EPISODE10. 告白、そして2回目の公演。
2025年3月21日、午後遅く。
ハミンのカフェのドアが開いた。
ハミンが顔を上げると、ギターケースを背負ってカフェに入ってくるヨハンが見えた。
「ウンビは?」
ヨハンがカウンターにいるハミンに尋ねた。
「あの娘、今日用事があるって言ってバイトをサボるんだって。サボり魔め。」
「俺の妹を悪く言うなよ。次は警告で済まさないからな。」
ヨハンはニヤニヤしながら言った。
「サボり魔って悪口か?」
「俺が悪口だと言えば悪口だ。あの青い空が赤ければ、赤なんだ。」
空は濃い灰色だった。
ヨハンはカフェを見回した。
いつもと違ってテーブルが満席だった。
「ハミン、これ何だ?なんで客が多いんだ?」
「客が多いのが何か悪いのか?俺も金持ちになるんだ。」
「いや、そうじゃなくて、普段はこんなことなかっただろ。」
頭をかくヨハンに、ハミンは無言で指で一か所を指さした。指先が向く方向には、窓際に座った女性が見えた。周囲のテーブルには、制服を着た少女たちが窓際の女性を見つめていた。
紫色のハイライトが入った黒く長いストレートヘア。カン・セリンだった。
「いや、スターの方がなんでここに来てるんだ?」
ヨハンが呟いた。
「俺の言う通り、普通のスターって忙しいんじゃないの?」
ハミンがセリンを見つめながら呟いた。
セリンが顔を向け、ハミンを見た。目が合ったセリンがハミンに向かってにっこりと笑った。
「あの子、変だわ。私を見るといつも笑うの。」
ハミンを見つめるヨハンの眼差しが変わった。この世に二人といない間抜けを見るような眼差しだった。
チャリン。カフェのドアが開く音が聞こえた。
「お兄ちゃん、私来たよ。」
ウンビの声に、ヨハンとハミンが同時に振り返った。
「バイトに来たのか?」
「ウンビ、どこに行ってたんだ?」
「一人ずつ言って。」
「とりあえずハミンお兄ちゃんは、うん、来た。それからお兄ちゃん、君は自分で何をするか決めて。」
ウンビは笑いながら答えた。
「これでお兄ちゃんに『君』だなんて、マジで一発食らうぞ?」
ヨハンは拳を握り、目の前で振り回した。
「私、背負い投げ成功したの知ってるでしょ?これからはお兄ちゃんも気をつけて。腰を痛めたら?お兄ちゃんの腰が痛くなったら、イウムお姉ちゃんがどれだけ悲しむか。」
ウンビが泣くふりをした。ヨハンの眼差しが暗くなった。
「あ、そうだ。さっきバス停でイウムお姉ちゃんを見かけたんだけど。ヨハン、君を探しに来たんじゃないの?」
ウンビがヨハンに尋ねた。
「ウンビ。ヨハン、イウムと別れたんだ。」
ヨハンの様子をうかがっていたハミンが、ウンビに慎重に言った。
「え?別れたの?お兄ちゃん、他の女できたの?どうしてそんなことできるの?人間なの?辛い時にずっとそばにいてくれて、毎日慰めてくれたのに、ねえ?本当にイウムお姉さんにそんなことしちゃダメだよ!」
ウンビがヨハンに矢継ぎ早に詰め寄った。ヨハンの表情がますます暗くなっていった。
「さっき見たら、バス停にずっと座ってたよ。早く行って謝れ、このブタ野郎!」
ヨハンは黙って席から立ち上がり、トイレに入った。
「あのブタ野郎、この状況でクソしに行くのか。」
ウンビはむっとして、トイレに入っていくヨハンを睨みつけた。
ハミンはヨハンが座っていた場所を見て、「え?」と声を上げた。
席の下に白い薬の容器が落ちていた。
ハミンは腰を屈めて薬の容器を拾い上げ、読み上げた。
「デエクサ・メツア・スウォン? デキサメタゾン?」
薬の容器に書かれた英語を読んで、ハミンはウンビに尋ねた。
「ウンビ、ヨハンは薬を飲んだの?」
「あの健康な豚が薬を飲むの?ビタミンかな?」
ウンビはスマートフォンを取り出し、ウェブブラウザを開いた。
「お兄ちゃん、スペルは何?」
「D-E-X-A-M-D-T-H-A-S-O-N-E」
「うーん、見てみよう。炎症、重度のアレルギー、喘息、特定の癌…」
「癌?」
ウンビは不思議そうな表情を浮かべた。
「えー、炎症とか他の何かのせいで飲んだんだろう」
無理に明るい口調でつぶやいた。
ハミンの眼差しが揺れた。
時々手が震えていたヨハンの姿。ぼんやりと何も言わずに立っていた姿が浮かんだ。
まさか?
ヨハンが?
ハミンの表情が曇った。
***
夕方。
ハミンがカフェのドアを閉めた。
カフェの前にはヨハン、ウンビ、セリンが立っていた。
「 セリンお姉さん。お姉さんはどこに住んでるの?」
「うん、ちょっと遠いんだけど、こっちに引っ越そうと思ってて。」
「この町? えー、ここ不便だよ。ソウルなのに完全に田舎。片隅!」
「静かだし空気もいいし、いいところがいっぱいあるよ。」
セリンの視線がハミンに固定されていた。街灯の光に照らされた顔が赤く染まっていた。
カフェのドアをロックしたハミンがヨハンに声をかけた。
「ヨハン、ちょっと俺に会ってから行ってくれ。」
ヨハンは不思議そうな表情を浮かべた。
「え?急に?ビールでも飲もうって?」
「私も私も!」
ウンビは手を挙げてぴょんぴょん跳ねた。
「私も一緒に行きたいです。ハミンさん。」
セリンが割り込んできた。
「ごめんね。ヨハンと二人きりで話したいことがあるの。」
ウンビとセリンはすねた顔をした。
コンビニ前のパラソル。
二人は何も言わなかった。
道路を行き交う車の音、ビール缶を開ける音だけが聞こえた。
ハミンがヨハンを見つめた。
「俺、薬の箱見たよ。あれ何?」
ヨハンがハミンを見つめた。
「ただ最近ちょっと疲れてるから、栄養剤だよ。」
「お前の手、震えてたぞ。たまに気絶したみたいにみえたし。」
「それに、お前は何よりもイウムと別れるような奴じゃないだろ。」
ヨハンの顔から表情が消えた。
「俺…」
「俺…」
「俺、死ぬんだ。」
風が止んだ。
ハミンの表情が消えた。
「おい、このクソ野郎。一緒にいるって言っただろ!」
ハミンはヨハンを殴りながら泣いた。
「俺を一人にしないって言っただろ!」
ヨハンが笑った。
「お前、あの時酔っ払ってボロ酔いだっただろ?」
「それに痛いよ、この野郎。殴るのやめろ。」
「ダメだ。死んじゃうな。俺が送ってやらない。クソッ!」
「大丈夫だよ、この野郎。ただ俺が少し早く行くだけさ。先にいって場所を確保しておくから。」
ヨハンは牙をむき出しにして、満面の笑みを浮かべた。
暗い炭川のほとり。
ヨハンとハミンが並んでコンクリートの階段に座り、空を見上げた。
「おい、ハミン。覚えてるか?」
「何を?」
「俺たち、10年前に密陽で約束したこと。」
「密陽?」
「うん。」
「あ!」
「 僕が三十歳になるまでは無理そうだから、今年一緒に行こう。」
「……」
「行きたい。僕、あそこに置いてきたものがあるんだ。僕が幸せに行けるように助けてくれ。」
「うん、ヒルウィンドに乗って一緒に行こう。ワクワクして。楽しく。みんな、一緒に。」
言葉を終えたヨハンがハミンを見つめた。
ハミンはうつむいていた。肩が上下に激しく震えていた。
ハミンが顔を上げた。笑っていた。
「そう、行こう。ワクワクして、楽しく。」
笑いながら話すハミンの顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
街灯が静かに二人を照らしていた。
***
2025年3月22日 午後7時。弘大。
ドラムのビートが静かに響いた。
その上にベースが乗った。一小節、二小節。繰り返される憂鬱なリフが六小節続いた。
エレキギターがベースと同じ層に割り込んだ。歪みのない澄んだ音。
肌がひび割れそうなほど乾いた音が、聞こえそうで聞こえないかのように焦らした。
白いアコースティックギターが動き出した。澄んだメロディーが最上層に立ち上がり、動き出した。
泣いているようなメロディーだった。
ヨハンがマイクに顔を近づけた。
荒く、低く、乾いた声がアンプを通して漏れ出た。
抑揚がほとんどない、単音に近いメロディー。
単語が単語として聞こえず、文章が文章として聞こえなかった。
ただ文字が音として聞こえてきた。
観客たちの表情が虚ろになった。
ヨハンの声が途切れ、アコースティックギターの音が消えた。
エレキギターの青い閃光が消え、ベースギターの音が薄れた。
ドラムのビートが途切れた。
観客の歓声が聞こえてきた。
ヨハンとハミンとヘジンが小さな三角形を成す陣形を整えて集まった。
後方のハンギョルがドラムスティックを空へと掲げ、X字を作った。
ドラムスティックを一度叩いた。
二度叩いた。
三度叩いた。
うつむいてつま先ばかりを見ていたハミンとヘジンが同時に右手を動かした。
歪みきったサウンドが炸裂した。
観客の歓声が沸き起こった。
ヨハンはうつむいたままマイクを両手で握りしめ、マイクを飲み込む勢いで歌った。
荒々しく、そして低く低い唸り声が飛び出した。
ハンギョルのスクラッチ音が次々と炸裂した。
ディストーションをたっぷりかけたエレキギターとベースギターが走り続けた。
ヨハンとハミン、ヘジンは皆、つま先ばかりを見つめていた。
歌が終わり、演奏が終わった。
観客の歓声は次第に大きくなった。
***
「お兄ちゃん、あそこ見て。すごく人が多いよ。何かあるみたい。」
女性と手をつないで歩いていた男性が前を見た。
一瞥しただけでも50人ほどはいるように見える人々が集まり、手を叩き、腕を上げて歓声を上げていた。
「有名なインディーズバンドが来て、ライブをしているんだな。」
「一度行って見てみる?」
「うん、お兄ちゃん。いいね!」
男は彼女の手に手を重ね、集まっている人混みの間を縫って中へ入っていった。
「あ、何だよ!」
「すみません。」
「あ、マジか。」
「すみません。」
しきりに謝りながら奥へ進んだ男と彼女の目の前に、ステージの上に立つ4人の姿が見えた。
「え?前に見た『逃亡バンド』?」
周囲を見回した。
楽しそうな表情の人々。
その中に、泣いている女性が一人いた。
「お兄ちゃん、なんでそんなにキョロキョロしてるの?」
「あ、ちょっと、あそこに泣いてる人が見えたから。」
「涙が出るほどライブが良かったの?あのバンドの熱狂的なファンなんだろうね。」
「そうかな?」
「でもお兄さん、あのバンド何?有名なバンド?」
「いや、僕も前に一度見ただけで、初めてだよ。」
「でも、こんなに人が集まってるの?」
「うーん…」
二人の会話が続く中、じっと立っていたステージ中央のボーカルが口を開いた。
[楽しい夜ですね。皆さん、楽しんでいらっしゃいますか?]
「はい!」
[僕たちは…あ!おい!どいてよ、今回は一人でやるから、ごちゃごちゃしないで]
ボーカルのそばにそっと近づいてくるメンバーたちを押し退けながら、ボーカルがぶつぶつと文句を言った。
[あ、すみません。バカたちがしつこくまとわりついてくるんです。]
ワハハ。観客の笑い声が聞こえた。
[私たちは高校時代に結成し、最近再結成したバンド、ゴヨです。]
[ハミン!痛い!]
黒い肌のギタリストが割り込もうとしたが、ボーカルに小突かれた。
[うっ…やり直します。ゴヨハミンハンギョルヘジンです。ハァハァ。]
慌てて息を切らさずに一気にバンド名を言い放ったボーカルが、ハァハァと息を切らしていた。
[僕はボーカルのコヨハンです。あそこにギターを背負っている友人は…]
ギタリストが弦を弾いた。
[早くしろって。次の曲行きます!]
ボーカルが後ろのDJブースに立つDJに目配せをした。
DJが奇妙な形のキーボードを肩に担いで前に出てきた。
DJの指が白鍵と黒鍵の上を華麗に滑った。ピアノの音がアンプを通して流れ出した。
何かおかしいけれど、耳に残るメロディー。
ボーカルが持っていたアコースティックギターの胴体を叩き始めた。
ギターに接続されたマイクを通じて流れ込んだ打音が、アンプから漏れ出した。
エレキギターが先に動き出した。短く切れた音が飛び出しては、すぐに消えた。
メロディーというよりは、拍子の隙間を引っ掻いて通り過ぎるような音だった。
ベースがその後に続いた。前に飛び出さず、ギターが作った隙間をしっかりと埋めた。
音は伸びることなく、その場に留まっていた。
エレキギターが再び入ってきた。長く引きずることなく、一度ずつ切り詰めて放った。
音は広がることなく、拍の上に引っかかった。
ベースが同じパターンを繰り返した。変わらない音が何度も戻ってきた。
リズムは動いていたが、中心は揺らぐことはなかった。
ボーカルがスタンディングマイクに顔を近づけた。
戸惑った表情を浮かべた。
アンプからは、ヒューヒューという息遣いだけが漏れた。
演奏は続いていた。
ギタリストがしばらくボーカルを見つめたかと思うと、突然空中に飛び上がり、暴走した。
ベーシストがギタリストを見て、うなずいた。
ベースの音量が下がり、エレキギターの音が上へ突き上がった。
「え?これ、即興のジャムセッションみたい?」
隣に立っていた男が呟いた。
ドンドンと響くベース音が、エレキギターのノイズと一つになって動き出した。
アンプから飛び出していたピアノの音が電子音に変わり、隙間を埋めていった。
興奮した数人の観客が、音楽に合わせて体を揺らした。
突然、アコースティックギターが飛び出した。
疾走していたエレキギターの電子音に合わせて、音たちが共に踊り出した。
ステージ上のボーカルとギタリストが顔を見合わせた。
演奏はしばらくの間、途切れることがなかった。
***
みんな、今日ライブ中に逃げ出したバンドをまた見かけた話をしよう。
みんな、前にライブ中に逃げ出したバンドを見たって話したよね。
今日も彼女とホンデに行ったんだけどさ。
50人くらいの人たちが一か所に集まって、何かを見ているんだ。
わかるだろ、ホンデの路上でストリートライブしてるのに、50人も集まるなんて普通じゃないって。
これ、有名なアンダーグラウンドバンドのファンが集まってない限り、こんなには集まらないよ。
でも今日、俺がそれを見ちゃったんだ。有名なアンダーグラウンドバンドじゃないのに、なんと50人もが一箇所に集まって、ライブが終わるまで見てたんだよ。
しかも踊ってる人もいたんだ。
わかるだろ?韓国の人たちって、ストリートライブの時、せいぜい拍手か歓声で終わるものなのに。
とにかく今日そのバンドを見たんだけど、パフォーマンスがヤバかった。
ボーカルが歌おうとしていた途端、突然喉を掴んだんだ。
何かあったのかと思ったけど、突然ギターを弾いてた兄ちゃんが前にジャンプして飛び出してきて、狂ったような速弾きでガンガン弾きまくって、少ししてボーカルが背負っていたギターを持ってギタリストと向き合って演奏し始めて…
うわっ、鳥肌が立つほどカッコ良すぎた?
それに相変わらずベースを弾くお姉さんは本当に超カッコよかった。
他のメンバーはみんなラフな格好で出てきてるのに、一人だけ真っ白なスーツをピシッと着こなしてて、本当にカッコよさが爆発してた。
あ、それと前に話したDJのことだけど、どこかでよく見かける顔だよね。
体格も大きいし、あごのラインもそうだし、有名な歌手なんじゃないかなって。
相変わらず厚着してるけど、すごく見覚えのある姿?
あ、それとバンドでDJがスクラッチしてるのを見るのも初めてだった。
音楽が本当に良かったよ。
兄ちゃんたちも毎週弘大に来てみてよ。運が良ければ一度見られるかも?
あ、そうだ。YouTubeにこのバンドのライブ動画もあったよ。
サイトのポリシーでリンクは貼れないけど、自分で検索してね。
バンド名は「静かになった、穏やかになった」だよ。
名前はちょっと呆れるけど、とにかくよく覚えている。
じゃあ、また会ったらここに感想を書くね。
バイバイ~。




