森の中で
「だあああああ!!! 助けてぇぇぇぇぇ!!」
みっともなく叫びながら、ジェッス・ドミラスは森を駆けた。
涙を流し、汗だくになって走るジェッスの背後には、鼻息荒いイノシシが十匹ほど、群れとなって追いかけてきていた。鋭い牙は、自分たちを怒らせたジェッスへと向いている。
その様子を、ジンは木の上から眺めていた。
「ほれほれ、頑張って逃げなよ」
「テメェ強いんだろうが! 俺にばっかりやらせてんじゃねえ!!」
命がかかっているから必死の形相で叫ぶ。その姿がジンには少しだけ面白い。
「仕方ないだろ? 儀礼だって言われたんだから」
そう言ってジンは握る薬草をひらひらさせた。依頼の薬草カモカだ。
登録したその日のうちに依頼に挑むことが冒険者委員会の通過儀礼との事で、二人は登録後すぐに森に来ていた。リエルに来るとき通らなかった場所で、魔獣のレベルも低いものがほとんどらしい安全エリア。
そのエリアで、ジェッスはイノシシの巣を突っついてしまったのだ。
ジェッスが100%悪いとは言い切れない。目的の薬草がその巣の傍にあったのだから。そして偶然草で足が滑ってしまったのだから。滑ったせいで蹴りがイノシシに命中してしまったのだから。ジンは決して責めようとは思わない。ちょっとイラッとするだけで。
ジンは木の上から、自分が登った木を中心にひたすらぐるぐる走り続けるジェッスを眺める。
ジェッス・ドミラス。ジンの故郷の村を襲った、パルストスとかいう国の兵士であり、ジンの時代からはずいぶんと劣った教育を受けてきたらしい青年。
町にたどり着くまでの三日間はこれからどうするだとかの話しかほぼしていなかった。踏み込もうと思えば踏み込めた。しかしジンはまず、これからの世界を把握することに必死で、ジェッスの素性という余計な部分まで踏み込もうとしなかった。
ジェッスがジンの村を襲撃したときは、大型の銃と軍刀を持っていた。だが現在はジンがそれらの装備を邪魔になると考えて、刀以外は置いていくように指示して置いていってしまった。
兵士であれば、ある程度魔法を使えて、それなりに戦闘能力があると考えていた。向き不向きや練度によって個人差はあれ、それがジン、いやドミ・ステイルの時代の兵士の水準だった。
実際のジェッスは目の前で無様に悲鳴を上げながら逃げ回るのみ。特別な力などに期待していたわけではないが、少し呆れてしまっていた。
「さっさと倒しなよ日が暮れる」
新兵に対し、ドミは基本的に厳しい。国を守るものたちに次々と試練は襲いくる。だからこそ、厳しく、ギリギリまで育てるべきという信念があるのだ。
だがそれは、新兵の覚悟ある者だから受け入れられる。
「馬鹿か! 剣一本でどうやって戦うんだ!」
煽りに対し、必死の形相で言い返す。隠しているのかとも思っていたが、どうやら本気で魔法を使えないようだった。
一度ため息を吐いて枝から降りる。大地を踏みしめる音がして、イノシシたちの意識がジンに向く。ようやくイノシシから解放されたジェッスは転がるように地面に座り込んだ。
イノシシが向かってくる。鼻息荒く地面を揺らし、あまりの勢いに風を巻き起こしながら。
ジンは一歩も動きはしない。魔法も発動はしない。ただ殺気と一緒に魔力を開放した。その瞬間、森のある範囲にだけ形容しがたいプレッシャーが広がった。それは範囲内に居るすべての生命、イノシシもジェッスも、木の枝で休んでいた小鳥たちも感じ取っていた。
まるで押しつぶすかのような、喉を締め付けるかのような、息苦しい空間が森に完成する。
その空間でジェッスは、必死に喉を握っていた。自分の息の根を止めようとしているわけではない。握ることで力を加えて無理やり喉を広げて気道を確保しようとしているのだ。その姿は自分を心臓マッサージしているようにも見えた。
木々が軋み音を立てるほどに、小鳥たちが一斉に飛び立つ。一瞬だけ太陽が隠れ、森が暗くなった。
殺意を直接向けられたイノシシたちは即座に命の危機を感じ取り、素早く後ろを向いて脱兎のごとく駆けだす。転んだ同族の事も全く気にせず、命を守るために森の奥の方へ逃げていった。
「行ったか。大丈夫か?」
にやりと笑ってジェッスへ問いかける。
ジンの余裕溢れる態度とジェッスの様子は大きく違っていて、ジェッスはほとんど過呼吸のような状態だった。
苦笑いしながらジンは木を背もたれにして座り込む。
「お前、なんで兵士やってんだ? このレベルの殺気、戦場ならいくらでも食らう事があるだろ」
苦笑いしながら問いかける。
未だゼヒュー、ゼヒュー、と過呼吸を続ける相手。届いていないわけではないのだが、回答まではもう少し時間を要する。ジンはその時間を、ただ空を見上げて待っていた。
木々の隙間から除く青空が美しいと思う。こののんびりした時間が愛しいと思う。老人のような穏やかな心を要素の一部として持ちながら、若く時間にも体力にもあふれた体。ある意味理想形のようにも思える姿だった。
やがて呼吸が安定し、ゆるりと視線をジンに向ける。
「兵士なんてやりたいわけないだろ」
心の底からブスくれた顔を向けるジェッス。ジンはそこに、初めてジェッスの心根をみた様な気がした。初対面であり、最悪のファーストインプレッションから奇妙な仲間関係になったため、ある意味感動できる状況ではあった。
だが、ジンはより深くジェッスを知るため、聞こえないはずもないのに耳をそば立てる。
「はあ? 自分で選ばなきゃ兵士になんてなれないだろ?」
「俺に選択肢は無い」
「というと?」
「俺は奴隷だ」
再び、強烈なプレッシャーが放たれた。だがそれはすぐに引っ込む。意図して出したものではなかったから。
さっき以上に強烈なプレッシャーは、範囲内に居た者たちを射殺さんばかりだった。全ての動物が死の気配を覚えるほどに。
ジェッスもまた全身から汗を垂れ流していた。震えが止まらない。指先が言うことを聞かず、寒くもないのに顎が揺れて歯がカチカチ音を鳴らしていた。
「悪い……怖がらせたな」
さっきまでのプレッシャーとは違う。慈愛の感情さえも感じさせる優しすぎる声。振れ幅に脳が追い付かない。
「お前は……奴隷?」
信じたくない。そんな感情が透けて見えるような声だった。ジェッスは一度息を吐いて、自分の内側を整えてから言葉を絞り出す。
「……そうだ」
「……それは、パルストスとかいう国だからなのか?」
「知らない。ただ俺は奴隷として買われて、国の使い捨てできる兵士として扱われていた」
「そうか……」
ジンの中でどんな感情が渦巻いているのか。ジェッスには想像もつかない。ただ良い感情がかけらも無いのは確かだ。
「俺は奴隷が嫌いなんだ……文化そのものに腹が立つ……字が読めないのも合点がいったよ」
「そうか?」
何でもないように答えるジェッス。心を痛めたような顔を見せるジン。
学の無いジェッスにだってわかる。両者の認識には、天と地ほどの乖離がある。言葉ややり取りに齟齬が無いからこそ、余計残酷な刃となってジンの心に響くものがあるのだろうと。
その心の内を理解できぬまま、数分の時間が経ってしまう。ジェッスの集中力もややきれ始めていた。
ジンはしばらく顎に手を当て、考え込む動作を見せる。今の会話のすべてがどうでもよくて、早く帰って宿屋にでも入りたかったジェッスは、ぽけぇと空を見つめていた。
「決めた。俺が生きていく術を教えてやる」
唐突に宣言された。
一瞬言葉の内容が理解できず、ジェッスは数秒空を見つめ続ける。徐々に内容が理解できると、驚きのあまり口が閉じなくなってしまった。
「は?」
「だから、俺が魔法や読み書きを教えてやるって言ったんだ」
改めて言われたが、あまりに唐突過ぎて、言葉が素直に染み込んでこなかった。
「なんで唐突に?」
「……まあ、知り合いと、お前が重なったからかな」
苦笑いして頬を掻きながら言っていた。
村を襲った時の憤怒っぷりや、旅の途中の朗らかな様子から、ジェッスはジンのことを感情の起伏がわかりやすい人物だと認識していた。そしてリエルの街に入る時の演技などから、ジンの中にある裏表についてもなんとなく感じ取り始めていた。そしてジンの感情を理解し切るのは、今の自分には決してできないということも。
だが今のジンの感情はジェッスにも僅かにではあるが読み取れていた。それはジェッスに対する何かしらの感情ではない。”知り合い”とやらに対する深い愛情であった。
自分に感情を向けていないことに腹が立つなんてことはない。そもそも知り合って三日だ。
訪れたのはただシンプルな興味。この異常者が愛情を抱く相手への興味だった。そして元々胸中にあった野心と、奴隷として生きてきた人生への復讐心が頭を擡げる。
拳を握りしめる。頭の奥が痒くなって、メラメラとしたものが宿った。
人を蔑み、道具として使い潰そうとしたアンちくしょうどもへ、復讐を果たすチャンスが来たのだ。ジンの姿が、自分に微笑む後光を纏った神聖なものに見えた。
自然と上がろうとする口角を必死で抑えて拳を握り、できる限り真剣な眼差しをジンに向ける。
「わかった……無様な人生を変えたい……よろしく頼む」
頭を下げる。今度こそ抑えきれずに口が裂けそうなくらい口角が上がった。
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