恐ろしくも決まりきった未来
九話
アロンの街は今日も平和である。
そもそもアロンは、現当主エルノウより五代前のディモス家当主が当時のアイル王国国王から命じられて興った街だ。アロンができたばかりの頃は、森とほぼ隣接した平原に人が暮らす集落があるという程度で、森に住む魔獣に襲われ放題だった。それでも住み続けたのは、このアイルという国において、非常に利用価値のある場所だったからだ。
アロンはアイル王国有数の交易都市である。アイル王国の首都であるタリスからも近く、複数の街の交易拠点となれる素晴らしい位置。さらには隣国であるパルストスとの交易拠点となることさえも望める。だからこそ人々はたとえバークベアが襲ってこようと、何人の警備隊が犠牲になろうと、そんな生活に疲れて人々が街を去ろうと、ディモス一族とそれを信頼する者たちによって街は守られ続けてきた。
人もただ餌になってやるばかりではなく、金で兵隊を雇ったり、志高い若者が自らを鍛えて街の守護者となったりした。それでもやがて限界が来ることはわかっていたので、人々は対策を考えた。壁という対策を。
襲われるのであれば、それをそもそも遮断してしまえばいいという考え方によって生まれた壁は、想像外に素晴らしい効果をもたらした。当時最新の技術を用いて堅牢かつ高く建築された壁に守られた街に、魔獣たちはいずれ近づかなくなり、人々の営みが壁の中で賑やかに続いてきたのだ。
そんな歴史を背負う一族の一人イリアルは、貴族街を守る壁の上から平民街を見下ろしていた。
先日聞かされた父の計画。それは、アロンの歴史を作ってきた先人たちに、真正面から喧嘩を売るに等しい行為だ。でっぷりと太っていても街の筆頭貴族の当主、高等教育を受けて育ち、それなりの仕事をこなしてきたのだ。父とてそんなことはわかっている。だとしても、やると決めた。逆転しかけている市民と貴族の立場を変えるために。暴と力を持って、自分たちで街を管理しようとしている市民たちを叩き潰すつもりなのだ。
シュルシュルと音を立てて吐息を漏らした。空気は歯に擦れながら口内を出て、ゆっくりと空中に消えていく。
止めたい、とは思っている。しかし止めようが無い。
父が呼び寄せた謎の男が所属するというテネスキュリテ。聞き覚えのある名前だ。それも事件や、よくない噂の中心でたまに聞こえてくる程度の名前。
もし、このまま自分が何もしなかったら、説明された計画通りに事態が進行したら、眼下に広がる平和な景色はどうなってしまうのだろうか。きっと凄惨な光景が広がるのだろう。笑いながら行き交う人々の顔が哀しみで歪み、遊ぶ子供の綺麗な汗は赤黒い血に変わり、歓声響く空に嗚咽と悲鳴が轟くことになる。
考えが脳を巡った時、イリアルは心臓のリズムが変わったことを感じ取った。軋むような音を立てて無理やりポンプしているようで、痛むというよりも機能不全と表現した方が良い感覚だ。
雲ひとつない青空が目に痛くて視線を下げる。ただ街を見下ろすのも辛い。高所は得意なはずなのに、やけに怖く感じられた。
膝が頽れ、壁の縁に必死にしがみついて震える。目が熱くキンと痛んだ。それでも涙は流れてこない。奥歯を噛み締めて、歯の隙間から空気を漏らしながら必死で呼吸する。そうでなければ途端に息が止まってしまいそうだから。
拳を石の床に叩きつけた。ゴツ、と弱々しい硬い音がするのに、不思議と拳の痛みは感じない。何度も、何度も叩きつけた。それでも拳が痛むことはない。
これ幸いと何度でも拳を叩きつけた。そうでもしなければ、溢れ出る苦しさと、家族へのどうしようもない怒りを消化することができそうにない。
痛みはないはずなのに、血がだんだん滲み出てきて、皮が破れて血の跡が床についている。
もう一度拳を叩きつけようとした時、手のひらが床と拳の間に滑り込んで止められた。
「姉さん、やめましょうよ」
優しく囁くように声をかけられた。
「ザイル……どうしてここに」
「似たような理由だと思いますよ?」
にこやかに笑いながら手を引き、イリアルを立ち上がらせる。
「姉さん、流石にやりすぎです。こんなに血を流して」
ザイルが手のひらを見せつける。拳型に押印された血がゆっくり滴っている。
「ごめん」
「気持ちはわかりますよ。兄さんたちは納得、というか同意しているようですけど」
ザイルもまた同じように街を見下ろす。ようやく正午をすぎた街は美しく、第一城壁のせいで地平線を望むことは叶わないが、十分すぎるくらい雄大な景色であった。
「この街はきっと悲鳴に溢れる。誘拐された人々は涙を流すことになるでしょう。それでもやるつもりなんでしょうね」
「間違っている、よね」
言葉にしていながら、一瞬自分の発言を疑ってしまった。周りの人間が皆Aと叫べば、自分の意見がBだと思っていてもAだと思い込まされてしまうものだから。
ザイルは一度顎を撫でて、質問に答えずに街を見つめている。その瞳を伺うと、真っ黒い中に何かしらの感情が浮かんでいることだけは感じ取れたが、それを理解することはできなかった。
「おそらく、二つの見方ができます」
「……というと?」
「間違っている、と間違っていない」
その回答はイリアルにとって雷が落ちたような衝撃であった。
弟は父らと違ってまともな感性を有している。だからこそ誰にも言えなかった疑問を口にしたのだ。無条件な肯定が帰ってくるのだと期待していた。
非道な言葉を攻めたくなる気持ちを自制し、一旦話を聞くための冷静さを取り戻す。弟は浅慮な人間ではない。それに二つの見方があると言っていた、その中には間違っていると、断言した部分もあるのだ。まず必要なのはゆっくり言葉を聞くこと。そうでなければ、愚か者と断じられても仕方ないのだ。
「じゃあまず、間違っていない方から、教えて」
怖いから、まずは悪い方から聞いてしまおう。その程度の考えだった。
「間違っていないのというのは、貴族側の理屈です」
壁の街側から離れ、貴族街側を見下ろした。
「貴族たちは、極めて焦っている。街の管理の主導権を、市民に奪われつつある状態にあるから。貴族たちはほぼ国と街を繋ぐ窓口という状態にあります」
それはイリアルもよく知っている。市民は重税を課すばかりで街を良くしようともしない貴族を嫌い、自分たちで組織した警備たちの方へ傾倒した。現在はリーダーのグォン・ダルメットが街の管理の中心となっているらしい。
この状況の何がまずいのか。仮にこの状況に国の中心が気づいてしまえば、最悪グォンが貴族位を与えられてしまう可能性があるのだ。
グォンが貴族となれば、今以上に貴族たちに対して意見を言うことができるし、筆頭貴族の立場にあるディモス家だって逆らうことができなくなる。ディモス家が国から筆頭貴族の立場を与えられているのはこの街を作ったと言う実績と、維持してきたと言う信頼ありき。グォンが貴族となり、市民からの信頼が国に知れれば、筆頭貴族の立場を奪われてしまうことだってあり得る。
貴族サイドが恐れているのは、自分たちの失墜だけではなく、この街に居場所をなくすことを恐れているのだ。だから暴と力を持って、金を手に入れ、貴族の必要性を理解させる。完全なマッチポンプだが、せざるを得ないほどに追い込まれているのだ。
「貴族たちからすれば、自らの安寧を守るための行動。要するに自己防衛の一環なのです。それが外道であれなんであれ、手段です」
「なるほど……じゃあ間違っているっていうのは?」
「当然、市民たちからすれば大間違いですよ」
こちらの理屈はどこまでも簡単、これから起こる惨劇を、受ける側が受け入れる理屈などどこにもない。
「そう聞くと、どうしても貴族側がおかしいように思えるんだけど」
改めて理屈を言葉にすると、揺れていた気持ちが消えていく。一点のくもりも無く、貴族たちが間違っていると断言できるようになった。
イリアルは決意を込めてザイルを見た。しかし、驚いて決意が揺らいでしまう。ザイルは困ったような微笑みで見つめ返している。
「断言することはできないですよ。貴族側にものっぴきならない事情がある」
「へ?」
ザイルは懐から片手サイズのメモ帳を取り出した。何ページか捲ると、イリアルに差し出す。桁が多すぎてページの横いっぱいを埋め尽くす謎の数字が、いくつか並んでいる。数字の間には下に向かう数字が書かれていて、下に行くにつれて数字が大きくなっている。
「これは?」
「アイル王国から課せられる金額の変遷、ここ数ヶ月のものです」
「お父様の書斎に入ったの!?」
国から直接の書類は当主であるエルノウの書斎にしか置かれていない。それを数ヶ月分ということは、確実に忍び込んで盗み見たということだろう。
はっきり言って、ザイルは家族に嫌われている。
魔法の才能がからっきし無く、知識という側面でしか家族に貢献できない。だがザイルは頭の出来がお世辞にも良くないのだ。身体能力に関しては特筆すべきものがあるが、魔法による補強でその程度はすぐに追い越せるし、ディモス家の考えからすれば、魔法がなければ戦いではほぼ役に立てない。
無能として、家族から徹底的に嫌われてしまっているのだ。そんな人間が家長の部屋に侵入すればどうなるか、自明であろう。
弟を思い、イリアルは思わず立ち上がった。そんな姉の姿を、ザイルは心底おもしろそうに笑う。
「大丈夫ですよ。こっそりやりましたから」
「そういう問題じゃなくって!」
「それより、これは国から徴収される金の変遷です。下に行くほど最近です」
ザイルの言葉にイリアルも目つきを変える。
イリアルもまた武の才能が無い。勉学で家族に貢献するべく、必死で財政を学んできたのだ。国が街の貴族に徴収する金の大体の基準は把握している。だからこそ、下に行くほど増える金額が常軌を逸しているとすぐに理解できた。
「知っていますか? この街から森を挟んで向こう側、国境ギリギリにある村が、襲撃され、一人の生存者も無く滅んだという話があります」
「えっ!?」
「ほとんどが燃えて、証拠品と言えるものもほぼ残っていなかったようですが、燃えかすの中に隣国パルストスで流通している軍用森林擬態服が一部見つかったそうです。今、アイルの警察部がパルストスに「お前たちがやったんじゃないか?」と言っているそうですがあちらは「軍服が一部盗まれた。犯人は盗人の可能性が高い」と言っているそうです」
「それは……どこから?」
「カモラ兄さんの書斎」
頭痛がする。
カモラは極めて効率的な人間だ。無能を最も嫌う、つまり家族内で露骨なほどザイルを嫌っているのだ。
ザイルは何でもないことのように言っているが、綱渡りよりもスリリングなことを平然としているようなものなのだ。
理不尽な頭痛を起こさせた弟を睨みつける。弟はその事実に全く目を向けず、メモ帳を凝視している。
「この二つの事実が示すのは、戦争の前触れです」
「……」
「八代国だったのが、パルストスとのトラブルによって一国滅ぼされ、七代国になったように。いずれ大きな戦争が起きる。だから貴族たちも、自らの立場を堅牢にするために焦っているのです」
「でも……だからって人殺しは」
抵抗がある。その言葉を紡ぐ前に、ザイルがつま先で床を蹴った。
「人を殺すことの罪は、どこにあるんですかね」
ザイルの口調が鞭のようにイリアルの鼓膜を叩く。
「人を殺すことはもちろん悪いことです。ですが、自己防衛は人間の持つ権利の一つだと考えます。貴族たちがしようとしているのは、ある意味自己防衛に当たります。アイル王国が金を多く徴収するのも防衛手段。金が無いのに金が必要、しかし貴族が市民に素直に頭を下げられるわけもなし」
冷静に言葉に起こしていく。
がんじがらめというやつなのだ。貴族も市民も、見えない鎖に縛られて、糸で導かれるように最終手段へと向かってしまう。
であるならば、どこに罪悪はあり、誰が責任を取らなくてはならないのか。市民は自分たちで暮らしを作りたいだけ。貴族は今までの自分たちの暮らしを守りたいだけ。国は国防のための金が欲しいだけ。誰もが自分の事情のみを考えている。だから、どこも協力などせずに、ただ争いへと向かっていく。
「止められないの?」
「無理でしょうね。惨劇も戦争も、いずれ起こる。変化があるとすれば、その後だけです。きっと、大きな変化が起こりますよ」
ザイルはそう言って市民の暮らす街を見下ろした。
イリアルはさっきよりも厳しくなった頭痛を感じながら、縋るようにザイルの顔を見上げる。
背骨を突き刺されたような気分だ。ザイルの顔が引き裂かれたように歪み、鬼ですらも恐れるだろう笑みを浮かべていたから。
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