EPISODE16. 前兆。
2025年7月19日。
黒いアスファルトの上に立ち上る熱気。その脇に長く連なる青々とした木々が作り出す木陰は、7月の暑さを和らげるにはあまりにも不十分だった。
首筋をかろうじて覆う黒いボブカット。
化粧は一切していないが、整った美しい顔立ち。
ドロップショルダーでガウチーフィットの白い半袖Tシャツに、ワックス加工された濃いインディゴのスキニージーンズを履いたウンビは、専攻するフランス語・フランス文学科の事務室がある丘の上へと、颯爽と登っていった。
「ウンビ! どこに行くの?」
背後から聞こえる聞き覚えのある声。ウンビは振り返ると、微笑んだ。
「ジェヨン。どうしたの?」
ウンビの視界に、青い半袖Tシャツに白いショートパンツを履いた女性が映り込んだ。
「私。試験が終わって、季節学期を受講しに来たんだ。あなたは?成績はオールAじゃないの?」
「うん、私、休学しようと思って。」
「休学?どうして?」
「うん、ちょっと用事があって。」
ウンビはジェヨンと呼ばれる女性を見て、力なく微笑んだ。
その微笑みを見たジェヨンは、それ以上尋ねることなくウンビの腕を組んだ。
「じゃあ、僕たち、素敵な彼女を学科事務室までエスコートしなきゃね?」
ジェヨンはウンビの腕を引いて階段へと向かった。
休学の手続きは驚くほど簡単だった。
ティーチングアシスタントは休学の理由も尋ねず、ただ「来学期の授業料を納めてもらわないと学籍は維持されません」という一言だけを残した。
お兄さんの残された時間を共に過ごすために。
お兄さんの旅路を見送るために。
そうしてウンビは現役の大学生から、休学中の大学生になった。
ウンビが学科事務室から出てきた時、ジェヨンはその前の廊下のプラスチック製のベンチに座って、スマートフォンを覗き込んでいた。
「待ってた?」
ウンビの声にジェヨンが顔を上げると、ウンビをじっと見つめた。
「君…君…これ…君?」
ウンビの目の前に突き出されたスマートフォンの画面には、見覚えのあるパブで笑いながら歌っている馴染みのある人たちが映っていた。
「うん、私よ。」
「めっちゃカッコいい!ガールクラッシュ!」
大騒ぎするジェヨンを背に、ウンビは建物を出た。
建物の外の太陽は相変わらず熱く、ウンビの心も少し熱くなったようだった。
いや、ときめいていた。
辛いが楽しい時間が近づいていた。
***
自分のカフェのバーの奥でカップを拭いていたハミンは、自分のテーブルを占領して腹を立てているセリンを見つめた。
「いや、みんな目がおかしくなったんですか?この素敵なハミン様を済州の黒豚だなんて!」
「済州産じゃないし、ソウル産ではあるけど…母系で言えばスペイン産?」
全身を使って怒りを爆発させているセリンに、ハミンは縮こまるような声で言った。
「それに、みんな耳がないの? どうしてこの素敵なギター演奏を聴いて『イマイチ』なんて…それに国民音楽を台無しにしたなんて!」
「あそこ、悪口より良いコメントの方が多いような気がするけど…なんでわざわざ悪口だけ見るの…」
セリンの怒りは尽きることがなく、ハミンの丸々とした体は、さらに上下が潰れた円形になった。
***
「あ。かかったな。」
ハンギョルは、一日中鳴りっぱなしでバッテリーが切れてしまったスマートフォンを見つめた。
「ただかかってくるだけか。」
今日に限ってスタジオにはスマートフォンの充電器も見当たらなかった。
「子供たちは今日来るかな?久しぶりに家に帰ろうか?」
ハンギョルが悩んでいたその時、ドアをノックする音が聞こえた。
「ギョル、中にいる?ドアを開けてよ。」
「あー、めんどくさいな…」
聞き覚えのある声を聞いたハンギョルは、頭をかきながらドアを開けた。
ハンギョルに引けを取らないほど大きな体格。
ただ、ハンギョルが上だけ大きかったのに対し、この男は横にもがっしりしていた。
「兄さん、どうしたの?」
「お前は一年間活動しないって言ってたじゃないか?休むって?」
隣家で小さな商売をしている兄貴だった。
アイドル商売……
「うちの連中の曲を作ってくれってさ……」
「……」
「……」
終わりのない愚痴がハンギョルを襲ってきた。
***
イウムはオフィスに座り、モニターをじっと見つめていた。
モニターの中には、パブで公演している友人たちの姿があった。
そして、なぜハンギョルがそこにいるのか、話題性狙いの大企業の企画バンドなのかといったコメントが書き込まれていた。
しばらくモニターを睨みつけていたイウムの肩を、誰かがポンポンと叩いた。
「ソエディター、もうそのバンド確認したの?早いね?今号の特集で書くつもり?」
イウムが振り向いて相手を見ると、親しくしているお姉さんが笑顔でコーヒーカップを差し出した。
「とりあえず一杯飲んでから書こう。でも、本当に噂通り、ハンギョルさんを雇った大企業の企画バンドなんですか?」
姉の言葉に一瞬表情を曇らせたイウムが答えた。
「いいえ、10年以上も前からある古いバンドですよ。」
イウムは再び顔を向け、モニターの中を覗き込むと、ワードプログラムを起動させた。
「最強のソ・イウム エディター。今日も新しいミュージシャンを皆さんにご紹介します!」
モニターに映る自分の決意に満ちた表情を見つめながら、イウムの指が華麗に動いた。
少し気恥ずかしかったが、無視した。怒りが先だった。
やがて、スタビライザーをドンドンと叩く力強い打鍵音がオフィスを支配した。
***
ハンギョルのスタジオ。
イウムがスタジオのドアを開けて入ると、目に入ったのは、スタジオの隅に置かれた古びた茶色のソファの前にしゃがみ込み、頭を寄せ合って何かを議論している4人の男たちだった。
イウムが不思議そうな表情を浮かべて近づくと、彼らの声が聞こえてきた。
「だから、これはダメなんだ!」
「いや、これが正しいんだってば!」
「あぁ、マジで、お前オタクか?なんでこんな風にしようとするんだ?」
「いや、本当に、なんでみんなこれが理解できないんだ?」
誰が何を言っているのか分からないほどごちゃ混ぜになった言葉の中、ハミンがぱっと立ち上がり、叫んだ。
「このソースにはケチャップが絶対に入らなきゃ…」 頭が痛くなったイウムは額に手を当て、目の前に見えるハミンの後頭部を掌で叩いた。 「お前ら、今こんなことしてる場合じゃないだろ?」 後頭部をさすりながら涙を浮かべるハミンと他のメンバーたちを見つめ、イウムは声を張り上げた。 「いや、こんなことしてなきゃ、何をすればいいの?」 ひどく悔しそうな表情のハミンがイウムに泣き声混じりで話しかけようとした時、ドアが開く音を聞いてスタジオの入り口を見つめた。 髪をショートカットに切ったウンビがドアを開けて入ってきた。 「え?ウンビ、髪?」 指を差すハミンを無視して、ウンビがイウムに挨拶した。 「お姉ちゃん、来たの?」 「うん、ウンビ来たの?でも休学ってちょっとどうかな?」 「大丈夫。こっちのほうが楽しいんだ。」 ウンビは明るく笑って言った。 イウムはそんなウンビを見て、何か言おうとしたが口を閉ざした。 「ウンビ、その髪、その髪!」 ハミンがウンビの髪を指さしていた頃、スマートフォンの着信音が聞こえてきた。 「え? やっと鳴ったの?」 ハンギョルは隅の充電器に挿しておいたスマートフォンをちらりと見た。 スマートフォンはしばらく鳴った後、切れた。そして再び鳴り始めた。 ヘジンがハンギョルに目配せした。 「うるさい、さっさと出なよ。」 ハンギョルはヘジンをしばらく睨みつけると、スマートフォンを操作して耳に当てた。 「はい、電話に出ました。」 「え?」 「松島ジャズフェスティバルですか?」 「はい。」 「メンバーと相談して、また連絡します。」 「はい。」 電話を切ったハンギョルがメンバーたちを見渡し、口を開いた。 「2週間後のフェスティバルへの参加依頼が来たよ。」 「お~フェスティバル~」 興奮したハミンの声が、ハンギョルの言葉にすぐさま続いた。 「でも、これって俺たちの音楽が認められたわけじゃないって分かってるだろ。単に俺の名前の重みで話題性があるから呼んだだけだ。」 「う~ 偉そうなこと言うなよ。」 興奮したハミンの野次。 ハンギョルは指を立ててハミンの目を指し示しながら言った。 「タンジシンツンを食って黙ってろ、この野郎」 「いつ時代の『タンジシントン』だ!このバカ、今は80年代じゃないし…」 ハミンがハンギョルをクスクスと嘲笑うと、ハンギョルの額に青筋が浮き出た。 「この黒豚め!」 ハンギョルがハミンを指差して叫ぶと、ハミンはクスクスと笑いながら答えた。 「クソレイシスト。」 その様子を見たヘジンが呟いた。 「英語テストで30点だった奴が、英語なんて話せるのか?」 ヘジンの呟きを聞いて冷静さを取り戻したハンギョルが、再びメンバーたちを見据えて言った。 「お前ら、フェスティバルに出たいか?」 ハンギョルの問いにヨハンがニヤリと笑い、親指を立てた。 「うん。ステージはいつでも歓迎だよ」 ハミンがいつの間に手に入れたのか、ギターを手に持ち、揺らした。 「うん。俺が最高に盛り上げてやるよ。ミョルニルが震えてるのが見えないか?」 ヘジンはクスクスと笑うと、顔を背けた。 「……面倒な奴ら。」
ヘジンの反応まで見届けたハンギョルは腕を組んで顎を突き出し、傲慢な表情で口を開いた。
「よし、じゃあ参加するってことで。文句を言われればどうなるか分かってるだろ?お前ら全員、徹底的に叩かれるんだ。俺でさえもな。」
「俺たちがいつそんなこと気にして遊んでた?ただ、小さな舞台で、少し小さくない舞台で遊ぼうってだけだろ。」
ヨハンが頭をガシガシ掻きながら気楽に言うと、メンバーたちは皆その様子を見て頷いた。
「よし、やってみよう。とりあえず連絡はしておくから、プレイリストをしっかり覚えておけ。」
「いや、それまだちゃんとできない奴がいるのか?」
ハミンが小言を言いながら周囲を見回すと、じっと自分を見つめるヘジンと目が合った。
「なんで俺を見てる?」
ハミンは両手を顎の下に揃えて、花形の手のひらを合わせ、言った。
「少しは良心を持ったらどうだ?」
ヘジンはぶつぶつ言いながら、ハミンの花形の手のひらをこれ以上見られず、顔を背けた。
ハミンは顔を背けたヘジンを見てニヤリと笑い、二本の指でVサインを作った。
***
2025年8月15日。
銀色の奇妙な形をした三つの構造物の間を、青いミニバスがゆっくりと這うように入ってきた。
建物の脇に止まったバスは、数人を降ろすと、しばらく前後に動き回り、ようやく駐車に成功した。
「はあ、あのバカ、いつになったらちゃんと駐車できるんだ?」
ヨハンが運転席のハミンを見つめながら愚痴った。
「あのボロバスを売り払った方が早いんじゃないか。」
ハンギョルがヨハンの言葉に答えると、駐車されたミニバスに向かって歩き出した。
「さあ、女性陣はみんなあっちへ行ってて、男たちは早く来て機材を出そう。」
運転席から降りたハミンが、いつの間にかバスの後部ドアに近づき、バスの下部収納スペースを開けた。
開いた収納スペースから、黒いアンプやキーボード、ハンギョルのDJブースのような機材が次々と取り出された。
緑色の車輪付き台車に機材を積み込んだ一行が出発しようとしたその時、ハミンが叫んだ。
「それだけじゃ足りない!」
いつの間にかバスに乗り込んだハミンが、天井上の収納棚を開けて、暗赤色の布切れを取り出した。
「俺たちのステージ衣装。俺が準備したんだ!」
卒業した高校の制服が、メンバーの人数分、車両の天井から現れた。
「ちくしょう。来年で30歳になるのに、制服なんて着るわけないだろ?」
ヨハンがぶつぶつ言うと、妙な目つきでヨハンを見つめ、ヘジンが言った。
「その顔に制服はちょっと無理があるけど。10年前もそうだったじゃないか?」
ヘジンを見つめながら歯を見せたヨハンが、再びヘジンに飛びかかった。
「これ、10年前に使ってたカートじゃない?」
ハンギョルがハミンに話しかけようとして、しまったという表情でヨハンを見た。
「違うよ。これ、昨日ハミンってあの野郎が、うちにあるのを盗んできたんだ。」
ヨハンは何事もなかったような表情で、ハミンの後頭部を殴った。
「許可も取らずに。」
後頭部を殴られたハミンは、ハハハと笑いながらヨハンを見つめた。
「拳がちょっと弱いな? 弱虫め、弱々しくて。」
「やってみるか?」
制服を着たぽっちゃりしたハミンが逃げ出し、不良っぽく同じく制服を羽織ったヨハンが、そんなハミンを追いかけて走り出した。
残った者たちは、そんな二人を呆れたような表情で見つめ、機材をまとめて再び歩き出した。
松島ジャズフェスティバルのサブステージとして機能する水上ステージ。
ヨハンと仲間たちが忙しく動き回り、ステージの設営をしていた。
しばらく時間が経ち、準備が完了した後、ハンギョルが皆を見渡して口を開いた。
「準備はできたか?」
ヨハンが牙をむき出しにして笑った。
「遊ぶのに準備なんて必要か?」
ハミンは、その大きな体格と対照的にさらに小さく見えるヘッドレスギターを揺らした。
「俺のミョルニルから飛び出す電流の束が見えないのか?もちろん、良い人たちにしか見えない電流だけどな。」
ヘジンは何も言わずにベースギターを持ち上げた。
「……」
ウンビは短くなった髪を耳の後ろに掻き上げながら言った。
「おじさんたち、なんでそんなに気取りすぎなの?」
ウンビの微笑みを見つめながら、ヘジンはエアドラムのスティックを振り回した。
「さあ、それでは始めよう!」
***
2025年8月1日。インターネット音楽ウェブマガジン「OOO」に、ある論説が掲載された。
最近、物議を醸しているバンドがある。
著名な作曲家であり人気シンガーソングライターであるハンギョルが所属するこのバンドは、大企業の資本が投入された企画型バンド、あるいは最近チャートインして上位にランクインしているバンドの楽曲を作曲し、金に目がくらんだ彼の野心が生み出したバンドとして知られている。
筆者がこのバンドを知ったのは12年前、2013年のことだった。
美しい美声を持つボーカリスト。
スペイン系黒人の血が混ざり、グルーヴ溢れるギタリスト。
そして、クラシックのピアノ神童と呼ばれたハン・ギョル。
彼らが集結し、その後、天才的なジャズベーシストを迎え入れ、バンドは完成した。彼らは当時から現在に至るまで、バンドシーンの主流である「ロック」には従わなかった。
クラシックとジャズを基盤としたオルタナティブ。10年前にも、そして今の基準で見ても破格的な音楽を追求していた彼らだった。
彼らは毎回、互いに叫び合い、笑い、喧嘩し、協力し合い、そうして華やかに高校時代を燃やし尽くしながら、自分たちだけの独特な音を生み出し、高校卒業後に何らかの事故により解散した。
そして10年の時が経った今、その長い時間を飛び越え、その間に作り上げられた、あるいは磨き上げられた、あるいはかろうじて成し遂げたそれぞれの個性的な音を、互いに殺し合うことも、妥協することもなく、そうして再び一つになった。
この時点で、本編集者は堂々とあなたたちにこう言おう。
「あなたたちは間違っている。」
彼らは成功のための音楽をしているのではない。
ただ自分たちが出せる音を作り、その音を披露する、そのような音楽だけを追求しているに過ぎない。
彼らは成功のための音楽をしない。
ただ自分たちの音を出すだけだ。
ある人はこう言うだろう。
日記は自分の日記帳に書け、と。
間違った言葉ではない。
しかし、必ずしも成功欲求や承認欲求でなくとも、自分の意志を表現したいという欲望は常に存在する。
だから、あえてお願いしたい。
彼らの音があなたの好みに合わないかもしれない。10年ぶりに現れて好き勝手に騒ぐこの騒音が不快に思えるかもしれない。
たとえ彼らを応援しなくとも、ただ嫌悪の目で見ることはしないでほしい。
彼らはただ、自分たちの声を出しているだけなのだから。
しかし、誰かには、彼らの世界に向けた最後の叫びを、その声を聞いた編集者と共に聞いてほしい。
筆者:ソ・イウム エディター。




