が、計算するように動いた。

 優秀な男だ。

 俺の言っていることの意味を、すぐに理解した。

 カイルの呼吸が、静かに安定した。

 カイルの顔から、歪みが消えた。

 規則正しい呼吸が、戻ってきた。


「……わかりました。では、明朝……」


「今から行きます」


「今から?」


「茶が冷める前に終わらせたい」


 ジュリアンが、何か言おうとして、やめた。

 窓が、静かに閉じた。


 俺は地下の部屋を出る前に、一度だけ振り返った。

 椅子の上で、カイルが静かに呼吸していた。

 さっきより、少しだけ安らかな顔に見えた。


「……ヴェラ。カイルの監視を頼みます」


「承知しました。……アルヴィン様」


「何ですか」


「今日は、計算より先に動きましたね」


 俺は少し間を置いた。


「……茶が冷めると言ったはずです」


 ヴェラは何も言わなかった。

 ただ、かすかに笑った気がした。

 俺は地下を出て、空間転移を唱えた。

 王都へ。

 これまでは茶が不味くなるから、ノイズが邪魔だから、そういう理由で動いてきた。

 だが今日の動機は、そのどちらでもない。

 カイルへの心配ではない。

 システムへの介入だ。

 それだけだ。

 ……それだけのはずだった。


■ ヴェラの観察ログ

 アルヴィン様が今日、計算より先に動いた瞬間を確認しました。カイルの顔を見ていた時間は、4秒より長かった。これまでは何かが崩れるたびに動いてきた。今日は違う理由で動いた。その理由を、アルヴィン様はまだ言語化されていません。記録します。

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