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第三十話よろしくお願いします。
大地は広く、なだらかな起伏を繰り返しながら、草原と荒野が喰い合うように交錯する。
「ベルンさん」
その地平より上に目を向ければ、痛く感じるほどに濃い青と消えない虹の河。
「レグさん」
足下のざらついた白い石塊と毛足だけがやけに長い痩せた草が乾いた風に曝され、遠くに近くに見える湖沼や沢の映す空の青さが景色を滲ませる。
「リオネルさん」
ここは『虹河高原』。
「ピピンさん」
ここが、僕等が挑み辿り着いた、探索の果て。
「ブランカさん」
ここが……僕等の、旅路の、果て。
「……フランさん」
幾度、声に出そうとも、渇いた風に巻かれて消えてゆく同胞の名。
「グエンさん」
それでも僕は彼等の名を呼び続ける。
「アリーナさん」
消えゆく声を、誰からも無い返事を―――
「チロル……」
無機質な、風の所為にして。
ここは『虹河高原』。
僕等が目指し辿り着いた東の異界の地。
天を仰げば、自然と涙が出てくる程にいっそ黒々しいとまで言える紺碧の空と、そこを流れる雄大な虹色の河。
空と大地を分かつ地平の先には白い稜線が悠然と横たわる。
波打つ大地には生き生きとした深緑と、渇き掠れ散り散りとなった乳白と、遠くに近くにきらめく濃紺。
そして、その調和を犯すように、無数に散らばる、鮮血の赤。
そこには―――
首から下を失ったフランさんの顔があった。
頭を失ったグエンさんの身体があった。
血だまりと肉塊となったアリーナさんの痕があった。
全身に無数の穴を空けられて、それでも、斃れてもなお、背中の誰かを護るために立ち続けるチロルが、いた。
その足下には、慰めのように空の虹色を映したような玉石が、一つ転がっている。
「どうして……」
どうしてこうなった?
なんて、わかってるだろ。
あの日、僕が選んだんだ。
この光景を。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
まだ人通りも疎らな東門大通りの朝。
『おはようございます』
どこからということもなく、誰からということもなく、通りに面した店の従民達は、互いに声を掛け合いながら、今日もそれぞれの生活を始める。比較的城に近いこの辺りでは当たり前の朝の光景。
これまで知る由も無かった街の裏側に、その当たり前を当たり前の物として感じられることに感謝しながら、僕も彼等に倣って声を掛け合い『鹿鳴』の開店準備を進める。
掃き掃除を終えたセリスは一足先に店内に戻って準備中、今日は彼女が勘定担当だった。
そこへ、通りの向かい側にある店の奥さんがこちら側に出てきて声を掛けてくる。
「クルードさんはどうだい?」
揺り籠から寝台まで、生活に紐づいた日用品の制作とその販売で営む木工職人の店の営業担当だ。
「お陰様で治療は順調に進んでいるみたいです」
「早く良くなるといいねぇ」
ご近所さんにはクルードさんのことを、寝台から落ちて腰を打ったということにしてある。
セルク家の使いの者達に聖坐まで運ばれていったことも含めて、それで納得してもらっていた。
その寝台は昔お向かいさんに納品してもらったものだそうで、その言い訳を聞かせた時には随分と木に掛けてくれた。僕用に新しく用意してくれたものもそこから仕入れたものだったから。
もちろん彼等の品には何の落ち度も無いし、僕が日々安眠している寝台は快適そのものなんだけれど、挨拶代わりの文言にする程度には、未だに気にかけてくれている。
「おいおい、あんま早く戻って来られちゃロウも困るだろ?」
「え?」
にやけ顔を浮かべながら横入りしてきた木工職人に僕は呆けた声を返す。
話好きな奥さんの旦那さんは寡黙な職人―――というのがこの街の一般的な人の印象なのだけれど、お向かいさんは夫婦そろって話し好きだった。
「若ぇ男と女が一つ屋根の下、邪魔者だった親の目もねぇ。だってのにお前ぇ、まだセリスに手ぇ出してねぇって話じゃねぇか!」
「はい?」
「あらそうなの?あんまり女の子を待たせちゃダメじゃないよ。セリスちゃんみたいな大人しい子でも―――ううん、セリスちゃんみたいな子だからこそロウくんが男らしさを見せなくちゃ!」
「あの…」
どうしたものか、返事に困っているところに今度は別の方向から声が掛けられる。
「おはようございます」
耳慣れないその静かな声にお向かいさん夫婦は揃って顔を向ける。
僕の中ではその声音は、七対三の割合でキッチリと別れた濃紺の髪と、人を寄せ付けない鋭い眼光と、神経質そうな面差しとがピッタリ符合していた。
振り向きながら声を掛ける。
「あ、おはようございます、ライルさん」
セルク家との連絡役として定期的に『鹿鳴』を訪れてくれているライルさんの、明らかにそれと分かる出で立ちと雰囲気を見て取ったお向かいさんは夫婦共にたじろいで、それでもなんとか客商売の矜持で取り繕った笑顔を浮かべた。
「お、おはようございます!」
「おはようございます!さ、ウチも準備始めるぞ!」
「そうだね!じゃ、失礼いたします!」
けれどそれも表情だけの話で、気のきいた台詞も無ければ、あからさまな態度を隠すことも出来ていなかった。
「お邪魔してしまいましたかね?」
その様子に肩をすくめながら問いかけてくるライルさん。
僕は素直に礼を言い、そして素直に疑念も口にする。
「いえ、助かりました―――にしてもこんなに早くいらっしゃるのは珍しいですね?」
「えぇ、朝早くから失礼いたします。アルフォンス様がお呼びでございます」
一難去ってまた一難、とは正にこのことか。
思いながらも、何とか表情にも態度にも出さずに居れた、と思う。
「承知いたしました。セリスにも伝えてきますのでお待ちください」
気の利いた台詞というのは僕だって何一つ思い浮かばなかったけれど。
そう内心自嘲しながら店内に入ろうとすると
「あぁ、本日のご用向きはロウさんですので、差支えなければ『鹿鳴』さんは本日の営業をお続けください」
ライルさんが僕に声を掛けてきた。
用件の告げない呼び出し。
それはいつも通りと言えば、そうなのだけれど…。
これまでにない”僕個人に対する”呼び出しに疑問符を浮かべながら返事を返す。
「左様ですか。では、その旨も併せて伝えて参りますのでお待ちください」
軽く頭を下げてから店の扉を開けた。
カランカラン―――
いつもの音が鳴り響き、入り口脇の勘定台に入っている店主と目が合う。
「ご近所付き合い終わった?」
クルードさんが居た時分には意識することも無かったそれは、セリスにとって業務とも呼べる程のものになっているらしい。
一見卒なく熟しているように見えるけれど、”卒なく熟しているように見える”ということ自体、セリスにとっては荷が重いということだ。
セリスが素のままでいたなら”ちゃん”付けでなど呼ばれよう筈も無い、というのは流石に失礼か?まぁ、あのご夫婦との会話は僕にとっても軽いものではない。
とそんなことはどうでもいい。
「うん。そっちは終わったんだけど、今表にライルさんが来てて、セルク家からの呼び出しだって」
「…………しょうがない。この間作った『言い訳』の立て看板、さっそく役立ちそう」
僕の言葉にたっぷりと時間を使って溜息と本音を飲み込んで、何とか別の言葉を吐き出したセリス。
言い訳の立て看板というのは、セリスがキャロルさんとの話の中で得た着想で、僕がクルードさんの治療の手伝い……会話療法を行っている間に交わされた雑談の中でのことらしい。
その後、僕がクルードさんの代りに地下訓練場に行っている間、セリスは買い物をしたり店の用事を済ませたりしているのだけれど、工作もその範疇だったということだ。
「それなんだけど。ライルさんが、僕だけでも構わない、とか言っててさ」
「?」
「差支えなければ『鹿鳴』さんは営業をお続けください、だって」
「……」
僕の言葉に小首を傾げたセリスは、続けた僕の伝聞に、黙って考え始める。
「セリス?」
「……なんか、嫌な感じがする」
僕が感じた違和感にセリスの直感が合わさり、いよいよ事のきな臭さを予感した。
そしてそれは、アルフォンス様から告げられる言葉により、いよいよ以て体感させられることになる。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
手早く店仕舞いの準備をし、店の前には立て看板を置いて、貴族の使いを伴って出掛けるトコロを気の毒そうにご近所さんらに見送られて、僕等は東門大通りを城の方へと向かった。
途中、第三職業訓練学校を横にした時に、ライルさんがやけに校舎の方に意識を向けていることが気になって聞いてみたのだけれど、『懐かしいですね』などとという言葉を自身が通ってもいない学校に対して口にする彼に、不信感だけが募ることになった。
出掛けしなに交わされた
『せっかくのお心遣いではございますが、従業員一人をアルフォンス様に御目通り頂くわけにもまいりませんので』
『過分な申し出を失礼いたしました。主人に変わりお詫び申し上げます』
というやり取りを終えてから城に着くまでの間、セリスは一切口を開かず、僕とライルさんの薄い会話だけが延々と続いた。
――― ――― ―――
――― ―――
―――
明らかに外観との縮尺が合わない城内を、ライルさんに先導され歩く。
時の経過を感じさせない暖かな灯り、ほのかに漂う甘やかな香り、反発を感じさせない床敷きは却って歩きにくさすら感じさせる。
ついこの間。
時間も場所も状況も、何もかもが違うけれど。
彼の案内に従い歩いたこの街の暗部などとは比較にもならない道のり。
けれど皮肉なことに、あの光景を目にしたからこそ、煌びやかな光景が以前にも増して特別なものに感じられた。
それが良い事なのか悪い事なのか、
この光景に憧れや感嘆を抱いているのか、はたまた嫌悪や反感を抱いているのか、
自身の感情の方向も定まらないまま、目の前の背中を追って、得体の知れない不安を胸に抱えて、足を動かす。
辿り着いたのは以前も通されたアルフォンス様の執務室らしき部屋だった。
足の短い、毛足の豊かな背凭れを持った長椅子に二人並んで座る。
重厚な応接卓子の上に、流れるようにして茶器が給仕されていった。
それから暫く、同じ街に住んでいる筈の”異界の住人”がやって来た。
青灰色の豊かな髪に澄んだ翠色の瞳と笑顔の映える整った顔立ち。
「やあ。良く来てくれたね。ロウ、それにセリスも」
そんなアルフォンス様が、向かい合わせに揃った長椅子の中央に腰掛け口にした挨拶の言葉の主体は『鹿鳴』ではなく僕だった。
それはあからさまで、いくら庇護を受ける立場とはいえ『鹿鳴』として面白い扱いではない。
あくまで『鹿鳴』はセルク家の当主アルドリック様の庇護下にあり、その関係も使用人のそれとは違う。
そしてその前提やこちらの感情の機微が分からない筈が無い人からの言葉であれば猶の事。
当然、そんな理屈や感情が貴族という権力者に通る筈も無いのは僕もセリスも分かりきっている。
けれど―――
「はっ」
「ロウをお呼びとのことでございましたが、『鹿鳴』として万万が一の失礼があってはならぬと、私も罷り越しました。登城のお許しを頂きましたこと誠にありがとうございます」
だから僕は、クルードさんから譲り受けた短い返事だけを返し、代わりにセリスが挨拶の口上ついでに一刺しした。失礼にならない範囲の僕等なりの小さな意趣返し。口裏合わせも何もなかったけれど、思うところは同じだ。
が―――
「いいよ。逆に変な気を使わせて悪かったね」
軽い口調ではあるものの。
アルフォンス様がその言葉を口にしたことで。
部屋の空気がそれまでのものから一変した。
部屋の隅に控える使用人、それはガルプさんのような老齢の男性から年若い、僕等と同じかそれより少し小さな見習いと呼べるような女の子まで。
この小さな部屋で差し向かいで座る三人以外の全ての者等が、その異様な緊張感を齎していた。
それまでの好々爺然とした老紳士や愛らしい給仕の少女の姿はどこにもない。
ピシリ、と部屋の空気に亀裂が入るのをすら幻視する。
「……勿体なきお言葉でございます」
僕が口を開こうとしたところで、セリスがなんとかその言葉を発した。
それでも空気は依然として変わらないまま。
「ま、一先ずは茶菓子と共に非礼を飲み込んでくれないか?」
けれどそんなもの、彼の一言でどうとでもなるものだった。
言葉ともに軽く動かした彼の指先で、それを受け取った部屋全体が一気に空気を弛緩させる。
謝罪の言葉一つで圧を与え、指の動き一つでそれを自在に操る。
この一幕自体がこの後されるであろう命令なり雑談なりのための前振り、言わば演出なのだろう。
入室されてから変わらない笑顔を彼だけが浮かべていた。
相変わらず、貴族というものに辟易とした。
彼のお遊びに付き合った、という程度のものではあるにせよ。
少なくとも不義理を働いている訳では無い相手に対して、こうした態度を平然と取ってくる。
今、何を考えているのだろうか。
何故、僕を呼び出したのだろうか。
普通に考えれば、小規模企業の経営統合計画に関する指令あるいは相談事。
ただし、敢えて呼び出してのこと…。
などと、こうして考えさせることが、彼の手の内なのだろうか。
「コレ、君のお気に入りだろう、セリス?昨日の内に用意させたんだ味わっていってよ」
「……お心遣い、大変ありがとう存じます」
そして、これである。
いっそ、僕等を呼び出してこうして翻弄して揶揄うことが目的なのではないか、とすら感じる。
あるいは、本当にそれだけなのかもしれない―――なんて思っていた矢先のことだった。
「そうそう。ロウには僕等、出資者の意向をより反映させるために、今後は直接異界に出向してもらおうと思ってね。今日はその辞令直接伝えるために呼び出したのさ」
何のことは無い。
とでも言うように、茶器から立ち上る湯気と香りを楽しみながら彼はそう口にした。
部屋に沈黙が降りる。
先ほどとは別種の、昼の暖かな空気が一度に冷たい夜気に入れ替わったかのような、そんな沈黙。
何とか茶器で口元を隠せていた僕はちらりと隣を見やる。
薦められた茶菓子に銀の匙を刺し入れたところだった。
これまで、殊に貴族家での立ち振る舞いという点に於いて、礼を失するとか不明を晒すとかそういった瑕疵を示すことの無かったセリスが完全に固まっていた。
無理も無い。
セリスにとって異界は、十数年前に母親を連れ去った場所で、今も父親を連れ去ろうとしている場所だ。
そこへ今度は唯一人残った従業員を―――自称するのは厚かましいとは思けれど、それでも、唯一人残った家族を、僕を、そこへ向かわせろと言う。
そしてそれを宣うのは逆らうことなど出来ない相手。
「それはまた、突然のご提案で。出資者様のご意向ということですが、具体的には…?現状でご不満点があるようであれば出向することとは別に伺っておければと思いまして」
僕は道化て応えて答えを待った。
けれど、彼は僕のことなど最早、目に入れていなかった。
優しい笑顔を被せたその嗜虐的な瞳は、小刻みに身体を震わせる、一人の少女にのみ向けられていた。
「どうかな?セリス?」
「っ―――、っ―――…………」
言葉にならない声を上げようとしては唇を噛み悲痛な表情を浮かべるセリスを、嬉しそうに、ともすれば涙すら浮かべそうな表情で問いかけるアルフォンス、様。
その顔を見て確信する。
今日の呼び出しの目的を。
一つは僕に対する異界への出向辞令。
その意図は知れないけれど、ここに恐らく嘘はない。
そしてもう一つ。
それはセリスにそれを告げること。
その意図は知れてるし、だから僕への辞令にも嘘はない。
「ん?どうしたいんだい?」
「……」
彼はこれを、この状況を楽しんでいた。
「うーん……困ったなァ……色よい返事が貰えそうもない……」
「……」
人を追い詰め、甚振ることを。
「一人では未だ、店を切り盛り出来るほどでは無いようだしねェ…」
「……」
まるで、親を亡くした子供がその寂しさを誤魔化すように、飽きることなく執拗に。
「ふぅ……」
そんな彼の瞳から不意に濁ったモノが消えると同時にこちらに顔を向けて問いかけてくる。
「どうしたものか……ロウくんはどうしたい?」
まるで別人のように。
まるで先ほどの僕の言葉は本当に聞こえていなかったかのように。
僕はその変わり身の早さに、怖気が走るのをなんとか堪えて返事を返す。
「是非に。アルフォンス様のお役に立てればと」
もう、答えを濁すような事をしなかった。
「おぉ!そう言ってくれるかい?」
何よりもまず、セリスをこの場から遠ざけたかった。
「えぇ、もちろんです!元々、その才能から縁遠く探索者の道を諦めた身の上ではございますが、アルフォンス様の名代を頂けるのであれば、例えこの非才の身であっても、優秀な旗下の探索者の庇護の下、異界をこの目に入れる機会を手に入れたようなもの。誠にありがとう存じます…!」
匙を落とし、その非礼を詫びることすら無く、ただ俯き震えるセリスを、一秒でも早くこの異界から連れ出したかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
『だから仕様が無かった』なんて言葉で済ませるつもり?
セリスにその選択の責任を負わせるつもり?それともアルフォンス様に?
それとも―――異界をこの目にしたい、その気持ちすら出任せだったなんて言うつもり?
<つづく>




