不特定多数
翌朝、会社への通勤途中で病院へ寄った俺は病棟の看護師に健康保険証を渡した。
面会時間より早すぎるが、前日に病棟のナースセンターで受け取って貰うように頼んでいたので、難なく渡せた。
病棟の看護師に「妻のことお願いします。」と告げて、会社に向かった。
会社に着くと、上司に「昨日は申し訳ありませんでした。妻は無事でした。」と告げると、「そうか。それは本当に良かった。君も無理せずに……。」と言ってくれた。
俺は思わず嘘を吐いた。
「事故でした。」
「そうか……大変だったな。
奥さんが無事で良かった。」
「……はい、ありがとうございます。」
嘘を吐いてしまった。
事件とは言えなかった。
部下たちにも嘘を吐いた。
「交通事故だったんですね。」
「……あぁ……。」
「無事で本当に良かったですね。」
「あぁ………ありがとう。
さぁ、この話はお終いだ。
仕事中だぞ。」
「はい。」
重苦しかった。
嘘を吐くのが……不倫していた頃、毎日妻に嘘を吐いていたのに、今は嘘を吐くのが重苦しく感じた。
仕事を終えて帰宅途中、紬が立っていた。
俺が乗る電車のホームで………。
⦅何故…………?⦆
「…………お疲れ様。」
「酷いわね。無視するの?」
「お疲れ様。」
「待って!」
「何か?」
「大切なことを話したいのよ。」
「大切なこと? 仕事の話は会社で聞くから、会社で明日にでも……。」
「プライベートのことだから!」
「じゃあ、早く話してくれ。」
「ここじゃ、誰かに聞かれたくないの。」
「さようなら。」
「お願い!」
腕を取られて離そうとした俺の耳に紬の大きな声が聞こえた。
「だからっ!」
周囲の眼が気になって、俺は慌てて周りを見回した。
幸いなことに社員は居なかった。
ホッとしたと同時に⦅何処かで話を聞かないとヤバい。⦆と思った俺は、紬に言った。
「話は聞くけど、全く別の場所で。」
「あの店がいいわ。」
「あの店?」
「二人で会っていたお店よ。覚えている?」
「……否、別の店にしよう。」
「え…………。」
「これから、そこに行くけど……島本さんは僕の後ろから付いて来て下さい。」
「島本さん………って呼ぶのね。」
「島本さんに間違いありませんよね。」
「そうね、間違ってないわ………付いて行くわ。」
電車の中では離れていて貰った。
⦅もう終わったのに、何の話なんだ!⦆と俺は腹が立った。
俺は自宅から離れた駅で降りた。
始めて降りる駅だった。
駅前のカフェに入った。
一番奥の席が空いていたので、そこに座った。
向かい合って座った島本紬は、寠れたように見えた。
「話って何?」
「あのね、驚かないでね。」
「早く話してくれないか。」
「私…………。」
「何?」
「………HIV……に感染したの。」
「え…………。」
「ネットで知り合った人に精子を提供して貰ったでしょ。
その時に感染したの。」
「…………………。」
「あなたも感染してると思うのよ。だから、検査して欲しいの。」
「………分かった。検査する。」
「そう…………。」
「何で分かったんだ?」
「その時の人からメッセージを貰って……私から感染したって言うのよ。
不特定多数と、そんなことしてないのに!
不特定多数と、そんなことしてたのは……そいつなのに!
私が感染源だって言ったのよ。
反論してやったわ。
『夫以外では初めてだった!』って言ってやったのよ。
愛する人の子を授かりたかったけど授けて貰えないから……。
同じ血液型の男性の精子を求めたのだと最初から言ってたのに!
『不特定多数としているのは、あんただ!』って言ってやったわ。」
「嘘も入ってるよな。」
「……嘘?」
「夫以外はしてない……って嘘だよな。
俺とはしてたから………。」
「そうね……でも、夫とは長い間レスだったから、その頃はあなただけよ。」
「俺は毎回必ずコンドームを着けていたから大丈夫だと思うけど、検査する。
このことを教えてくれてありがとう。」
「…………奥さん、怪我したの?」
「うん。」
「大丈夫なの?」
「あぁ、大丈夫だ。」
「へぇ―――っ、いいわね。元通りで………。
あなたは何も失わなかったのね。」
「君が家庭を失ったのは俺だけのせいじゃない。」
「そうね。」
「俺は最初から間違ってたんだ。セフレなど持たなければ良かったんだ。」
「セフレ……。」
「違うのか? 君が最初に言ったんだ。
心を求めない。家庭を壊さない。
違うか?」
「………言ったわ。」
「………じゃあ、お大事に………。」
俺はこのことを何故か……すみれに話した。
見舞いに行った時に……何故話したのか自分でも分からないのだ。
話してしまった……というのが正しいのかもしれない。
ただ、全てを話しいたのではない。
「元不倫相手が不特定多数の人と性交渉をして、HIVに感染した。」とだけ話した。




