第7話:耐用年数
隠居生活が始まって、数日が過ぎた。
朝、鳥の声で目を覚まし、誰の死体も転がっていない廊下を通って、ゆっくりと朝食を摂る。
20年かかってようやく手に入れた「当たり前の朝」だ。
窓の外では、山の稜線が朝霧に沈んでいる。
誰も俺を呼ばない。
誰も死んでいない。
ただ、飯が温かい。
「……アルヴィン様。そちら、また指が動いていますよ」
向かいに座るヴェラが、呆れたように俺の手元を指差した。
気づけば俺は、テーブルの上に置かれた宿の古い塩振り瓶を手に取り、無意識に祈りの形を作っていた。
「……失礼。手持ち無沙汰なもので」
「昨日は箸で、一昨日は湯呑みで、同じことをしていましたよ。記録しておきます」
「……記録しないでください」
俺は苦笑して瓶を置いた。
休むとはどういうことか、俺の体はまだ理解していなかった。
そんな俺たちの傍らで、宿の隅に泊まっていた行商人が、主人の前で頭を抱えていた。
「参ったよ……。仕入れで掴まされたこの短剣、抜こうとすると腕が痺れるし、置いとくだけで荷馬車の馬が怯えるんだ。どこかの教会に引き取ってもらおうと思ったが、どこも扉が閉まってやがる」
行商人が机に投げ出したのは、赤黒く変色した不気味な短剣だ。
俺は朝食の箸を置き、それを一瞥した。
一目で分かった。
放っておけば持ち主の精気を少しずつ吸う類だ。
「……空気が悪くなりますね。……金貨一枚でいいですよ。その『ゴミ』、俺が引き取る」
俺が行商人に金貨を一枚放ると、彼は「そんなゴミに!?」と驚きながらも、厄介払いができたとばかりに逃げるように去っていった。
短剣は嫌な音を出し続けていた。
(……放っておけば、何人か死ぬな……。別に知ったことではないが……。邪魔だ)
「アルヴィン様。わざわざ呪われた装備を買うなど、悪趣味な」
「掃除ですよ。……目障りです」
俺は短剣の柄に触れた。
腕を焼き切ろうとする呪いが這い上がってくる。
骨の髄まで腐らせようとする、悪意ある魔力の奔流だ。
ただし俺にとっては、詰まった配管の汚れ程度の抵抗でしかない。
「……アーメン」
それだけだ。
( ……ん?いつもより、軽いな。……まぁ、どうでもいい)
短剣を包んでいた禍々しい霧が、一瞬で霧散した。
赤黒い錆は剥がれ落ち、中から、眩いばかりの銀色の刃が顔を出す。
「……ほう。中身は良い鋼だったようだ。ヴェラ、これなら林檎の皮も薄く剥ける」
俺がスパスパと空中をなぞる横で、ヴェラは言葉を失っていた。
魔王軍時代が流通させたものだった。
決して解けない呪いの短剣。
それがたった一言で。
(……この男は、20年間…)
ヴェラは静かに眼鏡を直した。
「……アルヴィン様。それはもう、呪われた短剣ではなく伝説級の類になっていますよ。自覚はありますか?」
「ただの刃物ですよ」
俺は銀色の刃を朝の光にかざした。
よく切れそうだ。
林檎が楽しみだ。
ヴェラが、ゆっくりと口を開いた。
「……一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたは20年間、ああいった案件を毎日何件処理していたのですか」
「多い日で30件ほどですね」
「……それを、蘇生や治癒の合間に」
「合間というか、移動中に片付けることが多かったですね。空間転移中は手が空くので」
ヴェラは再び黙った。
俺は少し考えた。
「……死体が増えるだけですから。そしたら仕事が増える。それだけです」
ヴェラは、眼鏡のレンズを静かに拭いた。
それ以上、何も言わなかった。
一方その頃。
王都近郊の森では、第一王子が率いる騎士団が、困惑の渦中にあった。
目の前にいるのは、普段なら一撃で仕留められるはずの、下級のゴブリンだ。
それが、倒れない。
「……っ! なぜだ! 手応えがない!」
王子が放った「太陽の聖剣」の一撃は、ゴブリンの皮膚をなぞるだけで、傷一つ付けられなかった。
それどころか、剣が、重い。
まるで鉛を引きずっているかのように、王子の腕から力が抜けていく。
「おかしい……力が……」
王子の身に纏う「神聖な鎧」は、今や王子の素早さを奪い、体力をじわじわと削る拘束具に成り果てていた。
鎧の内側が、妙に熱い。
「馬鹿な……! ヒールだ! 早く私にヒールをかけろ!」
神官たちが必死に光を浴びせる。
体力は回復する。
だが、装備の異常は治らない。
むしろ悪化している。
騎士の一人が、震える声で言った。
「……殿下。この鎧、以前から時おりおかしかったのですが、神父がいつも調整してくださっていて……」
「それがどうした!」
「むしろなにをすればいいのか……」
「……外せないのか!?」
神官たちは何も答えない。
「あの神父……。……いなくなってから……」
王子は絶句した。
「……ああ、神よ! アーメン!」
神官の一人が、アルヴィンの真似をして一言唱えた。
……何も起きなかった。
聖剣はさらに黒く濁り、王子の腕を締め上げる。
彼らはその理由にすら辿り着けない。
森の奥で、ゴブリンが首を傾げていた。
なぜか今日の人間たちは、やけに弱い。
ゴブリンには理由が分からない。
人間にも、分からないままだった。
■ ヴェラの観察ログ
• 【事象】:呪物(銀の短剣)の外部浄化。および、王都精鋭騎士団の装備故障を確認。
• 【判定】:アルヴィン様が行っていたのは「祈り」ではありません。触れるものすべての不具合を外部から強制的に削ぎ落とす、超高密度の保守点検です。
• 【予測】:この「外部からの圧力」を失った聖遺物たちは、自重に耐えかねて次々と瓦解するでしょう。
伝説は、彼が常に「外側から」磨き直していたからこそ、成立していたのです。
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