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第4話:内定通知


 魔王軍執務室。

 そこは、先ほどと変わらず静止した時間が流れていた。

 ヴェラは、ピクリとも動かずにデスクを見つめていた。

 彼女の目の前には、魔王城全体の魔力供給を示す水晶が置かれている。

 つい数分前まで、そこには魔王の放つ絶大な漆黒の魔力が、太陽のように輝いていたはずだった。

 それが、消えた。

 霧散したのではない。

 計算外の事象によって、強引に「0」へと書き換えられた。

 ヴェラの知性は、その事象を「魔王の死」と定義しようとして、拒絶していた。

 ありえない。

 魔王様が負けるはずがない。

 ましてや、あの不甲斐ない勇者たちに。

 でも、もし。

 もし本当に、あの神父が。

 ヴェラは自分の思考を途中で断ち切った。

 計算が追いつかない、というより、結論を出したくなかった。

 数百年。

 それだけの時間を、彼女はあの城で過ごしてきた。

 理不尽な命令を完璧にこなし、報告を上げ、予算を組み、戦線を維持してきた。

 その全てが、一人の「薄汚れた神父」によって、あっけなく終わったというのか。


「……計算が合わない。変数がおかしいわ。何が起きているの……?」


 ヴェラが震える手で眼鏡を直そうとした、その時だった。


「……お疲れ様です。また少しズレました」


 背後で聞こえた声に、ヴェラの全身が総毛立った。

 振り返るよりも先に、デスクの上に「それ」が置かれる。

 ドサリ、という重たい音。

 ずた袋から染み出したどす黒い液体が、彼女が心血を注いで書き上げた『来月の軍備予算案』を静かに汚していく。


「……あ、……ぁ……」


 ヴェラは、震える指で袋の口を開けた。

 中に入っていたのは、彼女が数百年仕え、その身勝手な命令を完璧にこなすために心身を削り続けてきた主の、無残な首だった。

 ヴェラの思考が、止まった。

 眼鏡の奥の瞳が、焦点を失う。

 計算機のように回り続けていた彼女の頭が、初めて完全に沈黙した。


「……掃除もされていない不潔な場所だったので、除菌しておきました」


「……どうやって」


 ヴェラの声は、ひび割れていた。


「魔王様の……漆黒の業火は? あの絶対的な呪文は? 私が……私が死ぬ気で練り上げた、あの鉄壁の防衛陣は……っ!」


「雑に浄化して、ファイヤーボールで焼きました。あ、あなたのトラップ配置は素晴らしかったですよ。おかげで勇者たちは入り口で足止めを食っていました」


 褒め言葉だった。

 だが今の彼女には、それが一番残酷に響いた。

 私の仕事は、正しかった。

 完璧だった。

 それでも、結果はこれだ。

 アルヴィンは、ヴェラのデスクの隅に静かに腰を下ろした。

 疲れた老人のような動作だったが、その目には何かを見定める鋭さがあった。


「ヴェラさん。……あなた、有能ですね」


「……何、を。私は敗残兵よ。殺すなら早くしなさいな。……その方が、計算が楽だわ」


「殺しませんよ。もったいない」


 アルヴィンは、首の転がるずた袋を顎で示した。


「先ほど少し考えていたんですよ。魔王軍がこれだけ長く機能していたのは、誰かがきちんと現場を回していたからだ、と。あの配置図、あの予算案、あの書類の整理。……彼が有能だったわけではないでしょう?」


 ヴェラは、何も言わなかった。

 言えなかった、というべきか。

「彼はあなたという『有能な人材』を使い潰すだけの経営者だった。……俺には、見覚えがある光景です」

 アルヴィンは懐から、一通の羊皮紙を取り出した。

 それは魔王城に転移する前に、教会で「廃業」のために書き留めていたメモの裏側だった。

 白紙の余白に、几帳面な文字が数行並んでいる。


「俺はこれから、温泉地で休暇に入ります。ですが、俺は20年、現場しか知らなかった。休む手順も、資産の運用方法も、これから押し寄せるであろう『神からの督促』の撃退方法も、効率的なやり方がわからない。一人では、手が足りない」


 アルヴィンは、その羊皮紙をヴェラの前に置いた。


「契約しましょう。俺は“現場”しかできない。あなたは“全体”が見える。俺は休むために、あなたを必要としている。あなたは、使い潰されない環境が必要だ」


「あなたがいないと、俺の休暇が成立しない」


 沈黙が流れた。

 ヴェラは、魔王の首と、差し出された羊皮紙を交互に見た。

 彼女の計算機のような脳が、少しずつ再起動を始める。

 感情ではなく、論理が動き出す。

 魔王は死んだ。

 組織は崩壊した。

 このまま残っても、待っているのは残党処理という名の無賃労働か、勝者による粛清か、どちらかだ。

 そして目の前にいるこの神父は、魔王を「ファイヤーボール一発」で仕留めた存在だ。

 逃げることも、戦うことも、計算上は無意味だった。

 ヴェラは、長い間黙っていた。

 彼女が仕えてきた数百年を、アルヴィンは知らない。

 初めて魔王に召し抱えられた日の、あの奇妙な高揚感。

 自分の計算能力が初めて「正しく使われている」と感じた瞬間。

 深夜まで書類と格闘し、朝には完璧な作戦図を仕上げ、それを魔王が一瞥もせずに「よきにはからえ」と言い捨てた日々。

 有能であることは、彼女にとって誇りだった。同時に、呪いでもあった。

 できるから、任される。

 任されるから、増える。

 増えるから、眠れない。

 眠れないまま、また朝が来る。

 (……あの神父も、同じだったのか)

 ヴェラは、アルヴィンのひどい隈を見た。

 あれは一日二日でできるものではない。

 何年も、何十年も積み上げた疲労の痕跡だ。


「……それは、雇用ですか。それとも捕獲ですか?」


「捕獲する理由がないでしょう」


「……もう一つ、確認させてください」


「どうぞ」


「あなたは今後、蘇生業務を再開するつもりはないのですか。本当に」


「ありません」


 ヴェラはアルヴィンの目を見た。

 嘘をついている目ではなかった。

 交渉している目でもなかった。

 ただ、疲れ果てた人間が、初めて「本当のことを言っている」目だった。


「……福利厚生に、『安眠』は含まれますか?……最後に眠ったのが、いつか思い出せないの」


 アルヴィンの口元が、わずかに緩んだ。

 それは笑顔というより、長い業務が一件落着した時の、乾いた安堵に近かった。


「ええ。俺が隣で《結界》を張っておきますよ。魔王を倒した元神父に魔族なら、誰も邪魔しに来ないでしょうしね」


 ヴェラは自嘲気味に笑い、それから乱暴に眼鏡を外した。

 (……初めてだ。「休んでもいい」と思えたのは)

 レンズを拭くでもなく、デスクの上に置く。数百年間、仕事のためだけにかけ続けてきた眼鏡が、今は少しだけ遠い場所にある。

 彼女は手元のペンをパキリと二つに折った。

 それは、魔王軍幹部としての彼女の終わり。


「……いいでしょう。計算するまでもないわ。ブラック企業に殉ずるほど、私は勤勉ではありませんから」


「話が早くて助かります」


 アルヴィンは満足げに頷き、ずた袋を再び担ぎ直した。

 ヴェラは立ち上がり、何百年も座り続けたデスクを一度だけ振り返った。

 積み上げられた書類。

 汚れた予算案。

 誰も読まなかった改善提案書の束。



 (……ご苦労様でした、私)



 心の中でだけ、そう呟いた。


「では行きましょうか。……閉店作業は、一人より二人の方が効率がいい」


「同感です」


「……ただし、定時で終わらせますが」


 二人の影が、無人の執務室からかき消える。

 残されたのは、真っ二つに折れたペンだけだった。

 そしてヴェラが最後まで書きかけていた『来月の軍備予算案』が、どす黒い染みの中で、静かに意味を失っていた。

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― 新着の感想 ―
良く今まで生きていられたな。無茶し続けた身体が心配。 もう本当に、ほんとーに、二人ともお疲れ様でした。 まずはゆっくりと心身ともに休んでほしい。
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