第2話 里内裏
頼通が随身たちから聞いた話によると、内裏の火災でずいぶん多くの官人や女房たちが逃げ遅れて死んだらしい。
その混乱の最中、行方不明になってしまった者も数多いとか。
今もその捜索は続いている。
枇杷殿は高倉殿の西南辻向かいにある藤原一族の邸の一つであり、頼通も元服前に何度か来たことがあった。
今は里内裏として、寝殿を紫宸殿、西の対屋を帝の御座所である清涼殿に見立てて使っている。
内裏の火災はそう珍しいことではない。
慣れたもので、火災から十日経った今、政は滞りなく行われているようだった。
頼通が十日も休んだ口上を述べに帝のもとに参上すると、少し見ない間に帝の病も少し良くなったように見受けられた。
「それで、女二宮の話なのだが――」
一通りの挨拶の後、帝は言いづらそうに口を開いた。
頼通は今ではすっかり忘れていたそのことを思い出して、内心慌てふためいた。
女二宮を受け入れる準備など全くできていない。
「内裏にこのような変事があった今、少々遅らせた方がよろしいかと……」
頼通が誤魔化そうとする中、帝は言葉を選んでいるかのように扇をもてあそんでいる。
「その、余計なことかと思ったのだが、あなたの病の祈禱を頼んだところ、亡き具平親王が現れてね」
『具平親王』という言葉に、頼通の額に冷や汗が浮かんでくる。
「降嫁の話を取り下げるように言われたのだ。しかも、今回の大火もあなたの病も、かの人がやったと」
そんな馬鹿な話があるだろうか。
大火の原因は明らかに具平親王ではないし、病といってもただ眠っていただけに近い。
胡散臭い僧がいるものだと、頼通は眉根を寄せた。
しかし、帝のこの様子を見ると、降嫁の話を白紙に戻す方向に持っていくに違いない。
「それは恐ろしい。私の病が治ったということは、主上はもしや、かの人の言うことをお聞きになられたということでしょうか」
「私から言い出しておいて、申し訳ないのだが」
「もったいないお言葉。私の身より女二宮様の御身の方が心配でございます。宮様のために、よく御決断されました」
頼通は心底安心しながら丁寧に挨拶を交わし、その足で中宮のいる北の対屋に向かった。
渡殿を歩いていくと、角を曲がってきた人物が目に入り、頼通の足はすくんだ。
なぜ、このようなところに……?
「病と伺っておりましたが、もうよろしいのですか?」
彼、左近中将は、相変わらず麗しい顔ににこりと笑みを浮かべる。
「あなたがこのような場所にいるのは、おかしくはないか?」
あの内裏の火災はこの男の起こしたものだ。
頼通は暗にそれを匂わせて、左近中将の表情の変化を見逃すまいと、睨むように見つめた。
「何のことか、私にはわかりかねますが」
空とぼけたように左近中将は扇で口元をかざす。
「忘れたとは言わせない! 私は覚えているのだからな。承香殿の上で、あなたが殿舎を次々と燃やしていくのを!」
左近中将ははじけたように笑い出し、目に涙をためながら一言、「失礼」と言う。
「貴殿は夢でも見られたのでは? 病のせいで夢と現つがわからなくなってしまわれたらしい」
「そんなはず……!」
夢と言われてしまえば、それを信じてしまいそうなほど、あれが現つだったと証明するものは何もない。
しかも、あの時、一時的に左近中将が神の憑坐になっていたとしたら――。
今、目の前にいるのは、昔からよく知っている本来の彼なのかもしれない。
「……いや、失礼なことを言って申し訳なかった」
「お元気になられて何よりです。貴殿がおられなくて、この十日、事後処理が大変だったのですよ」
「あなたにも迷惑をかけたようだ。いずれ改めて礼をしよう」
そのまま軽く会釈をかわしてすれ違ったが、その直後、頼通は思わず振り返って呼び止めていた。
「何か?」
左近中将は振り返り、ゆったりとした仕草で小首を傾げる。
「美濃は……」
「彼女がどうかしましたか?」
「あ、いや、いいんだ。呼び止めて悪かった」
頼通は訝しがる左近中将から逃げるように踵を返し、北の対屋へ向かった。
今までの藤壺とは打って変わって、中宮の居所となっている北の対屋はひっそりとしたものだった。
御簾越しの女房たちの囁き合いやこっそりと笑い合う声も聞こえてこない。
「火事見舞い、遅れて申し訳なかった」
頼通は用意された円座に座りながら、御簾越しに中宮と向かい合った。
「いいえ。兄様の方こそ、もうお身体はよろしいの? 皆、心配しておりましたのよ。物の怪の仕業と聞いておりましたので」
「もう大丈夫だ。祈禱が効いたのかな」
「それはよかったですわ」
中宮の声は心なしか暗く、いつもの華やいだ雰囲気は全く感じられなかった。
「元気がないね」
「なかなかそんな気分になれなくて。あの火事で亡くなった者もおりましたし、怪我で里下がりしている者も……」
「では、美濃は今、こちらに……?」
束の間の沈黙が走る。
おそらく答えは否。
「行方不明ですの。彼女の隣の局だった和泉が死んでしまったので、もしかすると……」
「そうか」
正体を知っている頼通からすると、美濃が死んでしまったとは考えにくい。
どこかで生きているに違いないと思う。
しかし、どこに……?
生きているのなら、なぜ逢いに来ない。
逢いに来ないのは、もう逢うつもりがないからなのだろうか。
「兄様、美濃のことで何かわかりましたら、すぐにお知らせしますわ」
「そうだね。よろしく頼むよ」
頼通は不安を隠すように微笑みながら答え、それから席を立った。




