第3話 目覚めの時
初めて、この世に生まれ出た時に似ている。
ナオクスヒメはぼんやりとする意識の中で、そんなことを思った。
あの時は闇の中、入って来る一筋の光を求めてもがいていた。
頭の中は無の状態だったにもかかわらず、なぜか泣いた。
これから永遠の時を生きる上での辛さや悲しみを、本能のどこかで知っていたからなのかもしれない。
今は記憶がある。
しかし、まるで全てが夢だったように感じる。
これが魂になるということなのか。
黄泉国で見たあの小さな泡粒たちもまた、実はこんな風に感じながら漂っていたのだろうか。
目を開くのが怖かった。
しかし、いつまでもこうしている意味はない。
ちょうど目覚めの時なのだろう。
ナオクスヒメはゆっくりと目を開き、眩しさに何度か瞬きした。
瞳を動かしてみると、十にも満たない幼女が傍らに座っているのが目に入る。
その姿を見て、ナオクスヒメは時の流れが交錯した。
結い上げた髪、浅葱の染衣の胸に下がる勾璁。
明らかに時代を遡っている。
「汝は……?」
幼女はこぼれるような笑みを浮かべたかと思うと、さっと立ち上がって踊るように駆けていってしまった。
ナオクスヒメは身体を起こして、薄暗い部屋の中を見回した。
そこは板壁に囲まれた臥所のようだった。
支え木で開かれた窓からは、ちょうど隈のない望月が見える。
垂れ衣をかけられた戸口の向こうからは、何やら話し声も聞こえてくる。
明らかに黄泉の空気とは違うものが漂っていた。
「いずこぞ……?」
一番に考えられることは、イザナキのように死の間際に器を捨てて、違う人間の身体に魂が宿ったということ。
鏡を見ればはっきりするが、見たところ、近くに鏡箱はない。
たとえそうだとしても、時代が遡ることなどあり得ない。
また昔の服装が流行り出しているのだろうか。
ナオクスヒメが答えの出ない疑問に思いを巡らせていると、垂れ衣をかき分けて人が入ってきた。
髪を角髪に結い、白い上衣と袴をまとった背の高い青年だった。
端整な顔立ちをしていて、黒目がちな漆黒の瞳が月の光で美しく煌いている。
一歩進むごとに、足結いの鈴がきれいな音を奏でた。
男はナオクスヒメを認めると、目を細めて微笑んだ。
「ようやく目覚めたか」
ナオクスヒメはその聞き覚えのある声に目を見開き、改めて男を見直した。
「ツクヨミの命……?」
確かにツクヨミの声だった。
しかし、ナオクスヒメは信じられなかった。
ツクヨミが自分と顔を合わせるはずがない。
彼と同じ声の主に会ったという方が得心するというものだ。
「それほど信じられぬか。ずいぶん怪訝そうな顔をしておる」
ツクヨミはそう言って、ナオクスヒメの傍らに片膝を立てて座った。
「当たり前ではないか。汝命は吾を疎んでおった」
ナオクスヒメが白けた視線を投げると、ツクヨミは不思議そうに見つめ返してきた。
「疎んでなどおらぬが」
「今さら言い訳は結構。話をするのも嫌がっておったではないか」
ツクヨミは意外そうに少し目を開き、納得がいったように「なるほど」と呟いた。
「道理で話しかけてこなかったわけだな。ただ、汝の穢れに触れるわけにはいかなかっただけのことぞ」
ナオクスヒメはその言葉に、ツクヨミを睨みつけていた。
「生涯会わないと言われたら、そう取ってもおかしくないではないか!」
「すまぬ。言い方が悪かったか。当時、吾は汝をもうけたことで霊力を消耗して、穢れには敏感になっておったのだ」
ツクヨミのあまりに素直な謝罪に、ナオクスヒメはすっかり毒気を抜かれ、これ以上責めることはできなかった。
「ならば、どういう風の吹き回しぞ? 吾は死んだはず。前にも増して穢れておるはずだろう?」
「そうか、死んだと思っておったのか」
ナオクスヒメはその言葉に眉根を寄せた。
ツクヨミの意を汲めば、自分は死んでいないということになる。
しかし、あの時、確かにイザナキのアメノオハバリを腹に受けた。
ナオクスヒメは自分の腹にそっと手を触れてみた。
痛みもなく、傷らしきものも触れない。
「これはいったい……?」
「消えたのは吾が父、イザナキの方ぞ」
そう言われても、ナオクスヒメは俄かには信じられなかった。




