EPISODE14. 回帰線。
2025年7月12日。ハンギョルのスタジオ。
ハンギョルとハミンが頭を寄せ合い、机の上をじっと見つめている。
二人の視線の先には、ヨハンの手帳が開かれていた。
ボールペンで力強く書き込まれた歌詞。
回帰線。
空っぽの機械の中に閉じ込められたかのように、
静寂だけが私を締め付ける。
波乱を夢見た十九歳、
残されたのは傷だけという波乱。
真っ白な泡が砕けるように、
壊れていた夢を取り戻して。
偽りの笑みが
今は真実になった。
死によって取り戻した命。
約束へと続く道。
夢のような旅の果てに
約束の果てにたどり着いた。
しばらくノートを見つめ続けていたハンギョルが口を開いた。
「これ、何か出てくるような匂いがほのかに漂ってるんだけど。」
ハミンが手帳に鼻を押し付けて言った。
「紙の匂いしかしないけど?」
ハンギョルは熊のような手を伸ばして、ハミンの頭を押し下げた。
「匂いを存分に嗅いでおけ。」
ハンギョルとハミンが互いを見つめ合い、同時に口を開いた。
「シューゲイザー!」
「スクリーモ!」
ハンギョルが唸った。
「シューゲイザーだ!」
ハミンが指を立てた。
「タン。チュ。シン↗。トオン↘」
ハンギョルがハミンの指をつかんでひねった。
ハンギョルは眉をひそめて言った。
「ヨハンの声のコンディションを考えるとシューゲイザーだ。これを中途半端にエモ系にしたら大変だ。何より、ヨハンあの野郎、ボーカルが二曲連続なんだから。」
「いや、それってセットリストの順番を変えればいいだけじゃない!それに俺はヨハンを信じてる!天才ボーカル!」
ハミンが唾を飛ばしながら熱弁をふるった。
透明な液体が飛んでいき、ハンギョルの唇に降り注いだ。
ハンギョルは膝をつきながら呟いた。
「俺の純潔が…」
「セットリストは観客の反応を高めるために組まれたんだ。順序の変更はダメだ。」
ハンギョルが断固とした口調で言うと、ハミンは舌を出した。
怒ったハンギョルがハミンに飛びかかった。
ガタガタという音と共に、二人が転げ回った。
「バカども、また床で遊んでるのか?」
ヨハンの声が聞こえてきた。
「シューゲイザーで行こう。」
経緯を聞いたヨハンが笑いながら口を開いた。
「何のことか分かってるの?」
ハンギョルがヨハンをじっと見つめながら尋ねた。
「いや、シューゲイザーの方が響きがカッコいいから。」
ヨハンの純真な答えに、ハンギョルは額に手を当てた。
「ヨハンはスクリーモを歌うべきだ!」
「シューゲイザーだ!」
「適当にやれ! 痛い、水かけないで!」
ヘジンが入ってきた時、目に飛び込んできたのは大混乱のスタジオだった。
クマ一匹と、黒い奴と白い奴が床で転げ回っている姿。
「楽しそうに遊んでるね?」
ヘジンが呟いた。
その声を聞いたのか、動きを止めた三人がヘジンを見つめた。
「遊んでるんじゃない!」
「じゃあ、やってみればいいじゃん。曲を作ってアレンジして。」
ヘジンの言葉で、混乱していた雰囲気が一時的に落ち着いた。
ハンギョルがモニターの中に没頭している頃、ヨハンが口を開いた。
「お腹空いた。外でご飯食べてこよう。」
「ハンギョルは?」
「あいつ、さっき俺の太ももを食べたから、お腹いっぱいだろう。」
「……」
「行こう。」
ヨハンがスタジオの外へ出た。
ヘジンも後を追って出て行った。
ハミンはハンギョルをちらりと見ると、飛び出していった。
ハンギョルはモニターに顔を埋めたまま、 何も気づいていなかった。
ハンギョルが顔を上げた。
窓から差し込む温かな日差し。
立ち込めるタバコの煙。
満杯の灰皿。
周りには誰もいなかった。
「こいつら、どこへ行ったんだ?」
時計を確認した。
14時42分。
「え?もう?」
時間を確認したハンギョルの眼差しが揺れた。
「まさか、こいつら俺だけ置いて…」
ハンギョルは両目を閉じた。
「ハンバーガー一つくらい買ってきてくれるだろう。」
切実な気持ちで、友達を信じたいと思った。
「キンパ一本でも……」
信じられなかった。
ピッピビックピッピク。スタジオのドアが開いた。
ハンギョルは笑って顔を向けた。
「来たのか? 俺の分も買っ……。」
ヨハンとイウムが手をつないで入ってきた。
ハンギョルの瞳孔が揺れた。
ヘジンとセジンが腕を組んで入ってきた。
ハンギョルは両目をぎゅっと閉じた。
ハンギョルは目を見開き、叫んだ。
「このクソッタレなカップルめ!」
その叫び声を聞いたのか、周囲を気にしながらこっそりと入ってくるハミンとセリンが見えた。
ハンギョルは激怒した表情で呟いた。
「ジャバドジャバと終わりのない一対の車輪…」
「カクラ~チュ。」
ドアの中に入ろうとしていたウンビは、自分でも気づかないうちに声が出てしまったかのように、驚いた表情で口を押さえた。
ヘッドセットを装着したヨハンが、録音室の中に一人で入っている。
[とりあえずシューゲイザー・バージョンからやる。楽譜は覚えたか?]
ハンギョルの声が聞こえてきた。
「おい、俺、楽譜読めないって何度言ったらわかるんだ?」
[いや、今まで楽譜も読めないくせに何してたんだ?]
「いや、そういうこともあるだろ。そんなことで何て…」
[とりあえず、自分でやってみろ]
ヨハンが歯を見せて笑った。
ヘッドセットから音楽が流れ出した。
ヨハンがマイクを両手で握り、顔を近づけた。
「空っぽの機械の中に閉じ込められたかのように、静寂だけが私を締め付ける。」
「波乱を夢見た十九歳、残されたのは傷だらけの波乱。」
「死によって取り戻した命。約束へと続く道。」
「夢のような旅の終わり。約束の果てにたどり着いた。」
歌を止めて、録音室の外にいるハンギョルを見つめた。
ハンギョルは親指と人差し指を丸めて、残りの指を広げてOKサインを送った。
[よし。少し休憩して、次はスクリーモバージョンで行く]
ヨハンはマイクを飲み込むほど口を大きく開けて歌った。
首の血管が浮き出て、脈打っていた。
「夢のような旅の終わり。約束の果てにたどり着いた。」
歌が終わり、ヨハンはハアハアと息を切らしていた。
[お疲れ。外に出て、一緒に聴いてみよう。]
「私はシューゲイザーに一票。」
ヘジンが言った。
「お兄さんがスクリーモ? 歌う時、すごく辛そうだったよ。私もシューゲイザー。」
ウンビが言った。
「私はスク...ゴホッ!」
「君と僕には投票権はない。」
ハンギョルがハミンの喉仏を手の甲で軽く叩いた。
「他の方たちはどうですか?」
ハンギョルが隅に座っていた女性たちに向かって言った。
「オホホ。PDさんがついに私の目利きを認めてくださったんですね。でも二人とも好みじゃないから。」
「私は何が何だか分からなくて。」
「ヨハンが大変なのは嫌だ。」
三人の女性の答えに、ハンギョルは満足げな笑みを浮かべた。
「投票の結果は、ドゥドゥドゥドゥ。」
「いや、投票も何もない、結論は出たじゃないか、何だよ?」
ハミンがぶつぶつと文句を言った。
「さて、これから何する?」
ハミンが頭をかきながら尋ねた。
「おほほ、ハミン様、私と一緒に…」
「ご飯を食べに行く時間じゃない?」
ヨハンが満面の笑みを浮かべて言った。
「この野郎…」
ハンギョルは諦めた。
「……」
ヘジンはそうして状況を見守っていた。
ウンビが外に出ようとしている一行に言った。
「お兄ちゃんたち、前にキャンプに行ったんでしょ?私も行きたいな。」
「おー、グッドガール~ すごくグッドアイデア~」
ハミンが笑った。
***
暑い夏。
熱気が立ち上るアスファルトの上を、白と青のミニバスがガタガタと音を立てながら懸命に走っている。
運転席にはハミンが、助手席にはセリンが座っていた。
セリンはハミンをじっと見つめており、ハミンは相変わらずハンドルに張り付いて運転していた。
助手席のすぐ後ろ、1人掛けのソファにはハンギョルが座っていた。
ノートパソコンを見つめながら何か作業をしていても、笑い声が聞こえるたびに眉をひそめた。
後方にL字型に続くソファには、ヨハンとイウム、ウンビ、セジン、ヘジンが順に座っていた。
中央のテーブルにはテーブルベルが置かれており、5人の前には同じ枚数に分けられたカードの山が整然と積まれていた。
ヨハンが唾をゴクリと飲み込んだ。
自分のカードの山の一枚目を裏返し、テーブルに置いた。
イチゴの2。
イウムが自分のカードの山から一枚を取り出し、テーブルの中央に置いた。
バナナの3。
ヨハンがびくっとした。
ウンビがカードを出した。
イチゴの4。
ヨハンが動いた。
手は目よりも速い!
テーブルベルの音がバスの中に響き渡った。
耳が痛かったのか、ハンギョルが睨みつけたが、誰も気にしなかった。
イウムが気の毒そうな表情でヨハンを見つめた。
ウンビが満腹そうな笑みを浮かべた。
ヘジンがヨハンをじっと見つめながら手のひらを差し出した。
セジンも一緒に手のひらを差し出した。
ヨハンが顔をしかめた。
敗北の味は苦かった。
セジンがカードを置いた。
プラム3
すでに置かれていたカードはバナナ4。そしてイチゴ2と1。
イチゴは出なかった。
ヨハンの手が自分のカードの山へと向かった。
ゴクリと唾を飲み込んだ。喉仏が揺れた。
カードを裏返した。
ライム5。
ヨハンの手が素早くテーブルの中央へと向かった。
ヘジンの手も同時に近づいてきていた。
「俺の方が早い!」
ヨハンは心の中で叫んだ。
テーブルベルに手が触れようとした瞬間、ヘジンの手がヨハンの指先を弾き飛ばした。
体を飛ばすように左手を伸ばし、ヘジンの手を掴んだ。
指先に感触が伝わると、すぐに引いた。
ヘジンがテーブルの上に倒れ込んだ。
回収した右手をテーブルベルに向けて伸ばした。
「これでこのベルは俺のものだ。」
ヨハンはそう思った。
車が揺れた。
テーブルベルが床に転がり落ちた。
その惨状を見てウンビが言った。
「それ、間違ってるんだけど…」
***
夕日がゆっくりと沈んでいく時間。
キャンプ場に白と青のミニバスが入ってきた。
「うわっ、着いた!」
「ハミンさん、お疲れ様でした。」
セリンがハミンの額にハンカチを当てた。
ハミンの額には一滴の汗もなく、さらさらとした状態だった。
「さあ、荷物を降ろそう!」
ハンギョルがノートパソコンを閉じて立ち上がった。
ヨハンが入り口近くの床にあるハンドルを引いた。
車内の床が開き、持ってきた荷物が姿を現した。
「ずいぶんたくさん持って来たね。」
ヨハンのつぶやきに、運転席に座っていたハミンが顔を向けて言った。
「あれ、重心のバランスを取るために、しばらくそのまま積んで走ってたんだ。」
「自慢だよ。」
ヨハンはぶつぶつ言いながら荷物を降ろした。
ミニバスの横にオーニングが広がった。
オーニングの下にキャンプ用の椅子やテーブルが並べられた。
ヨハンと友人たちは忙しく動き回った。
いつの間にか闇が降りたキャンプ場。
屋根から横に張り出したオーニングの下、ヨハンと友人たちが集まっている。
少し離れた場所には、エプロンを巻いてグリドルパンの前で肉とソーセージを焼いている二人がいた。
時折ちらりと現れるヨハンを追い払い、ため息をつくハンギョルと、集中して肉を見つめているヘジンだった。
「ヨハンもハミンも、拾って食べることはできても、肉を焼くことなんてできないんだから。」
ため息をつきながらぶつぶつ文句を言うハンギョルの視界の端に映ったのは、容器の中に捨てられた真っ黒に焦げた肉の塊だった。
「こちら、お肉です。」
セジンが焼き上がった肉とハムを持ってきて、日よけの下のテーブルの上に置いた。
厚く切られた山盛りの豚バラ肉がヨハンの目に飛び込んだ。
艶を帯び、油がまだジュージューと沸き立つ表面。吹き抜ける夜風に散る、炭の香りを帯びた肉と脂の香り。
箸でつまみ、油と塩のタレに軽く浸した。
ごま油と塩が絡み、さらに輝きを増した肉の端。香ばしい匂いと塩気、そして肉と脂の香りが混ざり合った。
ヨハンの乾いた唇が開き、不揃いな白い歯が露わになった。舌がわずかに突き出し、肉を迎えに行った。
灯りに反射してきらめく、分厚い茶色の豚バラ肉がヨハンの口の中に入った。
最初の味は、安東から運ばれてきたごま油の香ばしくもほろ苦い味だった。
忠清北道・堤川。
山に囲まれた高地の傾斜した畑に5月末に植えられ、小規模農家たちの手で丹念に育てられ、10月に収穫されたごま。
青いトラックに積まれて安東へ向かい、そこで丁寧に乾燥させられ、搾り出されたごま油。その愛された記憶と旅の記憶がたっぷりと詰まった、香ばしくもほろ苦い味。
その次に続いた味は、ヒマラヤで百年もの間その場所を守り続けてきた岩塩の味だった。
高く不毛な高地で、長い歳月、雪と風にさらされながら、孤独と苦痛に耐え抜いてきた岩塩。自分を連れて行ってほしいと訴えるかのように、美しいピンク色に染まった岩塩の存在感が、細かく砕かれた粉となって口の中で踊った。
その合間に、脂の乗った肉汁が溢れ出した。
名もなき田舎。
古い伝統家屋の横にある小さな畜舎に住んでいた五匹の豚の家族。
一番大きな一匹の豚が、悲しげな目で、少し小さい豚と三匹の子豚を見つめていた。
しばらくして、主人の叔父さんと一緒に白いトラックに乗り込み、黒い道を走った。
生まれて初めて見る風景。
その隙間から、愛する妻と子供たちの姿が浮かび上がり、涙の中に散っていった。
切なさが詰まった涙の味。
それがまさに、肉汁の味の秘密だった。
最後に、サムギョプサル特有の臭みと脂っこい味が口いっぱいに広がった。
家族ともう一緒にいられない、悲しい親豚の最後の絶叫だった。
肉の味に満足したかのように舌で唇を舐め、悲しげな目で 減っていくサムギョプサルを見つめているヨハンに、 ウンビが言った。
「一人で二枚ずつ食べたらどうするつもりなの、豚さん!」
満足のいく食事を終えた一行が、焚き火のそばにいた。
白く赤く燃え盛る薪の上。
黄色く赤く見える揺らめく炎。
パチパチという音と共に、小さな火の粉が暗い空へと舞い上がった。
ヨハンは、赤く見える白いアコースティックギターの弦を優しく撫でた。
弦を弾く柔らかな音。
ハミンがヨハンを見つめて笑った。
座っていた四角い木箱を軽く、規則的に叩いた。
誰だか分からない人の口から歌が流れ出た。
やがて他の人々の口からも、同じ音と同じ言葉が流れ出た。
暗い夜。
キャンピングカーの前で始まった小さな炎は、そうして音楽となって散っていった。
いつか訪れる最後の時のように、そうして。




