第20話:神の重さ
転移の暗転が、明けた。
そこは、白かった。
白い、というより、色がなかった。
床も、天井も、壁も、境界線がない。
ただ、「場所」だけがあった。
空気はある。
重力もある。
だが、それ以外の何もかもが、定義されていない。
世界を作る前の素材だけが、ここにある。そういう場所だった。
「……着きました」
俺は後ろのヴェラに告げた。
「……ええ」
ヴェラは周囲を一瞥して、手帳を開いた。
どんな場所でも、まず記録する。
彼女らしい。
俺は前を向いた。
少し離れた場所に、「それ」はいた。
老人だった。
白い衣をまとい、長い白髭を持ち、背筋が真っ直ぐに伸びている。
見た目だけなら、どこかの国の高位聖職者と言われれば信じる。
威厳がある。
佇まいに、重さがある。
だが、目が違った。
老人の目は、俺を見ていなかった。
俺の方向を向いてはいる。
だが、焦点が合っていない。
何かを処理している機械の目だ。
「……来訪を確認。アルヴィン・クロス。元神父。レベル上限到達済み。祈りの供給停止から、経過日数——」
老人の口が動いた。
声は深く、荘厳だった。
だが、言葉に感情がない。
報告書を読み上げているような、そういう声だ。
「……はい。来ました」
俺は遮った。
老人が、わずかに止まった。
処理が一瞬、中断したような止まり方だった。
「……供給停止の理由を確認する。システムの障害か」
「障害ではありません。俺が止めました」
「……理由は」
「疲れたからです。20年間、休みなく働いた。休日が欲しかった」
老人が、また止まった。
今度は少し長い。
「……休日。定義を確認する。業務の一時停止か」
「永続的な停止です」
「……それは許容されない。世界のバランス維持に、祈りの供給は不可欠だ。供給が止まれば、システムが——」
「知っています。だからここに来ました」
俺はヴェラを振り返った。
ヴェラが頷いた。
手帳のページをめくる音がした。
「……神。一つ確認させてください」
ヴェラが前に出た。
老人の目が、ヴェラに向く。
「……ヴェラ。元魔王軍幹部。現在の所属——未登録」
「ええ。未登録です。……質問があります。このシステムは、いつから動いていますか」
「……システム稼働開始から、現在まで。時間の定義が異なるため、人間の単位では計測不能」
「では、あなたはいつからここにいますか」
老人が、また止まった。
今度は、明らかに長い。
「……同上」
「……疲れていますか」
沈黙。
今度は、止まり方が違った。
処理の中断ではない。
何かを、検索しているような間だった。
「……疲労。定義を確認する。機能の低下か」
「そうではなく」
ヴェラは眼鏡を直した。
「続けたくない、と思ったことはありますか」
老人の目が、初めて焦点を結んだ。
俺を見た。
ヴェラを見た。
それから、自分の手を見た。
「……該当する記録が、ある」
その声だけが、わずかに違った。
システムの読み上げではない。
何か別のものが、一瞬だけ混じった声だった。
その瞬間だった。
白い空間に、細い亀裂が走った。
音はない。
ただ、定義のなかった空間の一部が、ぴしりと線を刻んだ。
老人の声が、一度だけノイズのように揺れた。
「……エラー。該当データの処理に、支障が……エラー。感情パラメータの定義が……エラー」
老人が、自分の手を見た。
その手が、わずかに震えていた。
震えていること自体を、処理できていないような、そういう震え方だった。
俺は、その光景を見て、溜息をついた。
「……神まで、こんな状態だったんですか」
「……エラー。処理を……」
「俺の休日を邪魔し続けていた元凶が、俺以上に無能なシステム運用をしていただけとは」
老人の動作が、完全に止まった。
「……世界のバランスを維持するためのシステムが、自分のエラーも処理できないとは。救えませんね」
ヴェラが、俺を横目で見た。
「少し黙っていてください」という目だった。
ヴェラが老人に向き直った。
「……落ち着いてください。これは異常ではありません。ただ、これまで処理したことのないデータが入力されただけです」
「……未知のデータ。処理方法が……」
「処理しなくていいです。ただ、そこにあることを認識するだけで十分です」
老人が、ゆっくりと顔を上げた。
亀裂は、まだそこにあった。
だが、広がってはいなかった。
「……いつからですか」
俺が聞いた。
「……祈りの供給が、初めて停止した時から」
「……それは、いつですか」
「……あなたが、廃業した日だ」
部屋が静かだった。
色のない、定義のない空間に、その言葉だけが残った。
俺は神を見た。
威厳のある老人の姿をした、感情のない運用システム。
世界の全ての祈りを受け止め続け、バランスを維持し続け、誰にも感謝されず、誰にも気づかれず、ただ動き続けてきた存在。
「……あなたも、休みたかったんですか」
「……該当する概念が、存在しなかった。あなたが止まるまで」
俺は、もう一度溜息をついた。
「……厄介ですね。俺が休もうとしたら、神まで道連れになる」
「……アルヴィン様」
ヴェラが静かに制した。
「……わかっています。面倒ですが、やるしかない」
俺は老人を見た。
「……話し合いましょう。システムを変える方法について。あなたが休めるように、そして俺も休めるように」
老人の目が、また俺を見た。
「……変更は、許容されない」
「許容されなくても、変えます。このままでは、あなたも俺も、永遠にこの仕事を続けることになる。それは非効率です」
「……非効率」
「ええ。壊れかけたシステムを無理やり動かし続けるより、作り直す方が合理的です。……20年間、現場で学びました」
老人は、長い間黙っていた。
亀裂が、もう一度だけ微かに震えた。
それから、静かになった。
「……提案を、聞こう」
ヴェラが手帳を開いた。
3日間かけてまとめた資料が、そこにある。
新しいシステムへの移行計画。
魔法に頼らない世界の設計図。
「……では、説明します」
ヴェラの声が、静かな空間に響いた。
神は黙って聞いていた。
処理しているのか、理解しているのか、俺には分からなかった。
だが、遮らなかった。
それで十分だった。
亀裂は、まだそこにあった。
だが、もう広がってはいなかった。
何かが、ここで初めて「止まった」のだろうと、俺は思った。
■ ヴェラの観察ログ
神と対面しました。威厳のある外見と、感情のない言葉。そして、アルヴィン様が廃業した日から「続けたくない」という記録があったという事実。神は自分の中に生じた未知のデータを処理できず、空間に亀裂が走りました。アルヴィン様は「救えませんね」と仰いました。それは侮辱ではなく、現場から運営への、正当なクレームだったと思います。全ての祈りを受け止め続けてきた存在が、一人の神父の廃業によって初めて揺らいだ。……これより、新システムの提案に移ります。記録します。
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