第6話:祈りの代償
湯気が視界を白く染めていた。
耳を澄ませても、聞こえるのは源泉が注がれる音と、遠くで鳴く鳥の声だけだ。
風が木々を揺らす。
湯が静かに溢れる。
俺の鼓膜を支配していたのは、パイプオルガンの音と、勇者たちの傲慢な怒号だけだった。
忘れていた静寂が帰ってくる。
ふーーっと長く息が漏れた。
「……アルヴィン様。お湯加減はいかがですか。一番効き目があるように、源泉の量を調整させておきましたが」
脱衣所の方から、ヴェラの静かな声が響く。
いや、少しだけ覗いていた。
彼女はこの宿に到着するなり、周囲の山々に強力な結界を張り終えた。
宿の主人は、到着した時から震えていたが、ヴェラが「滞在中は護衛も兼ねる」と告げた瞬間に顔色が変わった。
賢い人だ。
「……最高ですよ、ヴェラ。あなたがいてくれなければ、俺は今頃、この温泉の臭いを『呪い』だと思い込んで、片っ端から浄化して、ただの温かい真水に変えていたところでした」
「それは勿体ない。せっかくの薬湯を台無しにしてどうするのですか」
「職業病というやつです」
「……ところで、先ほど王都の者から便りがありました。昨夜から第一教会の前には、治療を求める者たちが500人以上詰めかけているそうです。貴族、勇者、商人。身分の区別なく、全員が地面に座り込んで待っているとか」
俺は目を閉じ、肩まで深く湯に浸かった。
「……そうですか」
「……ただ、滑稽な話も。代わりの神官たちが、アルヴィン様の真似をして、『アーメン』と一言唱えるだけで蘇生できるかを試みているようですが」
「無理ですよ、そんなこと」
俺は湯船の中で、自分の手を見つめた。
20年分の祈りを捧げ続けた手だ。
傷一つないが、妙に薄く見える。
「形だけ真似ても、光が霧散するだけです」
「同感です。……夕飯は、あちらに用意させた献立を。あなたが眠っている間に、毒味も済ませておきます」
「……ヴェラ。俺の食事に毒を盛る理由のある人間は、今のところいないと思いますが」
「習慣です。魔王軍では、幹部の食事に毒が混入していることが年に3回はありましたので」
俺は少し考えた。
「……それは、ひどい職場でしたね」
「ええ。あなたの職場と、どちらがひどかったか、いつか比べてみたいものです」
湯から上がり、ヴェラが用意した清潔な服に着替える。
柔らかい。
普段は着古した神父服しか持っていなかったから、布地の感触に少し戸惑う。
部屋に戻り、用意された茶に手を伸ばした、その時だ。
「……っ」
気づいたときには、両手が胸の前で組まれていた。
誰に向けたものかも分からない祈りの形で。
……やめろ。
誰もいない。
「……アルヴィン様」
ヴェラが、眼鏡の奥の瞳でじっと俺を見ていた。
「……すみません。ただの職業病です。もう救う必要はないはずなのに、身体が勝手に『誰かの痛み』を探してるようですね。」
俺は苦笑し、強引に手を解いた。
「……染み付いた癖が抜けるまでには、しばらくかかりそうですね」
ヴェラはそう言って、俺の手に、お茶をそっと置いた。
茶の香りが鼻を抜ける。
高栄養ポーションの人工的な臭いとは、何もかもが違う。
「アルヴィン様。今夜は、世界が壊れていく噂話を子守唄に、ただお休みください」
これが、休日。
これが、終わりではなく始まりというやつか。
……一瞬だけ、風に乗って「助けてくれ」と聞こえた。
勇者の声だと確信が持てた。
いや、ただの風だ。
……そういうことにした。
(俺には、もう関係ない。俺の領分ではない)
俺は、20年分のこびりついた疲労が、温泉の香りと共にゆっくりと溶け出していくのを感じながら、目を閉じた。
一方その頃、王都の宿屋では、一人の勇者が悲鳴を上げていた。
数日前に受けた、魔物の牙によるほんのかすり傷。
神官にヒールをかけてもらい、傷は綺麗に閉じた……はずだった。
「おい……なんでだ! また開くんだよ!薬草もヒールも使ってるんだろ!? なんで治らねえんだよ!!」
閉じたはずの皮膚が内側から裂けていた。
同時に、鼻を突くようなドブ川の臭いが部屋を満たした。
傷口の隙間から、黄色い膿がドロリと溢れ出す。
神官たちが、青ざめた顔で呪文を連呼する。
「……なんだ、これ」
「あ、あの……こちらに教会が残した書物があるのですが……」
神官の一人が、おずおずと羊皮紙を差し出した。
アルヴィンが廃業前に残した「簡易手当の手順書」だ。
「んなもん読む暇があるか! 早く治せ!もしくはあの神父を呼び戻せ!全てあいつのせいだ!」
勇者は手当たり次第に薬草を傷口に押し込み始めた。
神官は、震える手で羊皮紙を見た。
……読めば読むほど、意味が分からなかった。
最初に壊れるのは、いつだって甘やかされていた連中だった。
そして彼らは今夜も、封じられた教会の扉を叩き続けるだろう。
「アーメン」
……何も起きなかった。
神官は震える指で、アルヴィンの手順書をめくる。
そこには、ただ一行。
『……これ以上の処置が必要な事態になったなら、その時はもう、手遅れです。私以外ならですが……』
勇者の絶叫が、王都の夜を切り裂いた。
「……毒抜きから始める、と書くべきでしたか。……あの程度も分からないなら、結果は同じですが……」
面白い、続きが気になる、もっと見たい!と思っていただけましたら、ぜひ【ブックマーク】や下の【☆☆☆☆☆】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります!




