Episode02. 静かな整理。
ヨハンは顔を上げ、白に近い灰色をした巨大な建物を見上げた。
聖ヨハン病院。
自分の名前と同じ名前の病院。挫折と希望を同時に与え、結局自分が死んでいったあの場所。ヨハンは一度首を振り、無理に笑みを浮かべて建物の内へと足を踏み入れた。
病院の内部は、見るだけで威圧的な広さだった。冷たい色調の室内と洗練されたインテリア。中央で稼働中のエスカレーターは、休む間もなく人々を運び続けていた。
受付の前に立ったヨハンは周囲を見回した。受付前の待合椅子には多くの人々が座っていた。白髪の老人。幼い子供をなだめる若い女性。足にギプスをしたおじさん。皆、一様に暗い表情を浮かべていた。
ヨハンは自分の顔に触れてみた。温かい肌、少し硬い口元。両手で頬を軽く叩いた。口の中で次々と呟いた。
「良い考え、幸せな考え、嬉しい考え。」
受付の横で順番札を受け取った。待機者16名。
しばらく番号札をじっと見つめた後、待合室の青いプラスチックの椅子に座った。冷たく硬い椅子の感触が、ヨハンの服の下の肌に伝わってきた。
「膠芽腫と思われます。」
白髪交じりの、四角い金縁の眼鏡をかけた医師が、感情のない事務的な口調で言うと、ヨハンはうなずいた。
「長くても12ヶ月です。」
何の表情も見せず、ただもう一度うなずいた。
「治療を受けられれば……」
医者の言葉が終わる前に、ヨハンは口を開いた。
「いいえ、治療は受けません。」
医者の訝しげな表情を見つめながら、再び言葉を続けた。
「残された時間を有意義に過ごしたいのです。」
医師は黙ってヨハンを見つめた。
「進行を遅らせる薬だけを処方してください。それだけで結構です。」
無表情なヨハンの言葉に、医師はうなずいた。
「処方箋は用意しておきます。」
「ありがとうございます。」
挨拶をして背を向け、出口へ向かうヨハンに、医師の声が聞こえてきた。
「コヨハンさん。辛いでしょう。」
一瞬足を止めたヨハンが再び歩みを進め、出入り口のドアノブを握った。
「これ、持って行ってください。」
医者の声に、ヨハンは振り返って相手を見た。いつの間にかヨハンの背後に近づいていた医者が、ポケットから名刺を取り出して手渡した。
神経外科教授、ソ・ムンド。
ヨハンは名刺を受け取り、ポケットにしまった。
「ありがとうございます。」
挨拶をして診察室を出ようとした時、ふとヨハンは振り返り、再び診察室の入り口を見た。年配の医師、ソ・ムンド教授が自分を見つめ、軽く会釈をした。ヨハンも再び軽く会釈をした後、振り返って病院を出た。
***
ヨハンがオフィスに入ると、親しくしている同僚の一人がヨハンに挨拶を投げかけた。
「おっ。我らが愛すべきヨハンさんが来られたね?おいおい、お前、朝から社長が必死に探してたぞ。」
ヨハンはくすりと笑うと、何も言わずに席へ行って座ると、ついてきた同僚がヨハンの脇腹をツンツンと突いた。
「おい、とりあえずタバコ一本どうだ?」
「あぁ、もう。まずはパソコンを起動しようよ。」
ヨハンは同僚を見つめ、顔をしかめた。険しいヨハンの表情を目の当たりにした同僚は、「あっ、やばい」という顔でぶつぶつ言いながら自分の席に戻っていった。
パソコンの電源ボタンを押すと、ファンとハードディスクが回る音が聞こえてきた。
「ケチな社長め、今どきHDDを使ってる会社なんてどこにあるんだ…」
ヨハンがぶつぶつ言いながら起動を待っている間に、逃げ出していた同僚が戻ってきて、ヨハンの耳元で囁いた。
「行こう~ヨハン、一服しに行こう~ハァッ。」
ヨハンは一瞬、鳥肌が立つような表情を浮かべたが、首を振った
「ああ、行こう。戻ってくる頃には起動してるだろう。」
ヨハンは古びたデスクトップを睨みつけると、鞄の中からタバコとライターを取り出して立ち上がった。同僚はクスクスと笑うと、先頭に立ってオフィスのドアの外へ出た。
ヨハンはしばらくオフィスのドアの前で、奥にある社長室の方を見つめた後、オフィスの外へ出た。
***
雨の日のタバコは格別に美味しかった。体調が優れない時のタバコは、さらに風味が際立っていた。どうやら体に悪いことをしているという背徳感のおかげで、より鋭く感じられるのかもしれない。
ヨハンが灰色の空の下に散っていくタバコの煙を眺めながらそんなことを考えている頃、同僚の声が聞こえてきた。
「ところで、今日はなんで遅れたんだ?」
「ああ、ちょっと病院に行ってきてさ。」
「病院に?」
同僚の質問に、ヨハンはしばらく考え込んでしまった。
『こいつ、前世で俺の見舞いに何回来たっけ?二回?そういえば社長は一度も来なかったな……あ、そういえば退職金ももらえてない気がするな。』
ヨハンの額に青筋が浮き出た。
「……」
ふと、二度来たこの野郎が泣きながら帰っていったことを思い出した。おそらく葬儀にも来て、少し金を渡して帰ったのだろう。ヨハンの額で存在感を誇っていた青筋が消え、ヨハンの顔に笑みが浮かんだ。
「楽しく生きようと思って、ちょっと様子を見に行ってきてさ。」
「楽しく生きることと病院のチェックに何の関係があるんだ。」
「ああ、そういう確信が必要だったんだ。」
「こいつの顔を見れば、クソほど健康なわけだ。」
笑う同僚の顔に、ふと、かつての――いや、前世の、涙ぐんでいた表情がよぎった。
「失せろ!」
ヨハンは同僚に向かってクスクスと笑いながら吐き捨てた。死にかけている自分を見つめながら涙ぐんでいたあの顔に言ったのと同じ言葉だった。その時とは少し、いやかなり違うニュアンスだった。
「おい、ここじゃなきゃタバコを吸う場所がないんだぞ。失せろってどこへ行くんだ、お前の方が失せろよ。」
同僚はクスクス笑いながら、ヨハンにからかった。
***
オフィスに戻ったヨハンは、起動が完了したパソコンの前に座り、会社の共有フォルダに入ってファイルを一つダウンロードした。
[JnS_ソリューション_退職願.hwp]
ファイルを開き、日付を入力した。
2025年1月2日。
退職事由欄に文章を入力した。
健康上の理由により退職いたします。
今回は退職金をきちんとお支払いください。
その下に自分の名前を一文字一文字丁寧に打ち込んだ。
ㄱ。コ。ゴン。コヨ。コヨット。コヨハ。コヨハン。
キーボードのコントロールキーと「ㅔ」キーを押すと、印刷ウィンドウが現れた。ウィンドウの右上にある印刷ボタンを押した。オフィスの片隅から、ジジジッとプリンターが紙を巻き取る音が聞こえてきた。
なぜか、なんだか胸のつかえが取れたような気がした。
退職手続きは瞬く間に終わった。
社長室に入り、何か言おうとする社長の前に「辞表」と書かれた封筒を置くと、封筒とヨハンの顔を交互に見つめた社長は、ずんぐりした顎を震わせ、供物台の豚の頭のような笑みを浮かべると、何かぶつぶつ呟いては、ファイルの引き継ぎだけ済ませてすぐに帰れと言った。
おそらく引き継ぎ期間中の給料も節約したかったのだろうと、ヨハンは思った。
3年の歳月が3分で終わる瞬間だった。
会社を出ようとしたヨハンは、ポケットの中の振動を感じて、ポケットからスマートフォンを取り出し画面を見た。画面を見るヨハンの表情は喜びを浮かべたかと思うと、すぐに悲しみに変わった。そしてしばらくして無表情に戻った。
両手でスマートフォンを包み込むように握り、親指で丁寧にキーを叩いた。
イウム。ごめん。
もう終わりにしよう。
メッセージを送信した。数秒も経たないうちにスマートフォンが鳴った。鳴り響くスマートフォンをじっと見つめていたヨハンは、スマートフォンの電源を切った。
10年の歳月が10秒で終わった。
雨はとっくに止んでいたが、黒いスマートフォンの画面の上には、まだ雨粒が落ちてきた。
***
あてもなく歩いていたヨハンの目の前に、見慣れた赤レンガの塀が現れた。レンガの塀に沿って進むと、見覚えのある小さな鉄格子の門が見えた。
ヨハンはまるで魅了されたかのように鉄門に近づき、扉を開けた。油が十分に差されておらず、錆びた鉄門が開く不気味な音が聞こえた。
開いた鉄門の中に入った。膝の高さほどの、ひっそりと伸びた茶色の枝が絡み合う1月の迷路のような庭が現れた。一見複雑に見える庭を素通りし、本館を過ぎて小運動場の横にある講堂へ向かった。青い亜鉛メッキのスレートが見える講堂が、次第に近づいてきた。
講堂の前にたどり着いたヨハンは、ためらうことなく重い扉を開け、中へ入った。
木製の床、高い天井、天井には鉄骨トラスがジグザグに絡み合っていた。入口から正面に見える演壇を見つめた。ヨハンの目の前に、演壇の上に立つ4人の子供たちの姿が見えるようだった。
制服を着て歌っている自分、左側で青い小さなヘッドレスギターを弾いていたぽっちゃりした黒人の少年、ハミン。右側で黄色いツインテールをして金色のベースを弾いていたヘジン。一番後ろでテーブルの上にノートパソコンと電子ドラムパッド、キーボードを広げて演奏していた、体格だけは熊のようなドジなハンギョル。
子供たちの歓声が聞こえてくるようだった。
しばらくうっとりとしたように見つめていたヨハンが、唇をぎゅっと噛みしめた。
忘れようとしていた約束が頭をよぎった。
忘れたいと思っていた痛みが蘇った。
忘れていた熱望がよみがえった。
「私は…」
歌いたい。
「私は…」
この傷ついた喉で、私は再び海雲台のあのステージの上で歌うつもりだ。
「私はまた歌うつもりだ。また。」
荒々しい金属音が混じった声が、空っぽの講堂の中に静かに広がっていった。
***
ヨハンは走った。薄暗さが漂い、冷え込んだ通りを笑いながら走った。
息が切れたが、心臓が締め付けられるような感覚がしたが、呼吸が足りず息をするのが辛かったが、それでも走った。暗い通りの先、遠くにハミンのカフェの明かりが見えた。
「おい、ド・ハミン!やろうぜ!」
カフェのドアをバタンと開けて叫ぶヨハンに、店内にいた人々の視線が集まった。
「何言ってんだ?このクレイジー野郎。」
カウンターで赤い布巾でカップを拭いていたハミンが、不思議そうな表情を浮かべてヨハンを見つめた。
「やろうぜ、この野郎! もう一度やろう! 俺が歌うから。お前、海雲台までついてこい!」
上半身を屈めて膝に手を置いたヨハンは、ハアハアと息を切らした後、顔を上げて言った。いたずらっぽい表情で、特有の牙をのぞかせる野生の馬のような笑みを浮かべながら。
***
カフェの明かりが消えた。
シャッターを下ろし、振り返って歩き出す、致命的に丸みを帯びた体つきのハミンが、向かいのコンビニのパラソルに腰かけ、ビール缶をちびちび飲んでいるヨハンに近づいた。
ヨハンは6本パックのうち、残っていた5本のうち1本をつかみ、ハミンに投げつけた。
「このバカ!ビールを振ったら破裂するってば!」
ハミンの悲鳴が聞こえてきた。
「これこそがロックスピリットだ。弾けるビールの泡のように……」
「クレイジー野郎が、いつロックをやったって言うんだ。お前、ロックを知ってるのか?」
ハミンの冷めた反応に、ヨハンは細長いカニカマのビニールを剥がし、口に運んでかじった。
「ロックは知らなくても、カニカマなら知ってるよ。」
口に赤と白のカニカマをくわえたヨハンが、クスクス笑いながら返した。
その様子を見ていたハミンは、ふっと笑うとビール缶を開けた。予想通り、泡が吹き出した。
「ティブルム。」
「おい、さっきの何の話だよ?海雲台までついて来いって?」
ハミンが珍しく真剣な表情でヨハンに尋ねた。
「俺と、お前。それに友達も一緒に、ストリートライブをしに行くんだ。海雲台へ。」
「……」
すっかり明るい様子のヨハンを見つめていたハミンが、真剣な表情で尋ねた。
「もう大丈夫か? 海雲台は?」
「大丈夫とかどうとか、そんなことどうでもいい。ただ、これがやりたくなったんだ。一緒に行こう。」
ヨハンの冗談に、ハミンはくすりと笑った。
「会社は?どうするんだ?」
「ああ。今日、辞めてきた。辞表を出したら、いいぞと言って、二度と出てこいと言ってきたよ。ケチな野郎。」
ヨハンのくすくす笑いに、ハミンは心配そうな表情を消して笑いながら言った。
「おい、じゃあ退職金で旅行に行くってことか?宿泊費は君が負担するんだろ?」
「割り勘だぜ。金持ちの息子がケチなもんな。」
「そう言うのも金持ちの息子なのに?」
「おいハミン、俺の母さんが金持ちであって、俺が金持ちか?」
「俺の母さんが金持ちだから、俺も金持ちみたいに見えるだろ?お前もそうじゃないか?」
「いや、お前も金持ちじゃないよ。ハエがたかるカフェの店主さん。」
ヨハンの言葉にハミンは腹を立ててぶつぶつ文句を言った。ヨハンはそんなハミンを見ながら、飲み干したビール缶をくしゃくしゃに丸めて、また新しい缶を開けた。
「行こう。海雲台。君と僕、そして僕たちの夢が砕けたあの場所へ。」
ビールをひと口飲んだヨハンが言った。
「ああ、行こう。」
ビールをひと口飲んだハミンが言った。
二人の家の前の路地の夜は、そうして深まっていった。




