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女神は月夜に降臨する ~孤独な女神の初めての恋は、世界の崩壊の始まりだったのか?~  作者: 糀野アオ@『落ち毒』発売中
終章

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第5話 借り

 ナオクスヒメは内裏《だいり》で唯一、焼け残った承《しょう》香《きょう》殿《でん》の上に立っていた。


 くっきりとした望月が遠くの家屋まで光を渡し、屋根に残った雪を輝かせている。

 どこからともなく牛車《ぎっしゃ》の輪が、からからと良い音を立てて回るのが聞こえてくる。


 もしかしたら失われていたかもしれない、この平和な風景――。


 ナオクスヒメは凍るように冷たい空気を吸い込み、目を閉じた。


 この都を覆っていた穢《けが》れは、イザナキの霊力《ちから》と復活を遂げたアマテラスとツクヨミによって、かなり浄化されている。

 もう終わりかと思われたこの都も、あと数百年はもつことだろう。


 ナオクスヒメは今、こうして生きているという喜びを噛み締め、もはや言葉を伝えることはできないイザナキに対し、感謝していた。


「生きていたか」


 不意に穢れた空気が漂い、ナオクスヒメは声の主を振り返った。


 そこにはオオマガツヒが涼しい顔で立っていた。


「汝《なれ》、死んだのではなかったのか?」


「人が常に生き死ぬ中《なか》つ国《くに》から、完全に穢れを祓《はら》うことはできない。死んでいたのはほんの束の間だったさ。ただ、気付いた時にはこの身体に再び縛られていたが」


 オオマガツヒが悔しそうに鼻を鳴らすのを見て、ナオクスヒメは笑った。


「まだ誓約《うけい》は効いておるのか。残念だったな」


「どの道、あの女の命も持って数年というところだ。それくらいは待ってやるさ」


「汝にしては寛大ではないか」


 ナオクスヒメが揶揄《やゆ》すると、オオマガツヒはにやりと嫌な笑顔を向けてきた。


「ほう、俺に対してそんな態度を取っていいと思っているのか? お前の送った悪霊が山ほどこっちに戻って来ているんだってな。さらに増やしてやろうか?」


「真面目にやめてくれ」


 ナオクスヒメは即座に断った。


「馬鹿だな。そんな風に言われたら余計にやりたくなるのが、俺だっていうのに」


 ナオクスヒメは一回死んでも変わらないオオマガツヒにもはや返す言葉もなく、ため息をつくだけだった。


「ところで、左《さ》大将《だいしょう》のところには戻らないのか?」


「生きておるのか!?」


 ナオクスヒメはとっさにオオマガツヒを振り返っていた。


「消えたのはイザナキのみで、その器は関係なかったみたいだな」


 頼通が生きている――。


 ナオクスヒメの胸に頼通と過ごしたひと月が俄かに甦ってくる。

 その甘く、切ない思い出に胸が熱くなった。


 イザナキが消滅した今、何者にも邪魔されることなく、共に生きることができる。


 夢が現《うつ》つになる時が来ているのだ。


 ナオクスヒメは高鳴る心《しん》の臓《ぞう》をぎゅっと押さえ、高倉《たかくら》殿《どの》のある東を振り返った。


 その時、冷たい風が頬をかすめ、火照りを瞬時に拭い去っていった。


「……もう逢わぬ」


 今はもう誰かの胸を借りなければ耐えられないような孤独がなくなっていることに気付いた。


 ミタマトヒメの存在が、ナオクスヒメの中で大きく息づいている。


「それに――」


 ナオクスヒメは小さく呟いて、乾いた笑いを洩らした。


「千鶴に借りを返さねば」




 ナオクスヒメはその足で宇治に向かった。


 千鶴の気配を探せば、隆《たか》姫《ひめ》がどの寺にいるのかは、すぐに見当がつく。


 鬱蒼《うっそう》と木々が生い茂る林の中、ナオクスヒメはその寺から放たれる光に向かって、足早に参道を進んだ。


 寺の階《きざはし》を上り、扉を開けて仏堂に入ると、隆姫は磨き上げられた床の上に端座し、数珠を片手に手を合わせていた。


 そのそばに佇《たたず》む千鶴の姿も見受けられる。


 ナオクスヒメに気付いた千鶴は言葉を発することなく、ほんの少し目を見開いただけだった。


 近づいて見えた隆姫の姿に、ナオクスヒメは驚きを隠せなかった。


 食事も喉を通らなかったのか、ずいぶんと痩せ、ふっくらとしていた頬は削げ落とされたようにその輪郭を変えている。


 ここまで憔悴《しょうすい》しておったとは……。


「隆姫」


 ナオクスヒメが声をかけると、隆姫ははっと振り返った。


 それが誰か、気付くや否や、身体を震わせながら、這って逃げようとする。


「だ、誰か……」


 隆姫が悲鳴を上げる前に、ナオクスヒメはその口を手のひらで覆った。


「静かに。大声を出さないというのなら、この手を外す」


 隆姫が何度も頷いて答えてから、ナオクスヒメは約束通り、彼女を解放した。


「ついに、殺しに来たの……?」


 ナオクスヒメはやはり、とため息をついて、隆姫の前に片膝をついた。


 千鶴への言伝《ことづ》けは、隆姫には伝わっていなかったのだ。

 隆姫は迫りくる死に怯え、ここまで衰弱してしまった。


「安心せよ。もう汝《なれ》を殺したりはせぬ」


「そんなの嘘よ! 騙されない。あの人をそうして奪うつもりなのでしょう!?」


「汝は忘れておる。吾が憎かったのは千鶴ぞ。汝ではない。千鶴が死んだ今、汝を殺す理由はなくなった。もう二度と汝に会うこともない。汝の前に姿を現さぬと誓おう」


「嘘よ! あの人のことが好きなのでしょう? 妻のわたくしが邪魔なのでしょう!?」


 隆姫の激しさは頼《より》通《みち》への愛が変貌したもの。


 ナオクスヒメは隆姫を憐れだと思った。


「汝のその束縛が、頼通を遠ざけていることに気付かぬか? 全く嫉妬するなとは言わぬ。絶対的に信用しろとも言わぬ。しかし、汝ももう少し素直に愛情を表すべきではないか?」


「あなたに言われたくない言葉だわ! 人の夫を横取りしておいて、なんて言い草なの!?」


 隆姫の瞳に生気が宿り、顔に血の気がさしてくる。

 ナオクスヒメはそれを見て、胸を撫でおろしながら、静かに立ち上がった。


「吾が頼通に会うことももうない。ただし、汝が頼通を大切にしないならば、今度こそ本気で奪うぞ」


 ナオクスヒメが去り際に千鶴を一瞥すると、彼女は黙ったまま深々と頭を下げた。


「これで借りは返した」


 千鶴は泣きそうな顔で微笑んでいた。

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